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第八章 過去と未来と
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ユーリとの甘い通信を終え、玻璃はひとつ息をついた。
腕輪の表面をそうっとなぞる。
アルネリオと滄海では、数刻ぶんの時差がある。あちらでは深夜の時間帯でも、こちらはまだ夕刻になりかかる頃だった。一日の政務を終え、夕餉までの間のひとときだ。
とはいえ、これで仕事が終わりではない。今後もまた、いくつかの書類に目を通し、大臣らとの話し合いなどの予定が深夜まで詰まっている。
王子の甘い喘ぎが耳に残って、玻璃は自室のソファに腰かけたまま、自身の股間で張り詰めているものに目を落とした。王子を高みにのぼりつめさせてやりつつ、自分でそこに触れることはしなかったのだ。時間的なこともあり、衣服を汚すわけにはいかなかった。
立ち上がり、部屋に隣接した手水を使ってから戻ったところで、不意に訪れた者があった。
「兄上……!」
瑠璃である。
海底皇国の皇太子である自分を、こうも不躾に訪うのは、この弟を措いてほかにはない。海皇たる父ですら、事前に先触れぐらいは寄越すのだ。
あれ以来、玻璃と同様この弟も、尾鰭を使わない姿で通している。
「今度はなんだ。瑠璃」
声音に少し冷ややかなものが混ざるのは仕方がなかった。玻璃はこの弟が、ユーリに対して非常に辛辣で冷ややかな態度と言葉を崩さないことがずっと気にかかっている。
弟は形のよい唇をひん曲げて「なんだではありませぬ」と鼻を鳴らした。
「アルネリオの者どもが、病人や障害のある庶民らをどんどんわが国に送り込んでいるやに聞きましたが。本当ですか」
「ああ、事実だ。こちらから申し出たことだがな」
「その者らを、無償で治しておやりになるというのは?」
「それも事実だ」
「では、そやつらと我が国の民をいずれ添わせようというのも?」
「そこは無理強いしておらぬがな。できればそうなってもらいたいところだが、すべては本人たち次第。『希望する者らがいれば、基本的には自由にしてよい』というぐらいだ」
「それにしても!」
藍色の美しい目を爛々と光らせて瑠璃が叫ぶ。
玻璃は少しだけ苦笑して見せた。
「なんだ。それでお前が、何か困ることでもあるのか?」
「私自身が、というよりも、国の問題でありましょう。受け入れるのは、かなりの人数だと聞き及んでおりますし。我が国の国庫だとて、決して無尽蔵というわけではないのですよ? しかも貴族連中ではなく、来るのは田舎者の農奴ばかりだと聞いております」
玻璃はぴくりと眉を動かした。
「だからどうした。下手にやわな貴族連中などより、田舎住まいで畑を耕している者たちの方が、よほど気骨があって働き者で、体も丈夫だと思うがな」
「そういうことではありませぬ」
「いや。そういうことだ」
きっぱりと言って真っすぐに瑠璃の瞳を見つめたら、弟はぐっと言葉に詰まった。
「遺伝形質の点でもそうだ。親類縁者との婚姻も多く、体を甘やかしている貴族連中などよりも、比較的自由に婚姻のできる庶民のほうがはるかに強靭で、バリエーションも望めるだろう。我らにとっての利点はまずそれだ」
「…………」
「それに、あちらの庶民はまことに生活に困っている者らが多い。男女の格差、収入の格差、身分の格差、就学機会の格差。いずれも、それはひどいものだ。ユーリ殿も、そこは憂慮しておられる。彼らの暮らしが少しでも楽になればと、心から案じてもおられるのだ」
「あんな者ッ……!」
言いかけた瑠璃を、玻璃は即座に眼光だけで黙らせた。兄の体から一気に放出されたものに気圧されて、瑠璃は思わず一歩さがった。
「瑠璃」
が、玻璃の口から出たのは飽くまで静かな声だった。
「それはそなたのよくない癖だぞ。ろくに知りもしない誰かを、表面的なあれこれだけで勝手に判断し、すぐに辛口に批判したがる。人の上に立つ者として、それでは今後、色々とやりにくいことにもなろう。詰まるところ、困るのはお前自身ぞ」
「な、……なれど」
「ユーリ殿に対して、そなたが悪感情を持っていることは知っている。それゆえ、余計に点が辛くなるのもな。その理由についても、ある程度はわかるつもりだ。……だがそなた、本当にユーリ殿本人をきちんと見てやっているのか?」
「…………」
「お前のそばにいる藍鉄」
言いながら、玻璃は瑠璃の背後で片膝をついて控えている男にちらりと目をやった。
「黒鳶からの報告は、そやつのところにも届いていよう。そやつから何も聞いておらぬのか」
「えっ?」
それで初めて、瑠璃は背後に目をやった。屈強な黒ずくめの男が、下げていた頭をさらに下げる。
「藍鉄、そうなのか? お前、何か黒鳶から聞いているのか」
「は。……ですが、殿下のお耳に入れるようなことは何も」
「瑠璃の不興を買うような情報だからか? だが、それは違うぞ。藍鉄」
玻璃の声はやっぱり静かだったが、胃の腑にしみるように重かった。その顔は、明らかに「困ったものよ」というものだ。
「可能な限りの事実を把握せずして、一体なんの判断ができようか。皇族ともあろう者が左様な視野しか持てぬとすれば、それは大きな問題となろう」
瑠璃は呆然として兄を見た。
「い、いったい、なんだと言うのです。あの王子が、なにか?」
「それは藍鉄に訊くがよい」
言ってギロリと藍鉄を睨み下ろすと、あとはすっと穏やかな目に戻り、玻璃は大股に瑠璃のそばをすり抜け、扉に向かった。
瑠璃は必死に呼び止めようとした。
「兄上──」
「よくよく考えよ。そなたに、本当にユーリ殿と同じことができるのか。いや、それ以上のことを。そなたは本当にあの方を見下す資格を有する者なのか、どうかをな」
最後に背中でそう言って、玻璃は風のように出て行った。
後には呆然とした瑠璃と、頭を下げたままの藍鉄が残されるばかりである。
腕輪の表面をそうっとなぞる。
アルネリオと滄海では、数刻ぶんの時差がある。あちらでは深夜の時間帯でも、こちらはまだ夕刻になりかかる頃だった。一日の政務を終え、夕餉までの間のひとときだ。
とはいえ、これで仕事が終わりではない。今後もまた、いくつかの書類に目を通し、大臣らとの話し合いなどの予定が深夜まで詰まっている。
王子の甘い喘ぎが耳に残って、玻璃は自室のソファに腰かけたまま、自身の股間で張り詰めているものに目を落とした。王子を高みにのぼりつめさせてやりつつ、自分でそこに触れることはしなかったのだ。時間的なこともあり、衣服を汚すわけにはいかなかった。
立ち上がり、部屋に隣接した手水を使ってから戻ったところで、不意に訪れた者があった。
「兄上……!」
瑠璃である。
海底皇国の皇太子である自分を、こうも不躾に訪うのは、この弟を措いてほかにはない。海皇たる父ですら、事前に先触れぐらいは寄越すのだ。
あれ以来、玻璃と同様この弟も、尾鰭を使わない姿で通している。
「今度はなんだ。瑠璃」
声音に少し冷ややかなものが混ざるのは仕方がなかった。玻璃はこの弟が、ユーリに対して非常に辛辣で冷ややかな態度と言葉を崩さないことがずっと気にかかっている。
弟は形のよい唇をひん曲げて「なんだではありませぬ」と鼻を鳴らした。
「アルネリオの者どもが、病人や障害のある庶民らをどんどんわが国に送り込んでいるやに聞きましたが。本当ですか」
「ああ、事実だ。こちらから申し出たことだがな」
「その者らを、無償で治しておやりになるというのは?」
「それも事実だ」
「では、そやつらと我が国の民をいずれ添わせようというのも?」
「そこは無理強いしておらぬがな。できればそうなってもらいたいところだが、すべては本人たち次第。『希望する者らがいれば、基本的には自由にしてよい』というぐらいだ」
「それにしても!」
藍色の美しい目を爛々と光らせて瑠璃が叫ぶ。
玻璃は少しだけ苦笑して見せた。
「なんだ。それでお前が、何か困ることでもあるのか?」
「私自身が、というよりも、国の問題でありましょう。受け入れるのは、かなりの人数だと聞き及んでおりますし。我が国の国庫だとて、決して無尽蔵というわけではないのですよ? しかも貴族連中ではなく、来るのは田舎者の農奴ばかりだと聞いております」
玻璃はぴくりと眉を動かした。
「だからどうした。下手にやわな貴族連中などより、田舎住まいで畑を耕している者たちの方が、よほど気骨があって働き者で、体も丈夫だと思うがな」
「そういうことではありませぬ」
「いや。そういうことだ」
きっぱりと言って真っすぐに瑠璃の瞳を見つめたら、弟はぐっと言葉に詰まった。
「遺伝形質の点でもそうだ。親類縁者との婚姻も多く、体を甘やかしている貴族連中などよりも、比較的自由に婚姻のできる庶民のほうがはるかに強靭で、バリエーションも望めるだろう。我らにとっての利点はまずそれだ」
「…………」
「それに、あちらの庶民はまことに生活に困っている者らが多い。男女の格差、収入の格差、身分の格差、就学機会の格差。いずれも、それはひどいものだ。ユーリ殿も、そこは憂慮しておられる。彼らの暮らしが少しでも楽になればと、心から案じてもおられるのだ」
「あんな者ッ……!」
言いかけた瑠璃を、玻璃は即座に眼光だけで黙らせた。兄の体から一気に放出されたものに気圧されて、瑠璃は思わず一歩さがった。
「瑠璃」
が、玻璃の口から出たのは飽くまで静かな声だった。
「それはそなたのよくない癖だぞ。ろくに知りもしない誰かを、表面的なあれこれだけで勝手に判断し、すぐに辛口に批判したがる。人の上に立つ者として、それでは今後、色々とやりにくいことにもなろう。詰まるところ、困るのはお前自身ぞ」
「な、……なれど」
「ユーリ殿に対して、そなたが悪感情を持っていることは知っている。それゆえ、余計に点が辛くなるのもな。その理由についても、ある程度はわかるつもりだ。……だがそなた、本当にユーリ殿本人をきちんと見てやっているのか?」
「…………」
「お前のそばにいる藍鉄」
言いながら、玻璃は瑠璃の背後で片膝をついて控えている男にちらりと目をやった。
「黒鳶からの報告は、そやつのところにも届いていよう。そやつから何も聞いておらぬのか」
「えっ?」
それで初めて、瑠璃は背後に目をやった。屈強な黒ずくめの男が、下げていた頭をさらに下げる。
「藍鉄、そうなのか? お前、何か黒鳶から聞いているのか」
「は。……ですが、殿下のお耳に入れるようなことは何も」
「瑠璃の不興を買うような情報だからか? だが、それは違うぞ。藍鉄」
玻璃の声はやっぱり静かだったが、胃の腑にしみるように重かった。その顔は、明らかに「困ったものよ」というものだ。
「可能な限りの事実を把握せずして、一体なんの判断ができようか。皇族ともあろう者が左様な視野しか持てぬとすれば、それは大きな問題となろう」
瑠璃は呆然として兄を見た。
「い、いったい、なんだと言うのです。あの王子が、なにか?」
「それは藍鉄に訊くがよい」
言ってギロリと藍鉄を睨み下ろすと、あとはすっと穏やかな目に戻り、玻璃は大股に瑠璃のそばをすり抜け、扉に向かった。
瑠璃は必死に呼び止めようとした。
「兄上──」
「よくよく考えよ。そなたに、本当にユーリ殿と同じことができるのか。いや、それ以上のことを。そなたは本当にあの方を見下す資格を有する者なのか、どうかをな」
最後に背中でそう言って、玻璃は風のように出て行った。
後には呆然とした瑠璃と、頭を下げたままの藍鉄が残されるばかりである。
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