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第八章 過去と未来と

3 鬱勃

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 それ以降、瑠璃は自室に引きこもることが多くなった。
 兄が尾鰭をつけずにいるので、自分も二足で過ごすようにしてはいるのだが、そろそろ尾鰭をつけた姿で海の中を泳ぎ回りたい気分でもあった。
 何もかもが、鬱陶しい。

 あれからすぐ、帝国アルネリオは正式に玻璃兄とユーリ王子との婚姻を承諾する旨を正式に通知してきた。二人の婚儀の準備が始まり、滄海の帝都、青碧せいへきも全体になにか浮足立っているように感じられる。
 ユーリはいわば「皇太子妃」にあたる身分になるので、皇太子である玻璃の御座所である東宮に住まうことになる。そちらの準備で、下々は今まさに大わらわであるはずだった。
 が、そんな騒ぎは瑠璃の住まう宮までは聞こえてこない。
 瑠璃はゆるりとした薄水色の部屋着姿のまま、長椅子にしどけなく横たわっている。このごろはいつもこんな風で、ぼんやりと窓の外を見て過ごすだけの毎日だ。
 本当であれば、兄の婚儀のためにあれこれと奔走し、手伝って差し上げてもいいところだった。だが、到底そんな気分にはなれない。

 あれ以来、兄にもきちんとは会えていない。食事で同席したり、廊下ですれ違ったりした程度である。
 兄が今心から愛している人をこき下ろしたのだから、本来であればしっかりと謝罪を伝え、許しを請うべきだった。でも、そんなことをする気分になれない。
 藍鉄は相変わらず、影のように部屋の隅に控えている。
 玻璃よりもひと回り大きな体で跪き、いかつい顔を無表情に固まらせたまま、常に瑠璃の身を護っている。
 あの日、この男の体を好き放題に蹴りつけた瑠璃だったが、それを謝る機会もまるでなかった。藍鉄はその後も態度をまったく変えず、静かに側にいるばかりだったからである。

(あんな奴、死んでしまえばいいのに)

 考えてはならぬことを、もう何度目かに考える。
 アルネリオは、こちらとは比べものにならないほどの後進国だ。医療技術も相当低い段階にすぎないし、人々はちょっとしたことで、すぐに命を失くすと聞いている。だったらあの王子とて、ほんのわずかなウイルスにでも感染したら、あっという間にこの世の人でなくなるかも知れないではないか。

(いや。だめだ。そんなことは考えるな)

 瑠璃は慌てて、真っ黒でどろりとしたその考えを振り払った。
 本当は、兄があの深縹こきはなだを妻に迎えた時だって、決して心穏やかではなかった。あの時は自分もまだほんの子供だったけれども、大好きな兄を知らない女に盗られることが、ひどくつらかったのを覚えている。
 しかし、兄も女性にょしょうもすでに大人だったし、自分も兄に対する己の気持ちをうまく掴みきれてはいなかった。
 だが、今はそうではない。

 自分は、兄を愛している。
 同性だからという以上に、あまりにも血が近すぎて決して許されぬ恋だということは分かっている。何よりも、兄自身にその気がない。そのことも、痛いぐらいに分かっていた。
 でも、だからといって目の前で、別の男に兄を奪われるなんて許せるものではなかったのだ。
 少なくとも、深縹こきはなだは女性だった。滄海でも、同性よりは異性でつがうほうが喜ばれるのは事実である。おかしな偏見はかなり薄くなってはいるが、太古の昔から多くの人々は男女で子を為してきたものだからだ。
 だから、深縹こきはなだであれば許せた。ぎりぎりの危ないところではあったけれども、「なんとか我慢しよう」とも思えた。
 だが、あのユーリではそうはいかない。
 自分と大して年も違わない青年。それも、見たところごく凡庸で、さしたる才能もなさそうな奴。「優しい」と言えばそうかも知れぬが、悪くいえば「弱い」のだ。腰が据わっていないとも言う。あの青年は、瑠璃がちょっと睨みつけるだけでおどおどびくびくして、黒鳶の後ろに隠れたそうなそぶりさえ見せる。
 あんな奴を玻璃兄は、「可愛い」だの「愛おしい」だのと言って大事にするのだ。
 「心根が素晴らしい」と言って賞賛するのだ!
 瑠璃は、思わずかちかちと親指の爪を噛んでいた。

 あんな奴に、自分が負けるというのだろうか。
 あの兄を、奪われるというのだろうか?
 ……いや、絶対に許せない。

 瑠璃は、いきなり立ち上がった。部屋の隅から藍鉄が、目線だけで「何処いずこへ」と問うてくる。

「東宮へゆく。支度をさせよ」
「は」

 短く答えて頭を下げ、藍鉄が空気に溶けるように姿を消した。





 兄の御座所に着くとすぐ、瑠璃は兄がいつも執務室として使っている部屋を目指した。後ろから藍鉄が、影のようにつき従っている。
 父に成り代わって多くの政務を取り仕切っている兄は、非常に多忙だ。今はその上、婚儀の準備にも追われている。本人はあの通り泰然とした人なのだが、実際は目の回るような忙しさであるはずだった。
 兄の側付の文官が先触れをするのを待ちかねて、瑠璃はさっさと部屋に入った。
 思った通り、部屋にはたくさんの文官たちが詰め、卓の上には様々な書類がひろがり、空中には多くの青や緑色をしたモニターが開かれていた。モニターの中には、さまざまな表やグラフが示されている。

「ん? 瑠璃か。どうしたんだ」
 書類から目をあげた兄は、いつものように鷹揚な笑みを浮かべて瑠璃を迎えた。瑠璃は兄に頭を下げた。
「お忙しいところ申し訳ありません、兄上。少し、お話がございまして」
 そう言ったら、兄は途端に苦笑顔になった。
「なんだ、えらく殊勝だな。なにがあった?」
「……人払いをお願いできませぬか」
「人払い?」
 兄は少し変な顔になったが、黙って側の文官に目配せをした。
「だが、あまり時間はとれぬぞ。済まぬが、今は非常に多忙でな」
「わかっております。お時間は取らせませぬ」

 手元の書類を少し片づけて、文官たちが頭を下げてさがっていく。
 やがて部屋には玻璃と瑠璃、そして藍鉄だけになった。

「藍鉄。お前もしばらく下がっていろ」

 黒ずくめの男は無言でほんのわずかだけ停止したようだった。
 が、瑠璃が不審に思ってじろりと睨むと、そのまま素直に姿を消した。

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