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第八章
いちじろく(2)
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ヤマトへと急行する船上で、カザトはぼんやりと瀬戸内の海を眺めていた。
穏やかな波とやさしい陽光に照らされた風景の長閑さは、今この瞬間にも多くの兵が血を流していることが信じられないほどだ。
多くの島影が見える海路のはるか先には、旅人の座乗する船が見えている。
舳先のほうで何やら騒がしい音がした。
何事かとカザトが駆け付けると、兵たちが大隅隼人の捕虜の一人を引き出して海面に突き出しているのが眼に入った。
「やめろ、何をするか!」
とっさに間に割って入ったカザトは、兵たちに大喝して捕虜を背に庇った。
おそらく大隅では名のある領袖だったのだろう。立派な白髭をたくわえた老人が顔中に痣をつくりながらも鋭い眼差しでヤマトの兵を睨みつけている。
髭には血が黒いかたまりとなってこびり付いており、不当な扱いを受けていたのは明白だ。
兵を追い散らすとカザトは老人に向き直り、頭を垂れた。他の船や場所でもおそらく同様のことが行われているのではないか。
荒んだ人心のおぞましさに吐き気がこみ上げてくる。詫びの言葉を口にすることすらも上辺だけの事のように思えて、カザトはしばし顔を上げることができずにいた。
「阿多の隼人かね」
ふいに老人が口を開いた。
彼はこれまで何を訊ねられても、頑として一言も発しようとはしなかったのだ。そんな経緯もあって兵たちに眼の敵にされていたのだ。
厳めしい顔つきからは意外なほどの、穏やかな声をしている。はい、と返事をするカザトに老人は僅かに眼を細めてみせた。
「ヒギト、という男を知っているかね?」
その名を耳にして思わず眼を瞠ったカザトの様子に、老人は満足そうに頷いた。
「彼から阿多の若者の話はよく聞いているよ。こんな形でお目にかかれるとは思いもよらなかったがね」
老人はそう言って、今度はしっかりと微笑んだ。
「私たちはヤマトに対して何かを要求したり、交渉しようという気はもう微塵も残っていない。ただ、誇りを守るためだけに戦う。ヤマトから戻ってきた彼は、曽於乃石城にいるよ」
君がどうするのかは、君自身が決めることだ。そう言ったきり、老人はもとのように口を噤んだ。
やはりヒギトは大隅に戻り、隼人らの軍に合流していたのだ。そして最後の根城の一つでヤマトと戦い続けている―。
カザトは老人にもう一度頭を下げると、元来た航路を振り返った。
難波津に入港した船を降りると、カザトは真っ直ぐ旅人のもとへと向かった。周囲は都への移動のため隊列を整えつつあり、騒然としている。
「大隅に戻ります」
たったそれだけの短い言葉のうちに、カザトの思いのすべてを汲み取ったのか、旅人はしばし瞑目するように眼を閉じたのちゆっくりと頷いた。
「次の船までにはまだ間がある。今からなら都まで往復できるだろう。せめてあの娘に顔ぐらい見せてやれ」
そう言ってひらりと馬上に飛び乗ると、カザトに軽く挙手して隊列へと合流して行った。
何もかもお見通しなのだ。久しぶりに苦笑がこぼれてしまうのを感じながら、カザトは旅人の心遣いに感謝していた。
都の羅城門が見えてきたとき、カザトは胸が締め付けられるような思いに駆られた。三年前、不安な思いに押し潰されそうになりながら潜った門だ。それがいまや、故郷を凌ぐほどの懐かしさを覚えている。
カザトは独り隊列から離れ、もどかしいような思いで秦家の邸へと急いだ。
通いなれた門を潜って訪いを告げる。ほどなく、床板を踏み鳴らす音とともに貴志麻呂の姉が走り出てきた。
そうだ、初めて会った時には足音も立てずに歩む優雅な仕草に魅了されたのだった。そんな思い出がよみがえり、思わず頬が緩んでしまう。
「カザトさん」
カザトの姿を認めた彼女は、裸足のまま玄関口に駆け下りてくると、そのままカザトの胸に飛び込んだ。
ぎゅっと抱き合ったのはほんの一瞬のはずなのに、もう随分前からそうしていたかのような、不思議な感覚が夢のように心地よい。だが、貴志麻呂の姉はカザトが一人だけで訪れたことから事情を察したようだった。
「まだ戦は終わっていないのね」
そう言って眼を伏せる彼女だったが、すぐに気を取り直してカザトを邸内へと導いた。邸は清掃が行き届いているものの、少し荒れたようだった。女の一人居での心細さを思うと胸を衝かれる。
すぐに暇を告げるつもりだったが貴志麻呂の姉は有無を言わせず、ともに夕餉をとることになった。
話したいことがいくらでもあったように思うのに、二人きりで向かい合うと何も言葉が出てこない。彼女も多くを語ろうとはしなかった。
だがそれは、息苦しさよりも心地よさの方が勝った、甘美な時間のようにカザトは感じていた。思えばこれまで幾度となく秦家を訪れているが、夕餉まで甘えるのは初めてのことだ。
外が随分と暗いようだと思ったら、いつの間にか雨が降り出していた。屋根を叩く音からも徐々にその勢いを増しているようだ。
こんな時、どこからか雨が漏ったりしたら彼女はどうするのだろうと、そんなことを考えてしまう。
「明日の船で戦場に戻ります」
唐突に発した言葉だったが、カザトの意思を予期していたのか、貴志麻呂の姉は表情を変えなかった。
「わかりました。では今夜はここでお休みなさい。この雨もしばらくは止まないでしょう。床を延べますので、おまちください」
そう言ってカザトが遠慮する間も与えず床が用意され、灯明皿に火が点される。部屋が温かな橙色に浮かび上がり、夢の中にでもいるかのような光景だ。
いったん部屋を出た彼女は、ほどなく湯を満たした浅い容器を携えて戻ってきた。布を湯に浸し、絞りながらそっけなくカザトに声をかける。
「戦の埃を落とします。服を脱いで」
さすがに驚いて、自分でやります、とかぶりを振るカザトだったが、
「背中なんか届かないでしょ」
と、なんだか少し怒ったように返されてしまい、困惑しながらも彼女の言葉に従って諸肌を脱いだ。
貴志麻呂の姉が湯で優しくカザトの背中を拭っていく。
時折彼女のすべらかな指先が肌に触れ、甘いくすぐったさに頭の芯が痺れてしまいそうだ。
「ひどい怪我だわ」
前線で鉾を振るったわけではなったが、カザトは矢傷や細かい創傷を無数に負っていた。傷口に触れないよう、細心の注意を払って布を当ててくれているのが伝わってくる。
「すぐ戻るから、このまま待っていて」
そう言って持って来たのは、小さな貝殻に詰められた傷薬だ。そうだ、初めて秦家を訪れた際にも、彼女がこうして薬を塗ってくれたのだった。
あの時と同じように、やさしく傷口をなぞる感触に身をゆだねながら、カザトは胸がはりさけるような切なさを感じていた。
本当はあの瞬間に、恋に落ちたのだ。この人のことが、心から好きになっていたのだ。腹側の傷に伸びてきたその手を、カザトは思わず握りしめていた。
そっと手を握り返す感触に続いて、背中にやわらかい体温を感じる。カザトは振り返り、今度こそ強く強く彼女を抱きよせた。
どれくらいそうしていただろう。やがて彼女はゆっくりとカザトから身を離すと、居住まいを正して端座した。
「カザトさま」
うるんだ眼をまっすぐに向けながら、かすれた声で囁きかける。
「名を、問うてくださいませ」
カザトはあたかも神聖な儀式に臨むように、万感の思いで彼女にその名を問うた。
「私の名は、火乃売(ほのめ)、です。これよりは〝ほのめ〟とお呼びください」
そしてようやく、いつものような笑顔を見せて灯明の火をふっと吹き消した。
抱き合いながらカザトは何度も何度も彼女の名前を呼んだ。
言の葉が音になるたび、彼女の存在がより確かなものとして胸に宿っていくのが分かった。
命そのものである血潮を包んだ、練絹のような肌の温もりとやわらかさに溺れていきながら、今確かに生きてここにいることを感じていた。
知らぬ間に眠りに落ちていたようだ。
ふと眼を覚ますといつの間にか雨が上がり、雲の切れ間から月の光が射しこんできている。カザトの腕の中で眠る、火乃売の横顔を月明かりが照らし、長い睫毛が夜露を浴びたように濡れているのが見えた。
折しも宮門の方角からは隼人らの吠を発する声が聞こえてくる。
夜を通して吠声を行い、都に忍びよる魔を払うことも隼人に与えられた任務の一つだ。
都の人たちは眼に見えぬ何かに怯えながら、また無事に朝を迎えられることを祈っているのだ。それはたとえ、こんな幸福な夜を過ごすことができたとしても、決して拭い去ることのできないほどの畏怖なのだろうか―。
カザトが眼を覚ました気配に気付いたのか、火乃売もうっすらと眼を開け、カザトを見上げて艶然と微笑む。
「こんな歌をご存知ですか?」
そう言って、小さく澄み渡るような声で歌を詠み上げる。
隼人(はやひと)の 名に負う夜聲(よごえ) いちじろく
我が名は告(の)りつ 妻と恃(たの)ませ
夜の魔を払うという、名にし負う隼人の吠声のように、いまはっきりとわたしの名を申し上げました。さあ、妻として、わたしの全てを信じてください―。
この瞬間に、あまりにもぴったりと寄り添うような風情の歌だ。
ご存知ですか、と問いかけたことから古くから伝わるものかと思ったが、たった今火乃売自身が詠んだ歌なのではないか。そう思って訊ねると、
「詠み人しらず、ということにしておきましょう」
と言って笑い、ふたたびカザトに身をゆだねた。
次にカザトが眼を覚ました時には、すでに火乃売は身繕いを済ませており、丁寧に包まれた真新しい衣をそっと差し出した。
これまでカザトが手土産にもってきた布や糸で、彼女自ら拵えた物らしい。カザトは愛おしさで胸が溢れそうになる思いを振り切るように、勢いよく衣をその身にまとった。
外には一面の霧が立ち込めている。カザトも火乃売も、お互いにもう何も口にしようとはしなかった。
「行ってまいります」
ただそれだけを告げてカザトは秦の邸を後にした。
門口まで見送りにきた火乃売が両の腕にたらした領巾(ひれ)を、カザトの姿が霧に隠れて見えなくなるまで振り続けていたことも、そしてそれが夫の無事の帰りを祈るまじないであることも、全て分かっていたが、絶対に振り返らないと決めていた。
穏やかな波とやさしい陽光に照らされた風景の長閑さは、今この瞬間にも多くの兵が血を流していることが信じられないほどだ。
多くの島影が見える海路のはるか先には、旅人の座乗する船が見えている。
舳先のほうで何やら騒がしい音がした。
何事かとカザトが駆け付けると、兵たちが大隅隼人の捕虜の一人を引き出して海面に突き出しているのが眼に入った。
「やめろ、何をするか!」
とっさに間に割って入ったカザトは、兵たちに大喝して捕虜を背に庇った。
おそらく大隅では名のある領袖だったのだろう。立派な白髭をたくわえた老人が顔中に痣をつくりながらも鋭い眼差しでヤマトの兵を睨みつけている。
髭には血が黒いかたまりとなってこびり付いており、不当な扱いを受けていたのは明白だ。
兵を追い散らすとカザトは老人に向き直り、頭を垂れた。他の船や場所でもおそらく同様のことが行われているのではないか。
荒んだ人心のおぞましさに吐き気がこみ上げてくる。詫びの言葉を口にすることすらも上辺だけの事のように思えて、カザトはしばし顔を上げることができずにいた。
「阿多の隼人かね」
ふいに老人が口を開いた。
彼はこれまで何を訊ねられても、頑として一言も発しようとはしなかったのだ。そんな経緯もあって兵たちに眼の敵にされていたのだ。
厳めしい顔つきからは意外なほどの、穏やかな声をしている。はい、と返事をするカザトに老人は僅かに眼を細めてみせた。
「ヒギト、という男を知っているかね?」
その名を耳にして思わず眼を瞠ったカザトの様子に、老人は満足そうに頷いた。
「彼から阿多の若者の話はよく聞いているよ。こんな形でお目にかかれるとは思いもよらなかったがね」
老人はそう言って、今度はしっかりと微笑んだ。
「私たちはヤマトに対して何かを要求したり、交渉しようという気はもう微塵も残っていない。ただ、誇りを守るためだけに戦う。ヤマトから戻ってきた彼は、曽於乃石城にいるよ」
君がどうするのかは、君自身が決めることだ。そう言ったきり、老人はもとのように口を噤んだ。
やはりヒギトは大隅に戻り、隼人らの軍に合流していたのだ。そして最後の根城の一つでヤマトと戦い続けている―。
カザトは老人にもう一度頭を下げると、元来た航路を振り返った。
難波津に入港した船を降りると、カザトは真っ直ぐ旅人のもとへと向かった。周囲は都への移動のため隊列を整えつつあり、騒然としている。
「大隅に戻ります」
たったそれだけの短い言葉のうちに、カザトの思いのすべてを汲み取ったのか、旅人はしばし瞑目するように眼を閉じたのちゆっくりと頷いた。
「次の船までにはまだ間がある。今からなら都まで往復できるだろう。せめてあの娘に顔ぐらい見せてやれ」
そう言ってひらりと馬上に飛び乗ると、カザトに軽く挙手して隊列へと合流して行った。
何もかもお見通しなのだ。久しぶりに苦笑がこぼれてしまうのを感じながら、カザトは旅人の心遣いに感謝していた。
都の羅城門が見えてきたとき、カザトは胸が締め付けられるような思いに駆られた。三年前、不安な思いに押し潰されそうになりながら潜った門だ。それがいまや、故郷を凌ぐほどの懐かしさを覚えている。
カザトは独り隊列から離れ、もどかしいような思いで秦家の邸へと急いだ。
通いなれた門を潜って訪いを告げる。ほどなく、床板を踏み鳴らす音とともに貴志麻呂の姉が走り出てきた。
そうだ、初めて会った時には足音も立てずに歩む優雅な仕草に魅了されたのだった。そんな思い出がよみがえり、思わず頬が緩んでしまう。
「カザトさん」
カザトの姿を認めた彼女は、裸足のまま玄関口に駆け下りてくると、そのままカザトの胸に飛び込んだ。
ぎゅっと抱き合ったのはほんの一瞬のはずなのに、もう随分前からそうしていたかのような、不思議な感覚が夢のように心地よい。だが、貴志麻呂の姉はカザトが一人だけで訪れたことから事情を察したようだった。
「まだ戦は終わっていないのね」
そう言って眼を伏せる彼女だったが、すぐに気を取り直してカザトを邸内へと導いた。邸は清掃が行き届いているものの、少し荒れたようだった。女の一人居での心細さを思うと胸を衝かれる。
すぐに暇を告げるつもりだったが貴志麻呂の姉は有無を言わせず、ともに夕餉をとることになった。
話したいことがいくらでもあったように思うのに、二人きりで向かい合うと何も言葉が出てこない。彼女も多くを語ろうとはしなかった。
だがそれは、息苦しさよりも心地よさの方が勝った、甘美な時間のようにカザトは感じていた。思えばこれまで幾度となく秦家を訪れているが、夕餉まで甘えるのは初めてのことだ。
外が随分と暗いようだと思ったら、いつの間にか雨が降り出していた。屋根を叩く音からも徐々にその勢いを増しているようだ。
こんな時、どこからか雨が漏ったりしたら彼女はどうするのだろうと、そんなことを考えてしまう。
「明日の船で戦場に戻ります」
唐突に発した言葉だったが、カザトの意思を予期していたのか、貴志麻呂の姉は表情を変えなかった。
「わかりました。では今夜はここでお休みなさい。この雨もしばらくは止まないでしょう。床を延べますので、おまちください」
そう言ってカザトが遠慮する間も与えず床が用意され、灯明皿に火が点される。部屋が温かな橙色に浮かび上がり、夢の中にでもいるかのような光景だ。
いったん部屋を出た彼女は、ほどなく湯を満たした浅い容器を携えて戻ってきた。布を湯に浸し、絞りながらそっけなくカザトに声をかける。
「戦の埃を落とします。服を脱いで」
さすがに驚いて、自分でやります、とかぶりを振るカザトだったが、
「背中なんか届かないでしょ」
と、なんだか少し怒ったように返されてしまい、困惑しながらも彼女の言葉に従って諸肌を脱いだ。
貴志麻呂の姉が湯で優しくカザトの背中を拭っていく。
時折彼女のすべらかな指先が肌に触れ、甘いくすぐったさに頭の芯が痺れてしまいそうだ。
「ひどい怪我だわ」
前線で鉾を振るったわけではなったが、カザトは矢傷や細かい創傷を無数に負っていた。傷口に触れないよう、細心の注意を払って布を当ててくれているのが伝わってくる。
「すぐ戻るから、このまま待っていて」
そう言って持って来たのは、小さな貝殻に詰められた傷薬だ。そうだ、初めて秦家を訪れた際にも、彼女がこうして薬を塗ってくれたのだった。
あの時と同じように、やさしく傷口をなぞる感触に身をゆだねながら、カザトは胸がはりさけるような切なさを感じていた。
本当はあの瞬間に、恋に落ちたのだ。この人のことが、心から好きになっていたのだ。腹側の傷に伸びてきたその手を、カザトは思わず握りしめていた。
そっと手を握り返す感触に続いて、背中にやわらかい体温を感じる。カザトは振り返り、今度こそ強く強く彼女を抱きよせた。
どれくらいそうしていただろう。やがて彼女はゆっくりとカザトから身を離すと、居住まいを正して端座した。
「カザトさま」
うるんだ眼をまっすぐに向けながら、かすれた声で囁きかける。
「名を、問うてくださいませ」
カザトはあたかも神聖な儀式に臨むように、万感の思いで彼女にその名を問うた。
「私の名は、火乃売(ほのめ)、です。これよりは〝ほのめ〟とお呼びください」
そしてようやく、いつものような笑顔を見せて灯明の火をふっと吹き消した。
抱き合いながらカザトは何度も何度も彼女の名前を呼んだ。
言の葉が音になるたび、彼女の存在がより確かなものとして胸に宿っていくのが分かった。
命そのものである血潮を包んだ、練絹のような肌の温もりとやわらかさに溺れていきながら、今確かに生きてここにいることを感じていた。
知らぬ間に眠りに落ちていたようだ。
ふと眼を覚ますといつの間にか雨が上がり、雲の切れ間から月の光が射しこんできている。カザトの腕の中で眠る、火乃売の横顔を月明かりが照らし、長い睫毛が夜露を浴びたように濡れているのが見えた。
折しも宮門の方角からは隼人らの吠を発する声が聞こえてくる。
夜を通して吠声を行い、都に忍びよる魔を払うことも隼人に与えられた任務の一つだ。
都の人たちは眼に見えぬ何かに怯えながら、また無事に朝を迎えられることを祈っているのだ。それはたとえ、こんな幸福な夜を過ごすことができたとしても、決して拭い去ることのできないほどの畏怖なのだろうか―。
カザトが眼を覚ました気配に気付いたのか、火乃売もうっすらと眼を開け、カザトを見上げて艶然と微笑む。
「こんな歌をご存知ですか?」
そう言って、小さく澄み渡るような声で歌を詠み上げる。
隼人(はやひと)の 名に負う夜聲(よごえ) いちじろく
我が名は告(の)りつ 妻と恃(たの)ませ
夜の魔を払うという、名にし負う隼人の吠声のように、いまはっきりとわたしの名を申し上げました。さあ、妻として、わたしの全てを信じてください―。
この瞬間に、あまりにもぴったりと寄り添うような風情の歌だ。
ご存知ですか、と問いかけたことから古くから伝わるものかと思ったが、たった今火乃売自身が詠んだ歌なのではないか。そう思って訊ねると、
「詠み人しらず、ということにしておきましょう」
と言って笑い、ふたたびカザトに身をゆだねた。
次にカザトが眼を覚ました時には、すでに火乃売は身繕いを済ませており、丁寧に包まれた真新しい衣をそっと差し出した。
これまでカザトが手土産にもってきた布や糸で、彼女自ら拵えた物らしい。カザトは愛おしさで胸が溢れそうになる思いを振り切るように、勢いよく衣をその身にまとった。
外には一面の霧が立ち込めている。カザトも火乃売も、お互いにもう何も口にしようとはしなかった。
「行ってまいります」
ただそれだけを告げてカザトは秦の邸を後にした。
門口まで見送りにきた火乃売が両の腕にたらした領巾(ひれ)を、カザトの姿が霧に隠れて見えなくなるまで振り続けていたことも、そしてそれが夫の無事の帰りを祈るまじないであることも、全て分かっていたが、絶対に振り返らないと決めていた。
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