ルサルカ・プリンツ~人魚皇子は陸(おか)の王子に恋をする~

るなかふぇ

文字の大きさ
63 / 195
第七章 変わりゆく帝国

2 降りてきた天使

しおりを挟む
 そこからは、無我夢中だった。
 少年は両腕を振り回し、大声をあげて母さんの腕に噛みついた。びっくりして母さんが妹の首から手を離したすきに、アーニャを背負って大急ぎで家から飛び出した。
 うしろから、父さんが何か叫んだ声がした。
 でも、少年は振り向きもしないで走った。

(くそう……。くっそう)

 きりきりきり、と何かが鳴っていると思ったら、自分の歯がこすりあわされている音だった。
 呼吸はふいごのようにぜいぜいと荒く苦しくなり、こめかみからひっきりなしに汗が垂れ落ちてくる。ついに足の感覚がなくなって、とうとう少年はその場にへたり込んでしまった。激しく空気を吸い込んでは吐き出すのを繰り返す。

(どうしよう……。どうしたら?)

 空はどんどん暗くなる。西のほうがだんだん桃色になり、橙色になり、やがて真っ赤に燃え上がって、夜の色が東からどんどん手を広げてくる。ちかちかとその中で星が瞬きはじめていた。
 いつもは綺麗だなと見上げる星空を、こんなに冷たい気持ちで見るなんて思わなかった。
 こんな、ほんの子供と目の見えない幼児ふたりだけで、いったいどこへ逃げればいいのか。大体、食べるものすら持っていないのだ。放っておいたら、ふたりで餓死でもするしかない。
 しかし、家に戻るのはぜったいにいやだった。つぎに少年が目を離したら、今度こそ間違いなく、妹の命は終わる。
 だが、こんな所でぼやぼやしていたら、餓死する前に少年だって危なかった。
 野盗や腹をすかせた狼なんかにみつかったら、武器も持たない自分なんてひとたまりもない。

 必死で唇を噛んでいたら、その分、まわりの景色が熱くなって歪みはじめた。
 膝に頭を乗せて寝かせている妹のぷりっとした頬に、ぼとぼとと雫が落ちてしまう。少年は必死で、両手で顔をめちゃくちゃにこすり続けた。

(ちくしょう。ちくしょう……!)

 だめだ。こんな所で泣いていて、なんになる。
 動かなければ、すぐにも自分たちの命に関わるこんな場面で……!

「……どうしたんだい」

 不思議な優しい声がしたのは、その時だった。
 少年はびっくりして顔を上げた。見晴らしのいい草地の真ん中だ。今の今までそこいらに人影なんてちっとも見えなかったのに、いつの間にか目の前に、知らない男が三人立っていた。
 そんなことがあるはずがないのに、なんだかその人たちは、空から舞い降りてきたような感じがした。

 一人は自分に声を掛けてくれた青年だった。ちょっと見ただけでも、とても身なりがいい。村に「ゼイ」の徴収にくる官吏たちと似たような恰好だが、青年が着ているのは、もっとずっと綺麗な服だった。
 金色や銀色の糸をつかった飾り紐や刺繍がきらきらと美しい。それに、肩には縁取りのある真っ白なマントまでつけている。きっとどこかの貴族かなにかなのだろう。
 別に美青年というほどではなかったけれど、その人はふわふわした茶色の髪と、とても澄んだ瞳をしていた。何よりその瞳が、なんだか吸い込まれそうなぐらいに、とてもとても優しそうだった。
 青年はそんな綺麗な服が汚れるのも構わずに、少年の目の前であっさりと土の上に片膝をついている。
 彼の背後に立っているのは、自分の兄さんぐらいの年恰好の少年と、見慣れない服を着た男だった。男はなぜか、全身真っ黒の出で立ちだった。なんだか今にも闇に溶けてしまいそうだ。見たところ、この二人は青年の従者という感じだった。

「きみの妹さん? どこか具合が悪いのかな」

 青年が、心配そうな目でアーニャを見ている。眉間にはさっきから、少し皺がよっているようだ。
 その目がじっと妹の首についた痣を見ているのに気がついて、少年はどぎまぎした。はじめのうちは目立たなかったのに、今では妹の首には、母の指の形がくっきりと赤く浮き出ている。

「え……えっと。ちがうんです。これは……」
「怖がらなくてもいいんだよ。別に、君たちをどこかにつきだしたりなんかしないからね」
 少年を安心させるかのように、青年がそっと微笑んだ。その笑顔が、またなんとも優しそうだった。少年は、自分の気持ちがどうしようもなくぐらぐらするのを感じて唇を噛んだ。
「何があったの? これからどこに行こうと思っていたのかな」
「…………」

 とうとう何も言えなくなって、少年はうつむいた。
 と、その時だった。アーニャがむにゃむにゃと何かいって、目をこすりながら起き上がった。

「にいた……。いる? にいた」
 アーニャはまだ、ちゃんと「お兄ちゃん」とは言えない。父さんのことは「とうた」だし、母さんのことは「かあた」だ。目が見えないから、両手をぱたぱたさせて兄をさがす。妹はいつもそうなのだ。
「あ、いるぞ。兄ちゃん、ここにいるからな」
 少年が小さな手を握ってやると、アーニャは安心してにこにこ笑った。でも、すぐに情けない顔になって下を向いた。
「にいた、おなかすいた。かあた、どこ?」

 妹はついさっき、自分の母親から何をされそうになったのかもわかっていない。さっきはひどく咳き込んで、びっくりして、めちゃくちゃに泣いていたはずなのに。
 そんなこと、もう忘れてしまったのだろうか。小さな子って、いいなと思う。
 あんなことをされたのに、もう妹はあの母親に会いたがっているのだ。もうちょっとで、その人にこの世から消されそうになっていたのに!

(ああ……)

 少年は突然、なにもかもが虚しくなって俯いた。
 全身から力が抜けてしまったようだった。なんだか、急に馬鹿になってしまったみたいに。
 胸にぼかりと大きな穴があいて、ひゅうひゅうと砂だらけの風が通っていく。ちょうど、そんな感じだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か

雪兎
BL
第二性が存在する世界。 Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。 しかし入学初日、彼の前に現れたのは―― 幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。 成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。 だが湊だけが知っている。 彼が異常なほど執着深いことを。 「大丈夫、全部管理してあげる」 「君が困らないようにしてるだけだよ」 座席、時間割、交友関係、体調管理。 いつの間にか整えられていく環境。 逃げ場のない距離。 番を拒みたいΩと、手放す気のないα。 これは保護か、それとも束縛か。 閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

その首輪は、弟の牙でしか外せない。

ゆずまめ鯉
BL
養子ゆえに、王位継承権を持たないオメガで長男のレイン(24)は、国家騎士団として秘密裏に働き、ただ義弟たちを守るためだけに生きてきた。 第一継承権を持つアルファで次男のリオール(19)は、そんな兄に「ごく潰し」と陰口を叩く連中を許せなかった。自分を犠牲にしてまで守る価値はないと思っていた。なにかと怪我の多い国家騎士団を辞めさせたかった。 初めて訪れた発情期のとき。約束をすっぽかされたリオールが不審に思い、兄の部屋へ行くと、国家騎士団の同僚──グウェンソード(28)に押し倒されるところを目撃して激高する。 「今すぐ部屋から出ろ!」 独占欲をあらわにしたリオールは、グウェンソードを部屋から追い出し、兄であるレインを欲望のままに抱いた。 翌朝、差し出されたのは特注の首輪──外せるのはリオールのみ。 「俺以外に触らせるな」 そう囁かれたレインは、何年も首輪と弟の執着に縛られ続けてきた。 弟には婚約者がいるのに、こんな関係を続けてもいいのか。 本当にこのままでもいいのか。 ひたすら執着して独占したがる弟と、罪悪感に苛まれる兄。 その首輪は、いつか弟の牙で血に染まるのか──。 どうにかしてレインを落としたいリオールと、弟との関係に悩むレインのオメガバースです。 リオール・グランケット(19)×レイン・グランケット(24) ※この作品は2015年頃に本文を書き、2017年頃にオメガバースに改稿、さらに2026年に手直しした作品になります。読みにくいかもしれません。ご了承ください。 三人称ですが攻めだったり受けだったり視点がよくかわります。攻め視点多めです。

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。

三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎ 長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!? しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。 ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。 といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。 とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない! フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

[BL]憧れだった初恋相手と偶然再会したら、速攻で抱かれてしまった

ざびえる
BL
エリートリーマン×平凡リーマン モデル事務所で メンズモデルのマネージャーをしている牧野 亮(まきの りょう) 25才 中学時代の初恋相手 高瀬 優璃 (たかせ ゆうり)が 突然現れ、再会した初日に強引に抱かれてしまう。 昔、優璃に嫌われていたとばかり思っていた亮は優璃の本当の気持ちに気付いていき… 夏にピッタリな青春ラブストーリー💕

処理中です...