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第八章 過去と未来と
2 子らの未来を
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兄が去った扉の方をじっと見ていた瑠璃は、ついと足もとに視線を戻した。
藍鉄は相変わらず、深々と頭を垂れているばかりである。
「藍鉄。貴様、私に黙っていることがあるのか?」
瑠璃の声は氷の刃さながらだった。藍鉄は無言である。武骨な顔を、いつも以上に巌のように固めているばかりだ。
瑠璃は双眸を鋭くひらめかせると、いきなり男の肩を蹴りつけた。が、さすがに男は微動だにしなかった。硬い筋肉の盛り上がった広い肩は、瑠璃ごときに蹴られたところでびくともしない。
「言えッ! あの王子のことで、黒鳶は一体なにを言ってきた。全部包み隠さずに私に教えろ!」
「ですから。殿下にお話しするほどのことは何も」
「いい加減にしろっ! 言え、言えというのにッ! ……こいつ、こいつめっ!」
我を忘れて、さらにドカドカと藍鉄を蹴りつける。
「馬鹿にしおって。どうせ貴様も、私を馬鹿にしておるのだろう。姿だけの下らぬ皇子と、見下しておるのだろうがッ!」
「左様なことは」
「黙れえッ!」
藍鉄が微動だにしない分、とうとう瑠璃のほうがバランスを失って、ぐらりと後ろへ倒れかけた。と、男の腕が即座に瑠璃の背中を支えた。どうにか床に足はついているが、なかば横抱きのような形になる。
「どうか、お気をつけを」
「う、うるさいっ! どこを触ってるんだ、放せっ! この無礼者が!」
瑠璃は一発、男の頬を思いきり張り飛ばした。そのまま、めちゃくちゃに両腕を振り回してもがく。肘だの拳だのが容赦なく藍鉄の頬やこめかみに激突した。だが、男は顔色も変えなかった。そのままいとも簡単に元通りに立たされる。余計に格好がつかない。
瑠璃は急激に自分の頬が熱くなるのを覚え、さらに逆上した。
「いいから言わぬか! これ以上、無礼の段は許さぬぞっ!」
「……は」
「何もかも、包み隠さずに申せ。私に、まことの忠誠心があると言うなら。よいな!?」
「はは」
一度深々と頭を下げてから、藍鉄は話し始めた。
アルネリオでの、ユーリ王子の働きぶり。
ごく貧しい少年少女の前で、衣服が汚れるのも厭わずにその前に膝をつき、食べ物を与え、かれらを胸に抱きしめて、心からの優しい言葉を掛けられたこと。同様にして、ほかの地域の民たちの所にも回り、まさに粉骨砕身、この活動に身をささげていることをだ。
瑠璃は長椅子に座ったまま、その話をじっと聞いていた。腕を組み、眉間にはひたすらに不快げな皺が刻まれたままである。
だが、じわじわと胸に広がってくるものはどうしようもなかった。
(……そうか。兄上は)
兄は、あの王子の見てくれやら、身分にはほとんど興味がないのだ。
大切なのは、きっとそんなことではない。
思えばあの亡き深縹も、美貌をもって世に知られた女ではなかった。温厚で慈悲深く、ごく控えめな女性だったと思う。皇家の女たちにはよくあるような、権力を奪いあったり美貌を競い合ったり、力を振りかざすような心根はいっさい見せない人だった。
瑠璃の態度は対照的なものだった。玻璃を愛しているゆえに、決して温かく迎えたわけではない。むしろ氷のような眼差しと鋭い舌鋒と態度を持って、あの人に接していたと思う。今よりずっと若く幼かったこともあり、余計に露骨だったことであろう。しかし彼女は夫の大切な弟として、瑠璃にひたすら深い敬意をもって接してくれていたようだった。
瑠璃がそうと気づいたのは、彼女が遠いニライカナイへ去ってからのことだったけれども。
(玻璃兄は──)
ぎりりと唇を噛んでなにかを堪える。衣の膝がしらあたりを力いっぱいに握りしめ、瑠璃は視線を床に落とした。
兄はその心根こそを、深く愛していたものだ。
だから、だからこそ。
みんなから「美貌の皇子よ」と褒めたたえられているだけの自分のことなど、ほかには大した取り柄もない弟のことなど、見向きもしてくれないのだ──。
急に黙り込み、肩を小刻みに震わせている瑠璃の足元で、藍鉄はやっぱり黙って頭を垂れているのみだ。
だが、瑠璃が気づくことは遂になかった。
床に落とされていたその視線がほんの一瞬、先ほど瑠璃の体に触れた自分の手に、ちらりと向けられていたことに。
◆
「そういえばあの少女。アーニャでしたか? よかったですね」
「ああ。本当に」
例によって移動中の飛行艇の中である。
ロマン自慢の紅茶をひとくち含んで、ユーリは嬉しげに目を細めた。
あれからさらに、数週間が過ぎていた。
あの少年が連れていた小さな少女、アーニャについては、その後すぐに滄海の医療機関に収容されて、精密検査が行われた。
玻璃からの連絡によれば、彼女の目は幸いにも治療が可能なものだった。少年はそれを知ってその場にぺたりとへたりこみ、人目もはばからずに大声でおんおん泣いていたのだという。
それを聞いて、思わずユーリの胸も熱くなった。うっかり涙まで滲んでしまいそうになったものだ。
あの少年は、きっとこれから一生懸命に勉強してくれるだろう。
あれだけの気骨のある少年だ、きっと優秀な人材に育ってくれるに違いない。
そうしてきっと、自分の道を自分で切り拓いていくことだろう。
実際、経済的に楽になった兄妹の両親は、今のところ二人が今後も冬場に滄海へ出かけ、さまざまな勉強をすることを快諾してくれている。
特に男の子は大切な働き手でもあるので、家を空けることにいい顔をしない親も多い。だが、ユーリたちのお陰で借金問題が解決した多くの家では、子供たちの教育に協力的になってくれたのだ。
ロマンがその素晴らしい能力を見せつけて、教育の大切さを実地で教えたことが大きいのかも知れなかった。
玻璃は、別に海底皇国にこれらの子供たちがとどまって、地元の民と結婚してくれるようにと強制などはしないという。
だが、ユーリはこうも思っている。
もしもあのアーニャという少女が大きくなった暁には。
そして兄と同様に、きちんと教育を受け、ふさわしい教養を身につけた暁には、と。
男尊女卑の気分がまだまだ強く、どんなに能力があったとしても女性が要職につくことを好まないアルネリオ。いや、そもそもアルネリオでは、女の子は比較的裕福な家庭の娘でも、系統だった勉強をする機会そのものが与えられないのが普通なのだ。
対して、あの波茜に代表されるように、そうした障害がほとんどなく、将来の職業への道が能力に応じて大きく開かれた国、滄海。
かの少女は、いずれどちらを選ぶものだろうか──と。
窓外を飛び去って行く雲の流れを目で追いながら、やわらかな茶葉の香りを楽しみつつ、ユーリはゆったりと微笑んだ。
海底皇国、滄海から正式の文書がきたのは、それから間もなくのことだった。
アルネリオの皇帝エラストは、これを御前会議に諮り、十分に吟味した上、了承することを決定した。
滄海の皇太子、玻璃と、アルネリオの第三王子ユーリの婚姻が正式に認められた瞬間だった。
藍鉄は相変わらず、深々と頭を垂れているばかりである。
「藍鉄。貴様、私に黙っていることがあるのか?」
瑠璃の声は氷の刃さながらだった。藍鉄は無言である。武骨な顔を、いつも以上に巌のように固めているばかりだ。
瑠璃は双眸を鋭くひらめかせると、いきなり男の肩を蹴りつけた。が、さすがに男は微動だにしなかった。硬い筋肉の盛り上がった広い肩は、瑠璃ごときに蹴られたところでびくともしない。
「言えッ! あの王子のことで、黒鳶は一体なにを言ってきた。全部包み隠さずに私に教えろ!」
「ですから。殿下にお話しするほどのことは何も」
「いい加減にしろっ! 言え、言えというのにッ! ……こいつ、こいつめっ!」
我を忘れて、さらにドカドカと藍鉄を蹴りつける。
「馬鹿にしおって。どうせ貴様も、私を馬鹿にしておるのだろう。姿だけの下らぬ皇子と、見下しておるのだろうがッ!」
「左様なことは」
「黙れえッ!」
藍鉄が微動だにしない分、とうとう瑠璃のほうがバランスを失って、ぐらりと後ろへ倒れかけた。と、男の腕が即座に瑠璃の背中を支えた。どうにか床に足はついているが、なかば横抱きのような形になる。
「どうか、お気をつけを」
「う、うるさいっ! どこを触ってるんだ、放せっ! この無礼者が!」
瑠璃は一発、男の頬を思いきり張り飛ばした。そのまま、めちゃくちゃに両腕を振り回してもがく。肘だの拳だのが容赦なく藍鉄の頬やこめかみに激突した。だが、男は顔色も変えなかった。そのままいとも簡単に元通りに立たされる。余計に格好がつかない。
瑠璃は急激に自分の頬が熱くなるのを覚え、さらに逆上した。
「いいから言わぬか! これ以上、無礼の段は許さぬぞっ!」
「……は」
「何もかも、包み隠さずに申せ。私に、まことの忠誠心があると言うなら。よいな!?」
「はは」
一度深々と頭を下げてから、藍鉄は話し始めた。
アルネリオでの、ユーリ王子の働きぶり。
ごく貧しい少年少女の前で、衣服が汚れるのも厭わずにその前に膝をつき、食べ物を与え、かれらを胸に抱きしめて、心からの優しい言葉を掛けられたこと。同様にして、ほかの地域の民たちの所にも回り、まさに粉骨砕身、この活動に身をささげていることをだ。
瑠璃は長椅子に座ったまま、その話をじっと聞いていた。腕を組み、眉間にはひたすらに不快げな皺が刻まれたままである。
だが、じわじわと胸に広がってくるものはどうしようもなかった。
(……そうか。兄上は)
兄は、あの王子の見てくれやら、身分にはほとんど興味がないのだ。
大切なのは、きっとそんなことではない。
思えばあの亡き深縹も、美貌をもって世に知られた女ではなかった。温厚で慈悲深く、ごく控えめな女性だったと思う。皇家の女たちにはよくあるような、権力を奪いあったり美貌を競い合ったり、力を振りかざすような心根はいっさい見せない人だった。
瑠璃の態度は対照的なものだった。玻璃を愛しているゆえに、決して温かく迎えたわけではない。むしろ氷のような眼差しと鋭い舌鋒と態度を持って、あの人に接していたと思う。今よりずっと若く幼かったこともあり、余計に露骨だったことであろう。しかし彼女は夫の大切な弟として、瑠璃にひたすら深い敬意をもって接してくれていたようだった。
瑠璃がそうと気づいたのは、彼女が遠いニライカナイへ去ってからのことだったけれども。
(玻璃兄は──)
ぎりりと唇を噛んでなにかを堪える。衣の膝がしらあたりを力いっぱいに握りしめ、瑠璃は視線を床に落とした。
兄はその心根こそを、深く愛していたものだ。
だから、だからこそ。
みんなから「美貌の皇子よ」と褒めたたえられているだけの自分のことなど、ほかには大した取り柄もない弟のことなど、見向きもしてくれないのだ──。
急に黙り込み、肩を小刻みに震わせている瑠璃の足元で、藍鉄はやっぱり黙って頭を垂れているのみだ。
だが、瑠璃が気づくことは遂になかった。
床に落とされていたその視線がほんの一瞬、先ほど瑠璃の体に触れた自分の手に、ちらりと向けられていたことに。
◆
「そういえばあの少女。アーニャでしたか? よかったですね」
「ああ。本当に」
例によって移動中の飛行艇の中である。
ロマン自慢の紅茶をひとくち含んで、ユーリは嬉しげに目を細めた。
あれからさらに、数週間が過ぎていた。
あの少年が連れていた小さな少女、アーニャについては、その後すぐに滄海の医療機関に収容されて、精密検査が行われた。
玻璃からの連絡によれば、彼女の目は幸いにも治療が可能なものだった。少年はそれを知ってその場にぺたりとへたりこみ、人目もはばからずに大声でおんおん泣いていたのだという。
それを聞いて、思わずユーリの胸も熱くなった。うっかり涙まで滲んでしまいそうになったものだ。
あの少年は、きっとこれから一生懸命に勉強してくれるだろう。
あれだけの気骨のある少年だ、きっと優秀な人材に育ってくれるに違いない。
そうしてきっと、自分の道を自分で切り拓いていくことだろう。
実際、経済的に楽になった兄妹の両親は、今のところ二人が今後も冬場に滄海へ出かけ、さまざまな勉強をすることを快諾してくれている。
特に男の子は大切な働き手でもあるので、家を空けることにいい顔をしない親も多い。だが、ユーリたちのお陰で借金問題が解決した多くの家では、子供たちの教育に協力的になってくれたのだ。
ロマンがその素晴らしい能力を見せつけて、教育の大切さを実地で教えたことが大きいのかも知れなかった。
玻璃は、別に海底皇国にこれらの子供たちがとどまって、地元の民と結婚してくれるようにと強制などはしないという。
だが、ユーリはこうも思っている。
もしもあのアーニャという少女が大きくなった暁には。
そして兄と同様に、きちんと教育を受け、ふさわしい教養を身につけた暁には、と。
男尊女卑の気分がまだまだ強く、どんなに能力があったとしても女性が要職につくことを好まないアルネリオ。いや、そもそもアルネリオでは、女の子は比較的裕福な家庭の娘でも、系統だった勉強をする機会そのものが与えられないのが普通なのだ。
対して、あの波茜に代表されるように、そうした障害がほとんどなく、将来の職業への道が能力に応じて大きく開かれた国、滄海。
かの少女は、いずれどちらを選ぶものだろうか──と。
窓外を飛び去って行く雲の流れを目で追いながら、やわらかな茶葉の香りを楽しみつつ、ユーリはゆったりと微笑んだ。
海底皇国、滄海から正式の文書がきたのは、それから間もなくのことだった。
アルネリオの皇帝エラストは、これを御前会議に諮り、十分に吟味した上、了承することを決定した。
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