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第四章 この宇宙の片隅で

1 諦念

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 薄緑に光る羊水の中で、男はぼんやりと浮かんでいる。
 こんな風に鬱々と意識を途切れさせながら眠りはじめて、いったいどのぐらいの時間がたったことか。

(もういい。……どうでもいい)

 あの子は行ってしまった。
 こんな情けない男に遂に幻滅し、見限って、この惑星から去って行った。
 もうきっと、戻って来ない。
 あの宇宙艇には、前回フランとあのゴリラ野郎が逃げた時の航路データが残っている。あの少年がそれを使うことを選択してくれているなら、きっと無事に彼らの所へたどり着いてくれるだろう。
 あとはお前らがなんとでもすればいい。
 そもそも、お前たちの子供なのだ。そこで育つのが本来の姿だったのだから。

 まだ半分ほどしか再生していない忌々しい体を見下ろして、男はこぽりと緑色の泡を吐く。
 体がそれなりに回復しないうちは、この《胎》は自分を解放してはくれない。前回、このドームに入り込んだ汚らしい「虫」を排除した時には、内側から一部分だけ筒を壊して直接引導を渡してやった。すでに体もほぼ回復し、腕を変形させるだけの体力が戻ってきていたからできたことだ。今の自分には、そのどちらも在りはしない。
 腰あたりからゆらゆらとのびて漂っている、触手のような体組織の帯をぼんやりと眺めつつ、男はまた目を閉じた。

(いいさ。……もう、どうでも)

 こんな砂ばかりの惑星で、まがいものの地下の「楽園」で。
 弟もいない、あの子もいない。
 こんな世界で、たった一人で生きていくなんて。
 そんなことに、一体どんな意味があるというのか。
 体が動かせるようになったらすぐに、この《胎》を出ていこう。不完全な状態で外へ出れば、前回のように表面から体細胞が破壊されることは分かっている。AIは「まだ動くな」とやかましいに決まっているが、そんなことはどうでもいい。

 ……こんな命は、もういらない。
 どうせ、最初から出来損ないの体だったのだ。誰にも求められない存在。無意味な命。はじめから、そんなものに過ぎなかったではないか。
 ひとつひとつの細胞に分かれ、有機物と無機物の塵に戻って、この星の砂と混ざり合ってしまえばいい。
 あの子のいないこの惑星ほしで、たったひとりで生きながらえる。
 そんなことにはもう、意味はない。
 たとえそれがあったとしても、そんなことに耐えられるとは思えなかった。


 それから、どのぐらいの時間が経っただろう。
 何度目かにゆるゆると目を開けたとき、男は遂にその時が来たことを知った。
 五体が一応もとの形を取り戻し、指先が自在に変形させられるようになっていたのだ。
 男は静かに微笑んだ。

 これで、終わらせることができる。
 もうこれ以上、この惑星で苦しむ必要はなくなるのだ。
 なんならこの場ですぐにも自分の首を切り飛ばしても良かった。だが、そうすることは踏みとどまった。何といっても、意味がない。この《胎》の中でどんなに自分を傷めつけたところで、また勝手にAIに再生させられるだけのことだからだ。
 男はそれで、もうしばらくゆっくりと待った。指先の感覚がもと通りになるまで、さらに百時間ほどは待たなくてはならなかったからだ。
 きちんとした「終焉」を迎えるために、きちんとした「療養」をせねばならないとは。腹立たしいこと、この上もない。この矛盾に満ちた状況に、男は一人で自嘲の笑みをこぼすほかなかった。

 だが、さらに数百時間の忍耐の果て。ようやく時は満ちた。
 男は遂にその腕を巨大ないくつもの鎌の形へと変形させた。

(……終わりだ。フラン)

 脳裏でそう呼んだのは、果たしてどちらの存在のことだったか。
 男は自分の鋭い腕を開いた。
 もしも見ている者があるならば、それは巨大な孔雀の羽のように見えただろう。
 そうして男は次の瞬間、その羽の群れを疾風はやてのごとく振りぬいた。





 宇宙艇が地下の格納庫で停止するのと、少年がハッチから飛び出したのとはほぼ同時だった。

(パパ……!)

 わき目もふらず、まっしぐらに《胎》の部屋へ走りこむ。
 が、扉が開くと同時に愕然とした。
 そこは以前とはすっかり様変わりしてしまっていた。
 中央部にあった巨大な《胎》が、粉々に破壊されている。恐らくは内側から鋭い刃物で切り裂いたのだろう。外側を覆っていた透明な筒が、今は大小さまざまな破片になって部屋いっぱいに飛び散っている。中を満たしていたはずの羊水が全部外へ流れ出して、部屋全体がすっかり池のようになっていた。
 背筋がぞくりと粟立った。

「パパ! どこっ……!?」

 必死にあちこちを見回すが、その場に男の姿はなかった。
 時間的に、恐らく彼はまだ完全には回復していない。中途半端に回復して外へ出てしまったら、最初のうちこそ平気でも、次第に細胞が死滅し始めるはずだ。
 放っておいたら、命が危ない。
 幸いにもと言うべきか、足元の羊水はほとんど蒸発していない。こういう事態になった時のため、ドームを管理するAIは素晴らしい清掃機能も備えている。零れた羊水を乾燥させ、散らばったがれきなどを片付けるためのロボットたちも存在する。
 それがまだ発動していない。それはつまり、男がここからいなくなってさほどの時間が経っていないことを意味していた。
 少年はこれらのことを一瞬で見てとった。そしてすぐに踵を返した。ドームの隅から隅まで駆け回り、男を探す。だが、ドーム内のどこにも男の姿はなかった。

「パパはどこ!? どこに行ったの!」
 肩で激しく息をしながら叫び散らす。
 AIは無機的な声で言った。
《アジュール様は二十六時間四十二分三十五秒前、《胎》を破壊して出て行かれました。現在は所在確認できません。発信機等をお持ちでないと思われます》
「もうっ……!」

 まったく、いざというときに役立たずなAIだ。今、そんな正確な時間の申告にどれほどの意味があるというのか。
 少年はしかたなく、再び宇宙艇の格納庫へと走った。男が地下の森のどこかにいるにしても、また外の砂の世界にいるにしても、翼のない少年にとって宇宙艇は必須だった。

 再び宇宙艇を稼働させ、まずは森の中を探索したが、男の姿はどこにもなかった。
 宇宙艇のレーダーを駆使しても、それらしい姿はまったく見えない。
 少年はすぐAIに、外界の砂漠へ向かうようにと指示した。

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