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第七章 変わりゆく帝国
2 降りてきた天使
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そこからは、無我夢中だった。
少年は両腕を振り回し、大声をあげて母さんの腕に噛みついた。びっくりして母さんが妹の首から手を離したすきに、アーニャを背負って大急ぎで家から飛び出した。
うしろから、父さんが何か叫んだ声がした。
でも、少年は振り向きもしないで走った。
(くそう……。くっそう)
きりきりきり、と何かが鳴っていると思ったら、自分の歯がこすりあわされている音だった。
呼吸は鞴のようにぜいぜいと荒く苦しくなり、こめかみからひっきりなしに汗が垂れ落ちてくる。ついに足の感覚がなくなって、とうとう少年はその場にへたり込んでしまった。激しく空気を吸い込んでは吐き出すのを繰り返す。
(どうしよう……。どうしたら?)
空はどんどん暗くなる。西のほうがだんだん桃色になり、橙色になり、やがて真っ赤に燃え上がって、夜の色が東からどんどん手を広げてくる。ちかちかとその中で星が瞬きはじめていた。
いつもは綺麗だなと見上げる星空を、こんなに冷たい気持ちで見るなんて思わなかった。
こんな、ほんの子供と目の見えない幼児ふたりだけで、いったいどこへ逃げればいいのか。大体、食べるものすら持っていないのだ。放っておいたら、ふたりで餓死でもするしかない。
しかし、家に戻るのはぜったいにいやだった。つぎに少年が目を離したら、今度こそ間違いなく、妹の命は終わる。
だが、こんな所でぼやぼやしていたら、餓死する前に少年だって危なかった。
野盗や腹をすかせた狼なんかにみつかったら、武器も持たない自分なんてひとたまりもない。
必死で唇を噛んでいたら、その分、まわりの景色が熱くなって歪みはじめた。
膝に頭を乗せて寝かせている妹のぷりっとした頬に、ぼとぼとと雫が落ちてしまう。少年は必死で、両手で顔をめちゃくちゃにこすり続けた。
(ちくしょう。ちくしょう……!)
だめだ。こんな所で泣いていて、なんになる。
動かなければ、すぐにも自分たちの命に関わるこんな場面で……!
「……どうしたんだい」
不思議な優しい声がしたのは、その時だった。
少年はびっくりして顔を上げた。見晴らしのいい草地の真ん中だ。今の今までそこいらに人影なんてちっとも見えなかったのに、いつの間にか目の前に、知らない男が三人立っていた。
そんなことがあるはずがないのに、なんだかその人たちは、空から舞い降りてきたような感じがした。
一人は自分に声を掛けてくれた青年だった。ちょっと見ただけでも、とても身なりがいい。村に「ゼイ」の徴収にくる官吏たちと似たような恰好だが、青年が着ているのは、もっとずっと綺麗な服だった。
金色や銀色の糸をつかった飾り紐や刺繍がきらきらと美しい。それに、肩には縁取りのある真っ白なマントまでつけている。きっとどこかの貴族かなにかなのだろう。
別に美青年というほどではなかったけれど、その人はふわふわした茶色の髪と、とても澄んだ瞳をしていた。何よりその瞳が、なんだか吸い込まれそうなぐらいに、とてもとても優しそうだった。
青年はそんな綺麗な服が汚れるのも構わずに、少年の目の前であっさりと土の上に片膝をついている。
彼の背後に立っているのは、自分の兄さんぐらいの年恰好の少年と、見慣れない服を着た男だった。男はなぜか、全身真っ黒の出で立ちだった。なんだか今にも闇に溶けてしまいそうだ。見たところ、この二人は青年の従者という感じだった。
「きみの妹さん? どこか具合が悪いのかな」
青年が、心配そうな目でアーニャを見ている。眉間にはさっきから、少し皺がよっているようだ。
その目がじっと妹の首についた痣を見ているのに気がついて、少年はどぎまぎした。はじめのうちは目立たなかったのに、今では妹の首には、母の指の形がくっきりと赤く浮き出ている。
「え……えっと。ちがうんです。これは……」
「怖がらなくてもいいんだよ。別に、君たちをどこかにつきだしたりなんかしないからね」
少年を安心させるかのように、青年がそっと微笑んだ。その笑顔が、またなんとも優しそうだった。少年は、自分の気持ちがどうしようもなくぐらぐらするのを感じて唇を噛んだ。
「何があったの? これからどこに行こうと思っていたのかな」
「…………」
とうとう何も言えなくなって、少年はうつむいた。
と、その時だった。アーニャがむにゃむにゃと何かいって、目をこすりながら起き上がった。
「にいた……。いる? にいた」
アーニャはまだ、ちゃんと「お兄ちゃん」とは言えない。父さんのことは「とうた」だし、母さんのことは「かあた」だ。目が見えないから、両手をぱたぱたさせて兄をさがす。妹はいつもそうなのだ。
「あ、いるぞ。兄ちゃん、ここにいるからな」
少年が小さな手を握ってやると、アーニャは安心してにこにこ笑った。でも、すぐに情けない顔になって下を向いた。
「にいた、おなかすいた。かあた、どこ?」
妹はついさっき、自分の母親から何をされそうになったのかもわかっていない。さっきはひどく咳き込んで、びっくりして、めちゃくちゃに泣いていたはずなのに。
そんなこと、もう忘れてしまったのだろうか。小さな子って、いいなと思う。
あんなことをされたのに、もう妹はあの母親に会いたがっているのだ。もうちょっとで、その人にこの世から消されそうになっていたのに!
(ああ……)
少年は突然、なにもかもが虚しくなって俯いた。
全身から力が抜けてしまったようだった。なんだか、急に馬鹿になってしまったみたいに。
胸にぼかりと大きな穴があいて、ひゅうひゅうと砂だらけの風が通っていく。ちょうど、そんな感じだった。
少年は両腕を振り回し、大声をあげて母さんの腕に噛みついた。びっくりして母さんが妹の首から手を離したすきに、アーニャを背負って大急ぎで家から飛び出した。
うしろから、父さんが何か叫んだ声がした。
でも、少年は振り向きもしないで走った。
(くそう……。くっそう)
きりきりきり、と何かが鳴っていると思ったら、自分の歯がこすりあわされている音だった。
呼吸は鞴のようにぜいぜいと荒く苦しくなり、こめかみからひっきりなしに汗が垂れ落ちてくる。ついに足の感覚がなくなって、とうとう少年はその場にへたり込んでしまった。激しく空気を吸い込んでは吐き出すのを繰り返す。
(どうしよう……。どうしたら?)
空はどんどん暗くなる。西のほうがだんだん桃色になり、橙色になり、やがて真っ赤に燃え上がって、夜の色が東からどんどん手を広げてくる。ちかちかとその中で星が瞬きはじめていた。
いつもは綺麗だなと見上げる星空を、こんなに冷たい気持ちで見るなんて思わなかった。
こんな、ほんの子供と目の見えない幼児ふたりだけで、いったいどこへ逃げればいいのか。大体、食べるものすら持っていないのだ。放っておいたら、ふたりで餓死でもするしかない。
しかし、家に戻るのはぜったいにいやだった。つぎに少年が目を離したら、今度こそ間違いなく、妹の命は終わる。
だが、こんな所でぼやぼやしていたら、餓死する前に少年だって危なかった。
野盗や腹をすかせた狼なんかにみつかったら、武器も持たない自分なんてひとたまりもない。
必死で唇を噛んでいたら、その分、まわりの景色が熱くなって歪みはじめた。
膝に頭を乗せて寝かせている妹のぷりっとした頬に、ぼとぼとと雫が落ちてしまう。少年は必死で、両手で顔をめちゃくちゃにこすり続けた。
(ちくしょう。ちくしょう……!)
だめだ。こんな所で泣いていて、なんになる。
動かなければ、すぐにも自分たちの命に関わるこんな場面で……!
「……どうしたんだい」
不思議な優しい声がしたのは、その時だった。
少年はびっくりして顔を上げた。見晴らしのいい草地の真ん中だ。今の今までそこいらに人影なんてちっとも見えなかったのに、いつの間にか目の前に、知らない男が三人立っていた。
そんなことがあるはずがないのに、なんだかその人たちは、空から舞い降りてきたような感じがした。
一人は自分に声を掛けてくれた青年だった。ちょっと見ただけでも、とても身なりがいい。村に「ゼイ」の徴収にくる官吏たちと似たような恰好だが、青年が着ているのは、もっとずっと綺麗な服だった。
金色や銀色の糸をつかった飾り紐や刺繍がきらきらと美しい。それに、肩には縁取りのある真っ白なマントまでつけている。きっとどこかの貴族かなにかなのだろう。
別に美青年というほどではなかったけれど、その人はふわふわした茶色の髪と、とても澄んだ瞳をしていた。何よりその瞳が、なんだか吸い込まれそうなぐらいに、とてもとても優しそうだった。
青年はそんな綺麗な服が汚れるのも構わずに、少年の目の前であっさりと土の上に片膝をついている。
彼の背後に立っているのは、自分の兄さんぐらいの年恰好の少年と、見慣れない服を着た男だった。男はなぜか、全身真っ黒の出で立ちだった。なんだか今にも闇に溶けてしまいそうだ。見たところ、この二人は青年の従者という感じだった。
「きみの妹さん? どこか具合が悪いのかな」
青年が、心配そうな目でアーニャを見ている。眉間にはさっきから、少し皺がよっているようだ。
その目がじっと妹の首についた痣を見ているのに気がついて、少年はどぎまぎした。はじめのうちは目立たなかったのに、今では妹の首には、母の指の形がくっきりと赤く浮き出ている。
「え……えっと。ちがうんです。これは……」
「怖がらなくてもいいんだよ。別に、君たちをどこかにつきだしたりなんかしないからね」
少年を安心させるかのように、青年がそっと微笑んだ。その笑顔が、またなんとも優しそうだった。少年は、自分の気持ちがどうしようもなくぐらぐらするのを感じて唇を噛んだ。
「何があったの? これからどこに行こうと思っていたのかな」
「…………」
とうとう何も言えなくなって、少年はうつむいた。
と、その時だった。アーニャがむにゃむにゃと何かいって、目をこすりながら起き上がった。
「にいた……。いる? にいた」
アーニャはまだ、ちゃんと「お兄ちゃん」とは言えない。父さんのことは「とうた」だし、母さんのことは「かあた」だ。目が見えないから、両手をぱたぱたさせて兄をさがす。妹はいつもそうなのだ。
「あ、いるぞ。兄ちゃん、ここにいるからな」
少年が小さな手を握ってやると、アーニャは安心してにこにこ笑った。でも、すぐに情けない顔になって下を向いた。
「にいた、おなかすいた。かあた、どこ?」
妹はついさっき、自分の母親から何をされそうになったのかもわかっていない。さっきはひどく咳き込んで、びっくりして、めちゃくちゃに泣いていたはずなのに。
そんなこと、もう忘れてしまったのだろうか。小さな子って、いいなと思う。
あんなことをされたのに、もう妹はあの母親に会いたがっているのだ。もうちょっとで、その人にこの世から消されそうになっていたのに!
(ああ……)
少年は突然、なにもかもが虚しくなって俯いた。
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