ルサルカ・プリンツ~人魚皇子は陸(おか)の王子に恋をする~

るなかふぇ

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第七章 変わりゆく帝国

1 片田舎にて ※※

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※※ 多少の残酷描写があります。特に、子供の虐待に関するものです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 少年は、ずるずると足を引きずりながら歩いている。
 石があちこちにごろごろ転がり、脇に雑草が無造作に生えた田舎道は、馬車のわだちが刻まれて、ずうっと先まで三等分にされている。
 日はそろそろ傾きかけ、冷たい風が遠くの草地の湿った匂いを運んできている。そこには生き物の出したものの生臭いにおいも混ざっていた。
 背中におぶった妹の体が、どんどん熱く、重くなってきている。すっかり寝入っているのだろう。
 先ほど起こった恐ろしいことなんてとっくに忘れて、すやすやと穏やかな寝息ばかりが聞こえてくる。

 妹は、やっと三歳になったところだ。
 少年が物心ついたころに生まれてきて、よちよちと歩き始めてから、まだそれほど経っていない。
 それなのにもう、その命は風前のともしびだった。
 だめだ、だめだと頭の中でだれかが叫び続けている。

(だめだ。だめだ。ぜったい、オレが守るんだ)
(アーニャはぜったい、……させない)

 頭の中でその単語を思い起こすだけでもひどく怖くて、少年は転がりでそうになった言葉のうえに、重くて冷たい石の蓋をした。
 言葉は、怖いのだ。口に出したり、頭に思い浮かべたりするだけで、それはぐっと「ほんとうのこと」に近づいてくる。背中の後ろに迫ってくる。
 特に怖いことやつらいことは、裸足のままですごい勢いで走ってきて、自分や妹みたいな小さな子供なんて、あっというまに絡めとり、どこか怖くて冷たい場所へ連れて行ってしまう。
 いいや、ちがう。
 そんなことはさせないのだ。

(アーニャは、生きるんだ。これからもずっとずっと生きて、生きて……大人になるんだ。それで、ちゃんとしあわせになるんだから)

 ずんずん重くなる妹の体をまた揺すり上げ、少年は奥歯を噛みしめてまた歩き出した。足も背中も、妹を支えている腕も、もうぎしぎし音をたてそうなほど痛みを訴え始めている。
 それでも、妹をおろしてひと休みするわけにはいかなかった。
 陽はどんどん暮れてくる。この季節、あの森の木の先っぽあたりに太陽がひっかかったら、そこからあっというまに暗くなってしまう。夜になったからといって、まだ凍えるような季節ではない。けれど、それでも子供だけで夜の野原にいるのは危険なことだった。

 野生動物ももちろん危ない。けれど、なにより怖いのは人だった。
 このあたりの農家はどこも貧しい。農奴なんて呼ばれている、この国の貧しい農民たちの多くは、自分の土地さえ持ってはいない。地主から土地を借り、そこを耕して暮らしているのが大部分だ。
 刈り取りの季節がやってくると、せっかくとれた新しい芋や穀物を、地主がごっそりと奪っていく。父や母や祖父や祖母や、そのまたずっとご先祖たちが、ずっと昔から地主に借りてきた借金ぶんと、国にとりあげられる税のためだ。
 「ゼイ」がなんなのかを、少年は知らない。とにかく、どこかの「えらくてコウキな人たち」が、自分たちが汗水たらして作ったものを、勝手に持って行ってしまうのだ。
 だから自分たちは、残ったわずかの食物を家族みんなで細々と分け合って、厳しい冬を越さなくてはならない。芋の一個、麦のひとつぶだって無駄にはできないのだ。

 そして冬の前には特に、このあたりには野盗が出る。ずっと以前に食い詰めて、土地を捨てて盗賊になった近隣の村々の男たちが、秋にとれた収穫物を狙ってあちこちをうろつきはじめるからだ。
 食物をうばわれるだけならまだマシだ。ひどいときには、奴らは人までさらっていく。特に、若い娘や子供たちが狙われた。奴らは彼らをどこかに売り飛ばして金に換えたり、自分たち自身でさんざんにもてあそぶ。
 具体的にどうされるのかは知らない。知らないけれど、一度、ふらふらと戻って来た村の娘は、すっかり頭がおかしくなっていたという。きっと、ものすごく酷いことをされたのに違いなかった。

 そういう目に遭わなくたって、この村に住む娘たちは色々と大変だった。少年の四つうえの姉だって、ちょっと前にどこかの男たちに連れて行かれて、ぜんぜん帰ってこなくなった。
 父さんや母さんは、「姉さんは遠くでいい服をきて、毎日おいしいものを腹いっぱい食べられるようになったんだよ」と言う。だから幸せになったんだと。
 でも、少年はだまされなかった。
 それは本当かもしれないけれど、きっとそれでもずっとずっと、なにかひどいこととくっついているはずだった。そうでなければ、両親があの男たちから姉の代わりに、結構な金を受け取ったはずがないからだ。
 このまま放っておいたら、いずれアーニャもそうされる。
 いや、その前にもっともっと、困ったことになる。

 ──いや、ちがう。
 すでにもう、なりかけた。

 本当は、少年の下にはもうひとり、アーニャとの間に妹がいたはずだった。母さんのおなかが大きくなって、ある日、産婆がやってきて、お産をするからと少年は家から追い出された。
 家の外で少年は、赤子が大きな声で元気に泣くのをはっきり聞いた。
 でも、家から出て来た産婆は言った。

「あの子は、だめだったさね」と。

 うそだ、と少年にはすぐにわかった。
 すでに粗布にしっかりと包まれた小さな体を抱いた母さんが、決して少年と目を合わそうとしなかったからだ。そばにいた父さんも同じだった。
 食べるものが足りなくていつも困っているくせに、父さんと母さんは「困った、困った」と言いながらどんどん子供を作ってしまう。上の兄さんたちだって、食べる物が足りないからと、ずっと前から遠くの農場に出稼ぎにいったきりだというのに。
 そのくせ、生まれて来たのが女の子だったら、みんなしてこっそりとをするのだ。
 大人は、勝手だ。勝手すぎる。

 だから少年はアーニャが生まれたとき、わざと早めに家の中に飛びこんだ。そうして、今にも赤子に産湯を使わそうとしていた──本当にそうかどうかは怪しいものだ──産婆の手から、無理やりその子をもぎとったのだ。
 「わあ、女の子だね! オレ、妹がほしかったんだー!」と、わざと明るい声で叫んで。
 父さんと母さんは、困ったような戸惑ったような、変に暗い目で少年を見ていた。でも、結局なにも言わなかった。

 アーニャの目は小さなころから、なにか白い膜が張ったようになっていて、うまく見えないらしかった。母さんの乳から離れて、せっかく歩けるようになってからも、あちこちに体をぶつけ、すぐにつまずいて転んでしまう。
 少年は、いつも妹のそばにいてやるようにした。父さんと母さんの仕事の手伝いをしながらも、危なそうな場所では手を引いてやり、いつもしっかりと妹の面倒を見てやっていた。
 そうしないと、どうしても不安だったからだ。
 もしかしてまた、父さんと母さんが変な気を起こしはしないかと思って。

 でも。
 遂に、は起こってしまった。
 つい、さっきのことだった。
 「今年の冬はまた、食料が足りなくなるぞ」「いったいどうやって冬を越すんじゃ」と、村の男たちが父さんや母さんとぼそぼそと話をしていた、その午後のことだった。
 ふとアーニャの姿が見えなくなって、少年は妹を探し回った。
 いやな予感がどんどん胸を押しつぶし、汗だくになって必死に探した。

 そして、見たのだ。
 家の脇に立てかけてある農具の陰で、母がこっそりと妹の上に馬乗りになり、その首に手を掛けているところを。

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