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第九章 初夜
8 不寝番
しおりを挟む「……ロマン殿」
「えっ? は、はい」
姿こそ隠していないが、いままで気配すら消して空気のように静まり返っていた男に急に呼ばれて、ロマンはハッとした。
結構、心臓に悪い感じだ。
「あまり、ご案じ召されますな」
「え……。あの」
目を瞬いたら、黒鳶はすっとその場で頭を垂れた。
「配殿下の御身については、この自分も『命を賭してお守りせよ』とのご命令を賜っておりますれば。どうか、存分にお頼りください」
「あ……はい。それはもちろんです」
最初のうちこそ怪訝に思うことも多かったけれども、今ではロマンはこの男に、かなり気を許してしまっている。いや、他国の男に対してあまりいいことではなかろうけれども。しかし、どこまでもクソ真面目で寡黙で控えめな態度を崩さないこの男の様子を見ていると、ロマンもどんどん気持ちの箍が緩んできてしまうのだ。
物静かだが、秘めたる気魄はすさまじい。なのにそれをおくびに出す風もない。本来は厳しいはずの眼光を、普段はひたすらに押し隠して澄ませているだけ。ただただ静かで穏やかで、川面のせせらぎのごとくに涼やかだ。
それでいて、いざというときの裂帛の気合は目を瞠る。
要するに大人の男なのだ。
さすが、あの玻璃殿下が心から信頼する側近だけのことはある。
「わざわざ何度も申されずとも。黒鳶殿のことは、まことに頼みにしております。玻璃殿下がご信頼を置く方だからというばかりではなく。……これからも、どうか私と共にユーリ殿下をお守りしていただければ嬉しいです」
「無論のことです」
「どうぞよろしくお願いします」
にこりと笑って頭を下げて見せたらようやく、黒鳶が安堵したような目の色になった……ような、気がした。
と言うのもこの男、本当に表情が読めないのだ。こんなことがなんとなくわかるようになったのも、実はごく最近のことだった。
そしてやっぱり気のせいなのかもしれないが、この男がそういう目で自分を見るとき、なぜかロマンは自分の胸の奥にぽっと、不思議な灯がともるような気がしていた。胸のもっとも奥のほうが、ことりと変な音をたてる。
……いや、恐らく気のせいだ。
(まあ、それはそれとして)
ロマンはあれこれと思案をしつつ、アルネリオ式のポットからカップに紅茶を注ぎ、そこへサモワールから熱湯をつぎ足して適度に濃さを調節した。カップ自体は硝子製で、植物の葉を模した優美な金属製のホルダーにはめ込まれたデザインだ。
本当はどれも自分などが使ってよい品ではないのだけれど、お優しいユーリ殿下が「故郷を離れて寂しいだろう。どうか使っておくれ」と強くおっしゃるものだから、ついお言葉に甘えさせていただいてしまっている。
濃い臙脂色の液面から、ゆらりと薄い湯気がたった。
(できればこちらの国の中に、ユーリ殿下の後ろ盾になってくれそうな者が見つかればよいのだけど)
それも、ある程度身分のある者がよい。が、もちろん玻璃殿下に敵対するような者ではまずい。輿入れをして早々にこちらの王宮内部に要らぬ騒乱を巻き起こしたりなどすれば、それこそ殿下のお立場を危うくする。あっという間にユーリ殿下が本国へ追い返されるなどということになってはことだし、そもそも本末転倒だ。
「ロマン殿」
男がまた控えめな声を発した。
「はい?」
「実は玻璃殿下から承っている儀がございます。この七日七夜の儀が終わりますれば、とある御方をユーリ殿下にご紹介せよと」
「えっ。……そ、それは──あっ!」
驚いて立ち上がったら、やや背の高いカップに手が当たり、かたりと倒してしまった。
黒鳶は素早く立ち上がると、慌てて後始末をしようとするロマンの手を軽く押しやった。そのまま懐から出した手巾のようなものでテーブルの上を手早く片付けていく。
「す、すみません……」
「いえ。お手は大事ありませぬか。火傷などは」
ひょいと手首を握られ、じっと傷の有無を確かめられてしまう。
「は、はい……。お陰様で」
「まことに?」
(うわ……!)
至近距離から目の奥を覗かれて、胸の音がまた一段どくんと跳ね上がった。
が、黒鳶の方は特に何も気づかぬ様子だ。特に怪我などないことを確認すると、すぐにロマンの手を離し、今度は無造作に耳に口を寄せてきた。
「え、あの──」
何をされるのかと、思わず身を固くする。
だが、それは完全な杞憂だった。
低く囁かれたその言葉は、件の御仁の情報だった。
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