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第十章
風招(かざおぎ)
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曽於乃石城を包囲する陣中で、カザトは一人眼前に聳える山城を見上げていた。
狂ったように咆え続けた喉は、刃物で切り裂かれたかのような痛みに覆われている。口中に不快な鉄の味が止めどなく湧き上がり、吐き出した唾には鮮血が混じっていた。だが、カザトはそれ以上に、己が奪い取った命の生々しい感触に苛まれ続けていた。
甲冑ごと身体を鉾で貫いた時の手応え。
腕をへし折りながら地面に叩き付けた時の手応え。
顔面が陥没するほど拳を突き込んだ時の手応え。
貴志麻呂を失った哀しみと怒りが、憎悪となって迫りくる敵達に振り向けられたのだ。
激情の赴くままに、同胞のはずの大隅隼人らを殺めていった。もはや後戻りはできない。
この戦が最終局面を迎えていることは明白だ。明朝、曽於乃石城攻略を目的に、最後の総攻撃を仕掛けることになっている。
カザトは予感していた。この戦場で再び大隅のヒギトと相まみえることを。
その先にどんな未来が待ち受けているのかは分からない。だが、そうすることだけが、自分にとってのこの戦を終結させる、唯一の方法だと思われてならない。
決着をつけよう―。
山城のどこかにいるであろうヒギトに、カザトは心の中で呼びかけていた。
ついに、曽於乃石城を包囲していたヤマトの軍が動き出した。
全方位から兵を繰り出して、完全に大隅隼人らを制圧することを目的とした、文字通りの最終決戦だ。
カザトは前進して行く隊列から離れ、山城へと至る踏み分け道を目指してゆっくりと歩を進めた。途端に、風切り音とともに矢羽根が耳元をかすめていった。
無論のこと、人が登って行ける道を簡単に通す訳がない。重点的に弓兵を配置しているのだろう。続けざまに矢がカザトのすぐ側に突き立った。
だが、カザトは構うことなくさらに歩を進める。登り口にさしかかったところで、おもむろに身に着けていた甲冑をすべて脱ぎ捨て、大きく息を吸い込んだ。
カザトは吠えた。
狼の遠吠えにも似たその声は、木々の梢を渡り、山城の頂上まで届くかと思われるほどに響き渡った。
続けて、さらに吠える。カザトは大隅の隼人が行う、吠声の本声を発していた。阿多の隼人が決して発することのないその声に、果たして矢の雨はぴたりと止んだ。
眼の前の踏み分け道が、僅かに胸襟を開いたような錯覚を抱く。
カザトは呼吸を整えると、曽於乃石城の懐へと誘うその道へと踏み出した。
山肌にとりついたヤマトの兵が、徐々に包囲網を狭めていっているようだ。方々で怒号や剣戟の音がこだましている。
一年以上にも及ぶ長い戦闘の末、精強な大隅隼人らもついに最後の舞台へと追い込まれつつあるのだ。
踏み分け道を登りきったカザトは、平坦に開けた高台へと至った。そこかしこで展開しているヤマトの兵と大隅隼人らの戦いが一望できる場所だ。
甲冑を身に付け、長柄の鉾を肩に担いだ男がこちらに背を向ける格好で、じっと戦いの様子を見下ろしている。
もはや見紛うことのないその後ろ姿は、カザトを妙に懐かしい気持ちにさせていた。
「遅かったな」
ヒギトはゆっくりと振り向くと、担いでいた鉾を逆さにして、地面へと突き立てた。そして甲冑の綴じ紐に手をかける。
「ヤマトで安穏としていればよかったものを……わざわざ大隅まで同胞殺しに来るとはな」
そう言いながらヒギトはまとっていた甲冑を脱ぎ捨て、カザトに向かって踏み出した。
「だが……、嬉しくない、と言えば嘘になる」
うっすらと口角を吊り上げ、両の手をじわりと拳に握っていく。
いいようのない威圧感に、カザトは思わず気圧されるのを感じる。この戦で死線を潜りぬけてきたヒギトだ。かつて阿多やヤマトで立ち合った時とは比べものにならないほどの力を身に付けていることがよく分かる。
だが、カザトはここでヒギトと最後の勝負をするためにやってきたのだ。
「決着をつけよう。ヒギト」
そう応えると、カザトも同じく足を踏み出した。
互いに歩を進めながら、二人とも徐々にその速度を増していった。
やがて双方が走り込むように間合いに入り、同時に強烈な蹴りを繰り出した。
空中で交錯する両者の脚が、衝撃で瞬間動きを止める。しかし続けざまに二撃、三撃と蹴りの応酬が続き、さながら神話に登場するスマイの始祖たちの立ち合いのようだ。
蹴り技が互角であることを悟った二人は、今度は拳を固めて正面から殴り合った。貴志麻呂の刃物のような鋭い突きを受け、自身もそれを真似て鍛錬してきたカザトだったが、ヒギトの拳は重く鈍い衝撃となって骨の髄にまで浸透してくる。
阿陀の翁に教わったとおり、全身の筋肉を締めて防ごうとするが、耐え切れずに大きく下がって間合いを切った。
即座に追撃してくることを予想したが、ヒギトは追ってこようとはせず、間合いの広がった間に悠々と構え直している。呼吸は一切の乱れを見せず、汗一つかいてもいない。
対してカザトは拳の突きで押し負けた形になり、僅かに心のゆとりを欠いているのを自覚していた。
「拳足の技はさして上達していないな」
冷ややかにヒギトが言い放つ。
「ヤマトの飼い主に仕込まれた芸は、その程度か?」
ヒギトの挑発に乗せられ、カザトは反射的に突っ込んでいった。冷静になれ、と頭の芯が命じているにもかかわらず、貴志麻呂を冒涜された怒りに任せて思考が弾け飛んだように何も考えられない。
狂ったように咆えながら、固めた拳をヒギトに向けて浴びせかける。やみくもに突き出した一撃がヒギトの頬をかすめ、髪を束ねた紐を断ち切った。総髪が散らばり、頬からは赤い糸のように一筋の血が滴った。
「ヤマトの狗め!」
ヒギトの絶叫が山城に木霊し、二人の拳が幾度となく交わっては、互いの身体に弾けていった。
激しい打ち合いのさなか、カザトは不思議な感覚に浸されていた。
頭の中も、視界に映る敵以外の何もかも、全てが真っ白だ。
だが、身体に受ける拳の痛みや衝撃とともに、とめどなくヒギトの想いが流れ込んでくるのをはっきりと感じていた。それはたとえようのないほどの、深い深い哀しみの色を帯びている。
隼人として大隅に生を受け、悲惨な戦乱を目の当たりにしてきた。ヤマトでは屈辱を耐えしのび、時に道化を演じ、時に狗となった。そして唯一の好敵手と認めた相手とは、こうして戦場で拳を交えることとなった。
ヒギトは誰も、そして何も最初から憎んでなどはいないのだ。
ただひたすらに哀しみを振り払い、運命に抗おうとしているだけだったのだ。
下顎に強い衝撃を受けて、カザトの思考が完全に断ち切られた。ヒギトの放った突きの威力で、カザトの意識は混濁していく。
倒れまい、と踏みとどまった瞬間に今度は正面から組み付かれたことを感じる。視界は靄がかかったようにおぼろで、ヒギトの姿を捉えることはまだできない。
しかしここで力を緩めることは、文字通りの命取りになるだろう。カザトはあらん限りの力を振り絞り、組み合いに真っ向から応じた。
組み合った二人は、千古の昔からそこにあった巨岩のごとく動かない。だが、互いの全神経は細かく振動し、その均衡が僅かに崩れる刹那に躍りかかろうと、ますます研ぎ澄まされてゆく。
あの時と同じだ―。
開聞の岳を望む場所で初めて立ち合った時。
そして、ミカドを前に奈良の都で立ち合った時。いずれの仕合も、最後は真っ向から組み合って己の限界に挑んでいたのだ。
互いが心から欲した勝負とは、このようなものではなかったか。
たとえ、二人の死闘が歴史の記憶の底に埋められようとも、今確かに、命を削って互いの全存在をぶつけあっている。戦うことの意味など、ただそれだけで充分なのかもしれない。
心機ともに先に満ちたのはヒギトの方だった。旋風のように身体を反転させながら、強力な投げを打ってきた。投げられたらもう、命はない。
カザトは渾身の力を込めて踏ん張り、大地から引き剥がされまいと足掻いた。
だが足元の礫がすべり、カザトの脚が不自然なかたちで伸びきる。焚木の爆ぜるような乾いた音をたて、ふくらはぎの筋が幾本も引き千切れた。
激痛に呻き声を洩らしながらも何とか転倒だけは免れようと、必死で地面を踏みしめた。しかし、その大きな隙はカザトをまったくの無防備にし、ヒギトがやすやすとその背後に回り込むことを許してしまった。
振りほどこうとしたその手ごと巻き込まれ、カザトは後ろからがっちりと首に腕を回された。
もがけばもがくほどヒギトの腕は深く首に食い込み、喉と血の道が圧迫されて声を出すことすらできない。何とか縛めから逃れようと、もう片方の手をヒギトの腕にかけたが、鋼の枷のようなそれは微動だにしなかった。
カザトは残る力を振り絞り、指先に気を込めてヒギトの腕に散在する痛みの点を圧迫しようと試みた。火乃売に教わった柔らかい技の極致だ。
だが、カザトの未熟な技ではその経絡を正確に探り当てることは叶わず、ヒギトの力を殺ぐことは出来なかった。
「小細工を……。だがもう、楽になれ」
ヒギトの声が耳元で聞こえ、カザトは徐々に気が遠くなっていくのを感じた。首から上が膨れ上がったかのように鬱血し、頭の奥底からドクンドクンと脈打つような音が響いてくる。
もはや、これまでか―。
持てる限りの力と技を解放したが、ヒギトには及ばなかった。麻痺していく感覚の中で多くの人々の顔が脳裏に浮かんでは消えていく。
はじめてスマイの手解きをしてくれた在りし日の父。
人懐こい笑みを浮かべる貴志麻呂。
上機嫌で盃を傾ける、大伴旅人。
竹を割く手を止めて破顔する、阿陀の翁。
二人の大衣、ソバカリとサシヒレ。
拳を交え、心を交わしてきた好敵手たち。
そして、艶然と微笑む火乃売。
薄れていく意識の果てに、カザトは最後にただ一つ残った技に思いを馳せた。
自分に〝風〟を起こす力があれば―。生きて、ふたたび愛しい人にまみえたい―。
遮断される寸前の意識に最後の火が点り、カザトは強くそう願った。
その時、耳の奥底が、遠く風の巻き立つような音を捉えた。
微弱だったそれは瞬く間に轟音となって押し寄せ、カザトはふいに断崖に投げ出されたかのように全身の緊張を失った。
次の瞬間、巨大なうねりとなった風のようなものが二人を諸共に呑み下し、カザトはそれきり意識を失った。
夢を見ていた。
やわらかな陽射しが淡く白く、カザトに降りそそいでいる。
遠く開聞の岳がいつか見たあの日のままの姿でゆったりと聳えている。一面がまぶしい光に包まれ、眼下に広がる光景に眼をやって息をのんだ。
吹き渡るやさしい風にその身をゆだねて揺れているのは、見はるかす限りに広がる青い青い稲の穂だった。
ああ、この土地にもようやく稲が根付いたんだ―。
カザトは安堵して、どこまでも広がる稲の海に目を細めた。
やがて黄金に色づく実りの季節を迎え、白く甘いその実が多くの人々の糧となるのだろう。田の畔を子どもたちが楽しげに駆けてゆく。
争いからも、飢餓からも、あらゆる苦しみから解き放たれた楽土に住まう人たちの様子に、カザトは温かな思いに満たされてゆく。
ふと気付くと、少し離れた場所に佇み、同じようにその光景を眺めている長身の若者がいた。
穏やかに微笑むヒギトは、カザトが初めて見るようなやさしい眼差しを向けている。
そうか、ヒギトはこんな風に笑う男だったんだ―。
嬉しくなってカザトはヒギトに語りかける。
良かったな、ヒギト。子どもたちがあんなに楽しそうにしているよ。やっと争いのない平和な世が訪れたんだ。もう、誰も傷付かずにすむんだ―。
だがカザトの言葉は声にはならず、ただ青い稲の海がたゆたい続けるだけだ。
聞こえないはずの声が届いたのか、ヒギトがゆっくりとこちらを向いた。
ほんの僅かに眼を細めると、カザトに向かって微かに頷いてみせた。
全身を貫く激痛に、カザトは意識を取り戻した。
自分がいったいどうなっているのかも分からず、咄嗟に半身を起こそうとするが身体は痛み以外の感覚を失い、指一本動かすことすらできない。
霞む視界の中、ひとすじの影が自分に向かって落ち込んでいることに気が付いた。立ったまま、ヒギトがじっとこちらを見下ろしていた。
だが腕が不自然に折れ曲がり、もう一方の手で庇うようにしてそれを支えている。
「〝風〟を起こしたのか」
そう問いかけるヒギトの声は凪のように穏やかで、その瞳は月を宿したかのように澄み渡っている。
「見事だ、カザト」
ヒギトの口から零れたのは、敵を称える言の葉だった。
カザトは悟った。無意識に風招ぎの技を発し、ヒギトの腕から逃れることに成功したのだ。だが、立って自分を見下ろしているヒギトと、倒れたままヒギトを見上げている自分とでは勝負の行方は明らかだ。
敗れた自分にはもはや何の悔いもない。
このまま踏み殺してくれたらそれで全てが終わる。
ころせ、とカザトは唇を動かした。
だがヒギトは、しばしカザトを見つめると、逆さまに突き立てた鉾を片手で抜き取り、眼下で繰り広げられる最後の剣戟に目を移した。
「隼人の灯を、決して絶やすな」
そう言い置くとまっすぐに崖を駆け下り、乱戦のさなかへと躍り込んでいった。
カザトは声にならない声でその名を叫んだ。
だがヒギトは、残った最後の力を振り絞って戦場に吹き荒れるべく、一陣の風へとその身を化身させるのだった。
狂ったように咆え続けた喉は、刃物で切り裂かれたかのような痛みに覆われている。口中に不快な鉄の味が止めどなく湧き上がり、吐き出した唾には鮮血が混じっていた。だが、カザトはそれ以上に、己が奪い取った命の生々しい感触に苛まれ続けていた。
甲冑ごと身体を鉾で貫いた時の手応え。
腕をへし折りながら地面に叩き付けた時の手応え。
顔面が陥没するほど拳を突き込んだ時の手応え。
貴志麻呂を失った哀しみと怒りが、憎悪となって迫りくる敵達に振り向けられたのだ。
激情の赴くままに、同胞のはずの大隅隼人らを殺めていった。もはや後戻りはできない。
この戦が最終局面を迎えていることは明白だ。明朝、曽於乃石城攻略を目的に、最後の総攻撃を仕掛けることになっている。
カザトは予感していた。この戦場で再び大隅のヒギトと相まみえることを。
その先にどんな未来が待ち受けているのかは分からない。だが、そうすることだけが、自分にとってのこの戦を終結させる、唯一の方法だと思われてならない。
決着をつけよう―。
山城のどこかにいるであろうヒギトに、カザトは心の中で呼びかけていた。
ついに、曽於乃石城を包囲していたヤマトの軍が動き出した。
全方位から兵を繰り出して、完全に大隅隼人らを制圧することを目的とした、文字通りの最終決戦だ。
カザトは前進して行く隊列から離れ、山城へと至る踏み分け道を目指してゆっくりと歩を進めた。途端に、風切り音とともに矢羽根が耳元をかすめていった。
無論のこと、人が登って行ける道を簡単に通す訳がない。重点的に弓兵を配置しているのだろう。続けざまに矢がカザトのすぐ側に突き立った。
だが、カザトは構うことなくさらに歩を進める。登り口にさしかかったところで、おもむろに身に着けていた甲冑をすべて脱ぎ捨て、大きく息を吸い込んだ。
カザトは吠えた。
狼の遠吠えにも似たその声は、木々の梢を渡り、山城の頂上まで届くかと思われるほどに響き渡った。
続けて、さらに吠える。カザトは大隅の隼人が行う、吠声の本声を発していた。阿多の隼人が決して発することのないその声に、果たして矢の雨はぴたりと止んだ。
眼の前の踏み分け道が、僅かに胸襟を開いたような錯覚を抱く。
カザトは呼吸を整えると、曽於乃石城の懐へと誘うその道へと踏み出した。
山肌にとりついたヤマトの兵が、徐々に包囲網を狭めていっているようだ。方々で怒号や剣戟の音がこだましている。
一年以上にも及ぶ長い戦闘の末、精強な大隅隼人らもついに最後の舞台へと追い込まれつつあるのだ。
踏み分け道を登りきったカザトは、平坦に開けた高台へと至った。そこかしこで展開しているヤマトの兵と大隅隼人らの戦いが一望できる場所だ。
甲冑を身に付け、長柄の鉾を肩に担いだ男がこちらに背を向ける格好で、じっと戦いの様子を見下ろしている。
もはや見紛うことのないその後ろ姿は、カザトを妙に懐かしい気持ちにさせていた。
「遅かったな」
ヒギトはゆっくりと振り向くと、担いでいた鉾を逆さにして、地面へと突き立てた。そして甲冑の綴じ紐に手をかける。
「ヤマトで安穏としていればよかったものを……わざわざ大隅まで同胞殺しに来るとはな」
そう言いながらヒギトはまとっていた甲冑を脱ぎ捨て、カザトに向かって踏み出した。
「だが……、嬉しくない、と言えば嘘になる」
うっすらと口角を吊り上げ、両の手をじわりと拳に握っていく。
いいようのない威圧感に、カザトは思わず気圧されるのを感じる。この戦で死線を潜りぬけてきたヒギトだ。かつて阿多やヤマトで立ち合った時とは比べものにならないほどの力を身に付けていることがよく分かる。
だが、カザトはここでヒギトと最後の勝負をするためにやってきたのだ。
「決着をつけよう。ヒギト」
そう応えると、カザトも同じく足を踏み出した。
互いに歩を進めながら、二人とも徐々にその速度を増していった。
やがて双方が走り込むように間合いに入り、同時に強烈な蹴りを繰り出した。
空中で交錯する両者の脚が、衝撃で瞬間動きを止める。しかし続けざまに二撃、三撃と蹴りの応酬が続き、さながら神話に登場するスマイの始祖たちの立ち合いのようだ。
蹴り技が互角であることを悟った二人は、今度は拳を固めて正面から殴り合った。貴志麻呂の刃物のような鋭い突きを受け、自身もそれを真似て鍛錬してきたカザトだったが、ヒギトの拳は重く鈍い衝撃となって骨の髄にまで浸透してくる。
阿陀の翁に教わったとおり、全身の筋肉を締めて防ごうとするが、耐え切れずに大きく下がって間合いを切った。
即座に追撃してくることを予想したが、ヒギトは追ってこようとはせず、間合いの広がった間に悠々と構え直している。呼吸は一切の乱れを見せず、汗一つかいてもいない。
対してカザトは拳の突きで押し負けた形になり、僅かに心のゆとりを欠いているのを自覚していた。
「拳足の技はさして上達していないな」
冷ややかにヒギトが言い放つ。
「ヤマトの飼い主に仕込まれた芸は、その程度か?」
ヒギトの挑発に乗せられ、カザトは反射的に突っ込んでいった。冷静になれ、と頭の芯が命じているにもかかわらず、貴志麻呂を冒涜された怒りに任せて思考が弾け飛んだように何も考えられない。
狂ったように咆えながら、固めた拳をヒギトに向けて浴びせかける。やみくもに突き出した一撃がヒギトの頬をかすめ、髪を束ねた紐を断ち切った。総髪が散らばり、頬からは赤い糸のように一筋の血が滴った。
「ヤマトの狗め!」
ヒギトの絶叫が山城に木霊し、二人の拳が幾度となく交わっては、互いの身体に弾けていった。
激しい打ち合いのさなか、カザトは不思議な感覚に浸されていた。
頭の中も、視界に映る敵以外の何もかも、全てが真っ白だ。
だが、身体に受ける拳の痛みや衝撃とともに、とめどなくヒギトの想いが流れ込んでくるのをはっきりと感じていた。それはたとえようのないほどの、深い深い哀しみの色を帯びている。
隼人として大隅に生を受け、悲惨な戦乱を目の当たりにしてきた。ヤマトでは屈辱を耐えしのび、時に道化を演じ、時に狗となった。そして唯一の好敵手と認めた相手とは、こうして戦場で拳を交えることとなった。
ヒギトは誰も、そして何も最初から憎んでなどはいないのだ。
ただひたすらに哀しみを振り払い、運命に抗おうとしているだけだったのだ。
下顎に強い衝撃を受けて、カザトの思考が完全に断ち切られた。ヒギトの放った突きの威力で、カザトの意識は混濁していく。
倒れまい、と踏みとどまった瞬間に今度は正面から組み付かれたことを感じる。視界は靄がかかったようにおぼろで、ヒギトの姿を捉えることはまだできない。
しかしここで力を緩めることは、文字通りの命取りになるだろう。カザトはあらん限りの力を振り絞り、組み合いに真っ向から応じた。
組み合った二人は、千古の昔からそこにあった巨岩のごとく動かない。だが、互いの全神経は細かく振動し、その均衡が僅かに崩れる刹那に躍りかかろうと、ますます研ぎ澄まされてゆく。
あの時と同じだ―。
開聞の岳を望む場所で初めて立ち合った時。
そして、ミカドを前に奈良の都で立ち合った時。いずれの仕合も、最後は真っ向から組み合って己の限界に挑んでいたのだ。
互いが心から欲した勝負とは、このようなものではなかったか。
たとえ、二人の死闘が歴史の記憶の底に埋められようとも、今確かに、命を削って互いの全存在をぶつけあっている。戦うことの意味など、ただそれだけで充分なのかもしれない。
心機ともに先に満ちたのはヒギトの方だった。旋風のように身体を反転させながら、強力な投げを打ってきた。投げられたらもう、命はない。
カザトは渾身の力を込めて踏ん張り、大地から引き剥がされまいと足掻いた。
だが足元の礫がすべり、カザトの脚が不自然なかたちで伸びきる。焚木の爆ぜるような乾いた音をたて、ふくらはぎの筋が幾本も引き千切れた。
激痛に呻き声を洩らしながらも何とか転倒だけは免れようと、必死で地面を踏みしめた。しかし、その大きな隙はカザトをまったくの無防備にし、ヒギトがやすやすとその背後に回り込むことを許してしまった。
振りほどこうとしたその手ごと巻き込まれ、カザトは後ろからがっちりと首に腕を回された。
もがけばもがくほどヒギトの腕は深く首に食い込み、喉と血の道が圧迫されて声を出すことすらできない。何とか縛めから逃れようと、もう片方の手をヒギトの腕にかけたが、鋼の枷のようなそれは微動だにしなかった。
カザトは残る力を振り絞り、指先に気を込めてヒギトの腕に散在する痛みの点を圧迫しようと試みた。火乃売に教わった柔らかい技の極致だ。
だが、カザトの未熟な技ではその経絡を正確に探り当てることは叶わず、ヒギトの力を殺ぐことは出来なかった。
「小細工を……。だがもう、楽になれ」
ヒギトの声が耳元で聞こえ、カザトは徐々に気が遠くなっていくのを感じた。首から上が膨れ上がったかのように鬱血し、頭の奥底からドクンドクンと脈打つような音が響いてくる。
もはや、これまでか―。
持てる限りの力と技を解放したが、ヒギトには及ばなかった。麻痺していく感覚の中で多くの人々の顔が脳裏に浮かんでは消えていく。
はじめてスマイの手解きをしてくれた在りし日の父。
人懐こい笑みを浮かべる貴志麻呂。
上機嫌で盃を傾ける、大伴旅人。
竹を割く手を止めて破顔する、阿陀の翁。
二人の大衣、ソバカリとサシヒレ。
拳を交え、心を交わしてきた好敵手たち。
そして、艶然と微笑む火乃売。
薄れていく意識の果てに、カザトは最後にただ一つ残った技に思いを馳せた。
自分に〝風〟を起こす力があれば―。生きて、ふたたび愛しい人にまみえたい―。
遮断される寸前の意識に最後の火が点り、カザトは強くそう願った。
その時、耳の奥底が、遠く風の巻き立つような音を捉えた。
微弱だったそれは瞬く間に轟音となって押し寄せ、カザトはふいに断崖に投げ出されたかのように全身の緊張を失った。
次の瞬間、巨大なうねりとなった風のようなものが二人を諸共に呑み下し、カザトはそれきり意識を失った。
夢を見ていた。
やわらかな陽射しが淡く白く、カザトに降りそそいでいる。
遠く開聞の岳がいつか見たあの日のままの姿でゆったりと聳えている。一面がまぶしい光に包まれ、眼下に広がる光景に眼をやって息をのんだ。
吹き渡るやさしい風にその身をゆだねて揺れているのは、見はるかす限りに広がる青い青い稲の穂だった。
ああ、この土地にもようやく稲が根付いたんだ―。
カザトは安堵して、どこまでも広がる稲の海に目を細めた。
やがて黄金に色づく実りの季節を迎え、白く甘いその実が多くの人々の糧となるのだろう。田の畔を子どもたちが楽しげに駆けてゆく。
争いからも、飢餓からも、あらゆる苦しみから解き放たれた楽土に住まう人たちの様子に、カザトは温かな思いに満たされてゆく。
ふと気付くと、少し離れた場所に佇み、同じようにその光景を眺めている長身の若者がいた。
穏やかに微笑むヒギトは、カザトが初めて見るようなやさしい眼差しを向けている。
そうか、ヒギトはこんな風に笑う男だったんだ―。
嬉しくなってカザトはヒギトに語りかける。
良かったな、ヒギト。子どもたちがあんなに楽しそうにしているよ。やっと争いのない平和な世が訪れたんだ。もう、誰も傷付かずにすむんだ―。
だがカザトの言葉は声にはならず、ただ青い稲の海がたゆたい続けるだけだ。
聞こえないはずの声が届いたのか、ヒギトがゆっくりとこちらを向いた。
ほんの僅かに眼を細めると、カザトに向かって微かに頷いてみせた。
全身を貫く激痛に、カザトは意識を取り戻した。
自分がいったいどうなっているのかも分からず、咄嗟に半身を起こそうとするが身体は痛み以外の感覚を失い、指一本動かすことすらできない。
霞む視界の中、ひとすじの影が自分に向かって落ち込んでいることに気が付いた。立ったまま、ヒギトがじっとこちらを見下ろしていた。
だが腕が不自然に折れ曲がり、もう一方の手で庇うようにしてそれを支えている。
「〝風〟を起こしたのか」
そう問いかけるヒギトの声は凪のように穏やかで、その瞳は月を宿したかのように澄み渡っている。
「見事だ、カザト」
ヒギトの口から零れたのは、敵を称える言の葉だった。
カザトは悟った。無意識に風招ぎの技を発し、ヒギトの腕から逃れることに成功したのだ。だが、立って自分を見下ろしているヒギトと、倒れたままヒギトを見上げている自分とでは勝負の行方は明らかだ。
敗れた自分にはもはや何の悔いもない。
このまま踏み殺してくれたらそれで全てが終わる。
ころせ、とカザトは唇を動かした。
だがヒギトは、しばしカザトを見つめると、逆さまに突き立てた鉾を片手で抜き取り、眼下で繰り広げられる最後の剣戟に目を移した。
「隼人の灯を、決して絶やすな」
そう言い置くとまっすぐに崖を駆け下り、乱戦のさなかへと躍り込んでいった。
カザトは声にならない声でその名を叫んだ。
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でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
【時代小説】 黄昏夫婦
蔵屋
歴史・時代
江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。
そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。
秋田藩での仕事は勘定方である。
仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。
ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。
そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。
娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。
さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
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