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第一部 邂逅編

プロローグ

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 今夜は《天井》がやけに騒がしい。
 はるか水底みなそこから見はるかすと、いつもならきらきらと水を透かして落ちてきているはずの月神つきがみの光も届かない。
 《天井》のが大きくうねって泡立ち、深部までぐるぐると混ぜ返そうと蠢いているのがわかる。
 自分の目には、さながら目の前で展開されているかのように、水の動きが読めるのだ。
 あそこの水は重く、あそこの水は軽い。
 あそこの水は濃く、あそこの水は薄い。
 こういうとき、生き物たちは息をひそめてじっと深部でたゆたっている。

『左様なときには、水底みなそこにてじっとお天道様をお待ち申し上げるのです。けっして不用意に<天井>の様子など見に行かれてはなりませぬぞ』──。

 我が国の最古老であるおばばは、おうの子らである自分たちや子供たちに折々に昔語りをしてくれるとき、そんなふうに言ってはいさめてくれる。
 だが、若者というものはいつの世もしょうことのない生き物だ。
 あの《天井》の荒れ模様が始まると、どうしてもうずうずと鳩尾みぞおちのあたりが落ち着かなくなる。全身と精神こころとが溌剌はつらつと、また生き生きと活動を始めるのを止められぬもの。
 その清冽せいれつな若さに任せ、うねる尾びれをびりびりと震わせて思い切り水をかく。
 まっすぐに《天井》をめざす。
 そのイメージが、いつまでも目の裏から離れてくれない。

(いや。今日こそは行ってくれよう)

 だれもが羨むつややかな銀鱗と長い銀髪をもつ男は、それに負けず劣らず人々から羨望の眼差しをうけとめる、涼やかな薄紫の瞳をぎらりと光らせた。
 よく日焼けをした鋼の胸板。そして隆々と筋肉の盛り上がったたくましい腕。
 これらがあれば、自分に怖いものなどないのだ。

 護衛兵らの目を巧みに盗み、男は易々と王宮を抜け出す。
 そうしてやがて一目散に、あの憧れの《天井》をめざした。





(ふむ。やはりか)

 《天井》が近づいてくるにつれ、そこがひどく擾乱じょうらんしていることがますますはっきりしてきた。
 今宵の天上世界は、どうやらひどい嵐であるようだ。
 水底みなそこに棲まう自分たちにしてみればまるきり余所事よそごととしか思われないし、どれほど天井うえが荒れ模様でもこちらにさほどの影響はない。たとえば赤子がわあわあ泣きわめいてその母親があたふたするほどにも驚く必要のないことなのだ。

 だが、おかの人々にしてみればそうも言ってはいられまい。
 だが、ならばなぜ、水中で呼吸もできないやつばらが斯様かようにしてまで水の上を行き来せねばならぬのだろう。あのように、すっかり科学力の衰えた技術でつくった貧弱な「船」などに頼ってまで。
 ひとたび水に落ちてしまえば、あっというまに酸素を取りこめなくなって命を喪うは必定であるというのに。

(ほれ。言わぬことではない)

 視界の端にあたふたと蠢く生き物の姿を認めて、皇子は薄紫の瞳をすっとすがめた。
 ああしてまた、この深淵なる水の世界へと落ちてきた者がある。

 なに、べつに助けてやる義理などない。
 彼らおかの者どもと自分たちとは、すでに千年もの昔にたもとを分かった間柄なのだから。
 ほら、もう口から空気の泡をいっぱいに吐きだして全身を痙攣させはじめている。
 動かなくなった四肢をだらんと水に預け、静かに沈み始めている。

 つたないものだ。
 ……可愛いものだ。
 
 生きよう、生きたいともがく姿は、どんな場面、生き物でも気高いものだ。
 それは美しいものだ。
 いずれ海の皇となる自分にとって、生きとし生けるものすべてはふところにいだき、ゆるゆるとでるべき命である。

 皇子は胸に掛かった真珠の飾りをしゃらりとゆらすと、ひとつ息をついた。
 そうして動かなくなった影を目指し、ぐいと尾鰭おびれで水をかいた。

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