吠声(はいせい)

三條すずしろ

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第九章

咆哮(1)

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 大隅に戻ってきたカザトに、貴志麻呂は猛然と怒りをあらわにした。

 何故戻ってきた、今すぐヤマトに帰れ、と激しく言い立てたがカザトは頑として首を縦に振らない。

 カザトが不退転の意思で戦場に戻ってきたことを悟った貴志麻呂は、とうとう根負けして前線に出ないことを条件に隊への復帰を承諾したのだった。

 本当はお互いに、それぞれの胸の内が痛いほどよく分かっている。

 それだけに余計辛さが勝る。しかし、一刻も早くこの戦を終わらせなければ、さらに多くの血が流されることになるのだ。

 今はただ、戦乱の憂いを無くし、貴志麻呂とともに無事ヤマトへと帰ることだけがカザトの望みだった。

 総指揮権が旅人から二人の副将軍へと委譲されたヤマトの軍勢は、二箇所の山城に立て籠もる大隅隼人の早期制圧を目論んでいた。

 季節はようやく冷涼さを感じるようになっていた。灼熱地獄のような炎天下での戦闘が無謀であることは、骨身に沁みて分かっていたため、勝負をかけるならば秋から冬にかけての、暑さの心配がない時期に限るのではないか。この南国ではたとえ真冬でも雪の心配はまずあるまい。

 だが、そんなヤマトの見通しすら、甘過ぎたことを間もなく思い知らされることになる。

 同年九月、まるで大隅での乱に呼応するかのように、遠く北辺の陸奥国で按察使(あぜち)・上毛野(かみつけぬ)広人(ひろと)が殺害され、蝦夷たちが武装蜂起に踏み切った。それによってヤマトは北へも兵の動員を余儀なくされたのだった。

 その余波は少なからず大隅での兵営にも影響していた。秋・冬期における総攻撃を計画したものの、武器・防具、食糧などの補給物資の流れが、目に見えて滞っているのだ。

 いくら南国とはいえ、冬場は相応の冷え込みがあり、充分な装備がなければ戦どころではない。頼みにしていた物量が心もとなくなり、将兵たちは浮足立った。戦況は、まさに泥濘の深みにはまり込んでいた。



 養老五年(七二一)五月―。開戦からは実に一年以上が経過していた。

 ようやくのことで軍備を整えたヤマト勢は、炎熱の季節に焼かれる前に雌雄を決すべく動き出した。最後の総力戦を展開する構えで、大隅隼人らが立て籠もる終の砦、「曽於乃石城」と「比売之城」を包囲すべく進軍を開始した。

 カザトは貴志麻呂と同じ隊の一員として、曽於乃石城へと迫っていた。大隅の隼人らは方々の狭隘地や渓谷などに潜伏し、ヤマトの軍勢がさしかかるのを待ち伏せて襲撃する戦法を得意としていた。

 狭い道で隊が細長く伸びきったところを見計らって、左右から矢を射かけ、矢が尽きれば騎馬で、あるいは徒歩(かち)で鉾や剣を振りかざし、突撃を敢行してくるのだ。

 隼人とは「早人」のことだ、と言われることがあるが、確かに大隅隼人らの戦闘での俊敏さと勇猛さはその名に相応しい。ましてや死を決し、傷付くことを厭わずに躍りかかるその様は、ヤマトの将兵たちにとって恐怖以外の何物でもなかった。

 行軍は慎重を極め、夜襲に備えての警備も厳重なものになっていた。

 曽於乃石城を目前にしての野営の夜、カザトは一人焚火を前に物想いに耽っていた。これから攻めようとしている山城にヒギトがいる。自分はもう一度ヒギトと戦うことになるのだろうか。もしそうなったとしても、それで戦況がどう変わるものでもないことは分かりきっていたが、何故かそうすることこそが自分に与えられた使命のように感じていた。

 それに……火乃売とのこともきちんと打ち明けねばなるまい。しかしその機をはかりかね、どう切り出したものか悩むうちに時ばかりが過ぎていく。やはり何もかも落ち着いてからでなければ難しいだろう。

 人の気配を感じて振り仰ぐと、いつの間にか貴志麻呂が傍に佇んでいた。

 カザトの横にゆっくりと腰をおろすと、ほんの少し笑ってみせる。大隅着陣以来、以前の快活さを失ったように塞ぎがちだった貴志麻呂は、このところ目に見えて憔悴の度合いを強めていた。落ちくぼんだ眼に、こけた頬は痛々しいばかりだ。

 思えばこうして並んで腰かけるのもいつ以来だろうか―。

 貴志麻呂は手元の枝を小さく折っては焚火にくべながら、ゆらめく炎に眼を細めている。

「秦の先祖の話をしたことがあったかな?」

 カザトが首を横に振ると、じゃあ聞いてくれるか、と言って語り始めた。

「遠い昔、秦の先祖はいま唐の国がある大陸で暮らしていた。その時はまだ唐の国はなかったんだけど、来る日も来る日も戦ばかりの続く、暗くて悲しい時代だったそうだ」

 ぽきん、と枝を折って火に放り、貴志麻呂はさらに話を続ける。

「噂によると東の海に、争いのない楽土のような島があるらしい。緑は濃く豊かで、人の心も穏やかで、怒る、ということを知らないとも言われていた。秦の先祖はそんな島があるのならどうしても行ってみたいと願った。そして船をこしらえて、一族みんなでその島をめざして漕ぎ出した」

 その言い伝えはカザトも耳にしたことがあった。渡来人の名門たる秦の一族が、故国の戦火を逃れてヤマトへと旅立つ話だ。たしか「秦」という族名もその国の名からとられたものではなかったか。

 だが、貴志麻呂自身の口から聞くのは初めてだ。カザトは黙って頷き、話の続きを眼で促す。

「はじめのうちは、その島国はまさしく楽土に思えた。でもほどなく、そこに暮らす人々が怒りを知らない、というのは本当ではないことが分かってきた。故国と同じように、憎しみ合い、傷つけ合う人々の所業を、秦の一族は哀しい思いで見続けてきた」

 貴志麻呂は大きく息をつくと、掌を焚火に向けてかざした。火明りに透かされた血潮が、炎の色と相まって真っ赤にその手を縁取っている。

「祖父(じい)さまいわく、俺の家が拳足の技を伝えてきたのは、本当は戦うためではないんだ」

 謎かけのような言葉にカザトは首を傾げる。きょとん、としたその様子がおかしかったのか、貴志麻呂は白い歯を見せた。

「己の拳だけで戦う、というのは生身の人と人とが直接ぶつかり合うことの痛みを忘れない、ということらしいんだ。そりゃ戦のためなら殴る技なんかよりも、武器を扱う術や兵を動かす法を学んだほうが早い。けど、武器を持てば相手より強い武器を欲して、さらにそれを上回る武器を求めて、果てがない。そんなことに、果たして意味なんかあるのか……」

 貴志麻呂の言うことは、いみじくもカザトが感じ続けていたことと全く同じだった。拳足の技のみならず、それはスマイにしても言えることではないだろうか。

痛みを知ること―。

 それは命の重みを知ることにほかならない。

 そしてその感覚は己の身体で感じとるしかないものなのだ。それは、自身が決して傷付くことのない安全な場所から兵たちに戦うことを命じるだけの、血を流さぬ者たちには決して分からないことだろう。

「ヤマトのやり方は間違っている」

 貴志麻呂はきっぱりとそう言い放った。

「北の国では蝦夷たちも蜂起したというじゃないか。南へ北へ、兵を差し向けることなどいつまでもできるわけがない。たとえそうやって力づくで隼人や蝦夷を従わせたとしても、彼らは何度でも立ち上がるだろう。恨みは、千年も二千年も受け継がれる」

 カザトは言葉もなく、貴志麻呂の言うことに耳を傾けるだけだった。

 確かに今のままではヤマトと隼人、あるいは蝦夷は永遠に手を取り合うことなど不可能だろう。だがカザトと貴志麻呂のように徒手空拳でぶつかり合い、理解し合えるという絆も確かに存在するのだ。

「あの頃は楽しかったなあ」

 ふっと遠くを見やるような眼をして貴志麻呂がつぶやく。

 カザトも一瞬、同じことを考えていた。そうだ、本当に楽しい日々だった。だがそんな日常の裏では、今日の戦へと至る熾火がくすぶり続けていたのだ。

 早くあの頃のように屈託なく笑い合えるような日々が訪れてほしい。願うことはただそれだけだ。

 貴志麻呂がゆっくりと立ち上がり、空を仰いだ。つられてカザトも顔を上げる。ヤマトで目にしていたものと寸分たがわぬ星の並びが認められ、不思議な気持ちがこみ上げてくる。あの星々からすれば、この地上の出来事などとるに足らない歴史の一幕に過ぎないのだろうか。多くの血が流された哀しい戦の記憶すらやがて誰からも忘れられ、永遠に失われてしまうのだろうか―。

「なあ、カザト」

 宙から目を転じた貴志麻呂は、カザトを見つめたままその後の言葉を躊躇うように口ごもった。

「……やっぱり、この戦が終わったら言うことにするよ」

 じゃあ、お休み、と言い置いて背を向け、自分の兵舎へと戻ってゆく。暗闇の中、何故かその背中がいつまでもくっきりと白く、カザトは暫くの間目を離すことができずにいた。
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