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第一章 海の皇子と陸の王子
1 陸(おか)の王子
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その日はあいにく、大荒れの天候だった。
傘下の島々からの帰り道。だだっぴろい海原に浮かぶ大きな帆船の船端で、王子ユーリは船体の縁にしがみついていた。目の下には黒々と隈ができ、青白くしおたれた格好である。王子としての絹地の衣服が、かえってその哀れさを引き立てていた。
頭上にはここ数日、黒々とした暗雲が広がっている。ここへきてやっと小降りにはなったものの、頬を叩く雨粒は絶えることもない。海上はずっと波が高くうねりつづけ、船は木の葉のようにもちあげられては波の谷間に沈むを繰り返している。
海の上というのは、どうも苦手だ。
なにしろこう、足元が四六時中ふわふわと心もとないのが何よりいけない。
ほかの兄弟たちに比べれば船旅には慣れているが、この嵐には物慣れた船員たちでも苦労している様子だった。
というか、自分は泳げない。これはなによりの大問題だった。すぐ目の下に水しかないこの状況は、正直恐怖しか覚えない事態なのである。
しかし、男らのきつい汗の臭いのこもりがちな船室にいると、船酔いがさらに増幅されるようにしか思えない。しかたなく、今宵もこうやって危険をおして甲板へ出てきてしまっているのだ。
(ああ。まったく、こんな仕事は勘弁してほしいものだ)
とはいえ、わが父大帝の名代として領地の検分を行うことは、王族の一人としてどうしてもはずせない仕事のひとつではある。あまり放っておくと、地方を任された官吏たちが民を無闇に虐げるという愚をおかすからだ。
租税の上前をはね、袖の下を受け取り……やがてそれが、国全体の屋台骨を白アリのごとくに食らい尽くすことになる。それはできるだけ手前で阻止する必要がある。
なにしろ自分は、痩せても枯れても帝国アルネリオで現在大帝を名乗る偉大なる父、エラストの第三王位継承者なのだ。
まあその「痩せても枯れても」がなかなかにご愛嬌ではあるのだが。
父には正妃や側妃、愛妾などの子がすでに何十人もいる。正妃の子である男子だけでもすでに五名。自分はその真ん中に生まれた、たいして才能もない王子のひとりに過ぎない。
当然、上の兄二人は第一、第二王位継承者。才に溢れている上に、それぞれ母ゆずりの美貌の持ち主。さらに品行方正で情に篤く、人望まであるのだから。
あんな兄たちを持ってしまったら、凡人の自分はたまらない。
父ゆずりの癖のある茶色の髪が目頭にはりつくのを、王子はそっとはらいのけた。
自分の見た目は、十分に十人並みだ。あの兄たちと並んだら、そのまま空気さながらに霞んでしまう。それは王宮での日常の風景だった。
「はああ……。なんで私は、こんなところでこんなことを」
むかむかする胸の奥から、力のない溜め息とともにそんな泣き言を吐き出したときだった。
「殿下。ご体調はいかがでいらっしゃいましょうか」
恐る恐るといった声が背後から掛かって、王子は目だけでどんよりとそちらを見やった。
側付きの召使いである少年ロマンが、困りきった顔でこちらをそっと窺っている。
「うん。まあ、どうにか最悪のところは脱したようだ」
いつもは輝くような薔薇色をしている美しい少年の頬も、今はひどく青くなっていた。恐怖に怯えているのだ。だが、恐らく今の自分はそれ以上の残念な見てくれであろう。
二人とも、先ほどから船の外へ放り出されないようにと胴体をしっかりとロープで結びあっている。その端は、船のマストにつながっていた。
「すまぬな、ロマン。こんなことに付き合わせて」
「いいえ、そのような」
今にも襲ってきそうな吐き気の揺り戻しをこらえながらそう言うと、ロマンは明らかに胸をなでおろしたようだった。
「少しはご気分がよくおなりなのでしたら、ようございました」
ロマンは自分と同じく、頭から足先まですっかり濡れネズミの姿である。小姓としてのきらびやかな服装が、今はいっそ気の毒に思えるほどだ。
彼も、こんな凡才の自分にくっつけられてさぞや貧乏くじを引いたと思っていることだろうに。だが、そんな感情はおくびにも出さない。彼はなかなか健気なのだ。
今まで側付きになった少年や青年たちの多くは、「どうしてこんなにも優秀な自分が、兄上様方のお付きになれなかったのか」と、こちらをうっすらと目の底で見下していたものだった。
貧しい下級貴族出身で、苦労して苦労してこの地位までのぼってきたのであろうロマン少年に、そうした上昇志向がないはずがない。だがこの少年は不思議なほどに、ひどく純粋で心優しい為人をしていたのだ。
実際、本来であれば自分のそばにいるはずの護衛兵らは、船酔いのせいもあって船室の寝床にずっともぐりこんだまま出てくる気配もない。あれらの半分ぐらいは仮病だろうということは、いかな凡人の王子にもわかっていた。
「また雨が強うなって参りました。風もおさまりませぬ。そろそろ中へお戻りになられませんと。少し、温かいものでもお召し上がりくださいませ。またお風邪でも召されては大変です」
「ああ……そうだな」
それはほとんど、この少年の懇願に近いものだったろう。
決してそれを顔には出さない少年ではあるけれど、こんな凡才王子にくっつけられ、こんな辺境くんだりへの船旅に付き合わされて、さぞや己が運のなさを恨み、がっかりしているのに違いない。
ならばせめて、こんな場面でぐらいは言うことを聞いてやらねばならないだろう。
そう思って、王子が体に結んだロープを少しゆるめかけた時だった。
ひときわ大きなうねりが船を襲い、膨大な海水が頭上から甲板へ滝のごとくに降り注いだ。
「あっ! 殿下ああッ!」
少年が必死に叫び、目を開けて見たときには、もはや甲板の上に王子の姿はどこにも見えなくなっていた。
傘下の島々からの帰り道。だだっぴろい海原に浮かぶ大きな帆船の船端で、王子ユーリは船体の縁にしがみついていた。目の下には黒々と隈ができ、青白くしおたれた格好である。王子としての絹地の衣服が、かえってその哀れさを引き立てていた。
頭上にはここ数日、黒々とした暗雲が広がっている。ここへきてやっと小降りにはなったものの、頬を叩く雨粒は絶えることもない。海上はずっと波が高くうねりつづけ、船は木の葉のようにもちあげられては波の谷間に沈むを繰り返している。
海の上というのは、どうも苦手だ。
なにしろこう、足元が四六時中ふわふわと心もとないのが何よりいけない。
ほかの兄弟たちに比べれば船旅には慣れているが、この嵐には物慣れた船員たちでも苦労している様子だった。
というか、自分は泳げない。これはなによりの大問題だった。すぐ目の下に水しかないこの状況は、正直恐怖しか覚えない事態なのである。
しかし、男らのきつい汗の臭いのこもりがちな船室にいると、船酔いがさらに増幅されるようにしか思えない。しかたなく、今宵もこうやって危険をおして甲板へ出てきてしまっているのだ。
(ああ。まったく、こんな仕事は勘弁してほしいものだ)
とはいえ、わが父大帝の名代として領地の検分を行うことは、王族の一人としてどうしてもはずせない仕事のひとつではある。あまり放っておくと、地方を任された官吏たちが民を無闇に虐げるという愚をおかすからだ。
租税の上前をはね、袖の下を受け取り……やがてそれが、国全体の屋台骨を白アリのごとくに食らい尽くすことになる。それはできるだけ手前で阻止する必要がある。
なにしろ自分は、痩せても枯れても帝国アルネリオで現在大帝を名乗る偉大なる父、エラストの第三王位継承者なのだ。
まあその「痩せても枯れても」がなかなかにご愛嬌ではあるのだが。
父には正妃や側妃、愛妾などの子がすでに何十人もいる。正妃の子である男子だけでもすでに五名。自分はその真ん中に生まれた、たいして才能もない王子のひとりに過ぎない。
当然、上の兄二人は第一、第二王位継承者。才に溢れている上に、それぞれ母ゆずりの美貌の持ち主。さらに品行方正で情に篤く、人望まであるのだから。
あんな兄たちを持ってしまったら、凡人の自分はたまらない。
父ゆずりの癖のある茶色の髪が目頭にはりつくのを、王子はそっとはらいのけた。
自分の見た目は、十分に十人並みだ。あの兄たちと並んだら、そのまま空気さながらに霞んでしまう。それは王宮での日常の風景だった。
「はああ……。なんで私は、こんなところでこんなことを」
むかむかする胸の奥から、力のない溜め息とともにそんな泣き言を吐き出したときだった。
「殿下。ご体調はいかがでいらっしゃいましょうか」
恐る恐るといった声が背後から掛かって、王子は目だけでどんよりとそちらを見やった。
側付きの召使いである少年ロマンが、困りきった顔でこちらをそっと窺っている。
「うん。まあ、どうにか最悪のところは脱したようだ」
いつもは輝くような薔薇色をしている美しい少年の頬も、今はひどく青くなっていた。恐怖に怯えているのだ。だが、恐らく今の自分はそれ以上の残念な見てくれであろう。
二人とも、先ほどから船の外へ放り出されないようにと胴体をしっかりとロープで結びあっている。その端は、船のマストにつながっていた。
「すまぬな、ロマン。こんなことに付き合わせて」
「いいえ、そのような」
今にも襲ってきそうな吐き気の揺り戻しをこらえながらそう言うと、ロマンは明らかに胸をなでおろしたようだった。
「少しはご気分がよくおなりなのでしたら、ようございました」
ロマンは自分と同じく、頭から足先まですっかり濡れネズミの姿である。小姓としてのきらびやかな服装が、今はいっそ気の毒に思えるほどだ。
彼も、こんな凡才の自分にくっつけられてさぞや貧乏くじを引いたと思っていることだろうに。だが、そんな感情はおくびにも出さない。彼はなかなか健気なのだ。
今まで側付きになった少年や青年たちの多くは、「どうしてこんなにも優秀な自分が、兄上様方のお付きになれなかったのか」と、こちらをうっすらと目の底で見下していたものだった。
貧しい下級貴族出身で、苦労して苦労してこの地位までのぼってきたのであろうロマン少年に、そうした上昇志向がないはずがない。だがこの少年は不思議なほどに、ひどく純粋で心優しい為人をしていたのだ。
実際、本来であれば自分のそばにいるはずの護衛兵らは、船酔いのせいもあって船室の寝床にずっともぐりこんだまま出てくる気配もない。あれらの半分ぐらいは仮病だろうということは、いかな凡人の王子にもわかっていた。
「また雨が強うなって参りました。風もおさまりませぬ。そろそろ中へお戻りになられませんと。少し、温かいものでもお召し上がりくださいませ。またお風邪でも召されては大変です」
「ああ……そうだな」
それはほとんど、この少年の懇願に近いものだったろう。
決してそれを顔には出さない少年ではあるけれど、こんな凡才王子にくっつけられ、こんな辺境くんだりへの船旅に付き合わされて、さぞや己が運のなさを恨み、がっかりしているのに違いない。
ならばせめて、こんな場面でぐらいは言うことを聞いてやらねばならないだろう。
そう思って、王子が体に結んだロープを少しゆるめかけた時だった。
ひときわ大きなうねりが船を襲い、膨大な海水が頭上から甲板へ滝のごとくに降り注いだ。
「あっ! 殿下ああッ!」
少年が必死に叫び、目を開けて見たときには、もはや甲板の上に王子の姿はどこにも見えなくなっていた。
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