ルサルカ・プリンツ~人魚皇子は陸(おか)の王子に恋をする~

るなかふぇ

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第五章 駆け引き

1 栽培室

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「おはよう、ユーリパパ!」
「ああ、おはよう。フラン」
「玻璃どのも、おはようございます」
《ああ、おはよう》

 少年が見よう見まねで滄海式にぴょこんと頭を下げると、筒状の《水槽》の中の男が鷹揚に微笑んで頷いた。

《本日も元気そうでなによりだ、フラン》

 男の声はそのまま少年の耳には届かないが、賢くナイーブで感受性にすぐれた少年には、ユーリがわざわざ伝えてやらなくとも、ちゃんと理解できているようだ。はちきれそうな頬を笑みの形に引き上げて、にこにこと可愛らしい笑顔を玻璃に向けている。それを見つめる玻璃の瞳は、いつも優しい。

 あれから、二十日ばかりが過ぎた。
 火星の軌道上に停泊したままの、巨大な宇宙船である。
 少年フランは見るみるうちに大きくなった。今ではもう、頭の最も高いところがユーリの胸元あたりに来ている。普通の人間だったら、十歳から十二歳ぐらいの頃合いだろうか。

「ユーリパパ、朝ごはん食べよう? ねえ、今日は一緒に食べるよね?」
「ああ、うん。そうだね……」
 ユーリが言い澱み、ほんの少し考え込む顔になるだけで、少年の顔はすぐに悲しそうにかげってしまう。
「あの、あのね。今日は野菜の栽培室で収穫作業もするんだよ。とれた野菜を朝ご飯にするの。一緒に行こうよう、パパ」
「あ、ええっと……」

 早い子供ならそろそろ思春期に差し掛かろうかという歳なのに、この子はひどくまっすぐで甘えん坊だった。こんな風に食事だけではなく、「一緒に寝ようよ」「勉強するところを一緒に見ていて欲しい」「野菜の栽培作業、一緒にしようよ」などなど、いつもユーリの近くに居たがるのだ。
 しかしユーリは基本的にいつも《水槽》のある部屋にいる。寝る時も食べる時も、必要なものを近くに持ってきて過ごすようにしているのだ。もちろん、基本的に玻璃のそばから片時も離れたくないからだ。

 そもそも、この子はアジュールと同じ部屋で寝起きしている。そこにユーリが混ざるわけにはいかなかった。玻璃の目の届かないところで、何をされるか分かったものではない。
 だが、実はフランが生まれてきて以来、アジュールは精神的にかなり落ち着いてきているようではあった。だからユーリにも以前ほどあの男を警戒する気持ちはなくなってきているけれど、だからといって全面的に信用できるはずもない。これまでやってきたことがやってきたことなだけに。
 少年フランのことはこれほど溺愛していても──そうだ、もはやそれは完全な「溺愛」だった──あの男は玻璃のことを決して人質以上には見ないからだ。

 無用になればいつでも命を奪う気でいるし、そうすることにいっさいの躊躇は見えなかった。フランを愛しているがゆえ、フランが懐いている「ユーリパパ」の機嫌は損ねたくない。だからユーリの気持ちに添わないことは避けている。ただそれだけのことだった。
 それどころか、近頃では明らかに玻璃だけを邪魔者扱いする感じが見える。玻璃がここから動けないのをいいことに、うまくフランを誘導して別の部屋での学習や作業を促し、さりげなくユーリをこの部屋から遠ざけようとするのだ。その目的は見え見えに思われた。

「あの……フラン? 何度も言うけど、僕はあまりこの部屋から遠くへはいけなくて。……というか、行きたくないんだ」
「うん、分かってる。玻璃どののお世話があるからだよね」
「え? ああ……うん」

 アジュールと《サム》によって、ユーリがここにいたがる理由はそのように捻じ曲げられてこの子に伝わってしまっているらしい。
 玻璃がこの中にいる理由は、彼がひどい重病を患っていて、ここで療養しなくてはならないからだ……とかなんとかとアジュールは説明している。これもフラン自身から聞いたことだった。
 もはや、どんな皮肉なのかと思う。
 自分で無理に攫ってきて、彼の命を盾にユーリを呼び寄せ、閉じ込めておきながら──。
 だが、ユーリもこの少年フランにそのことを告げたいとは思わなかった。この子はあの恐ろしい「父親」を慕っている。彼のこの気持ちがなくなったりすれば、あの男が今度はどんな狂い方をするかわかったものではないのだ。

「でも、ちょっとの間なら《サム》が機器の調子は見てくれるんでしょう?」
「うーん。そ、そうだけど……」
「ね、いいでしょう? ほんの一時間ぐらいだから。そろそろミニトマトの収穫ができるんだよ。とっても甘くて、美味しくできたんだ。ユーリパパと一緒に採って、一緒に食べようって思ってたんだもん……」
「で、でも──」
「ねえ、お願い。ねえねえねえ」

 フランは素直な澄んだみどりの瞳でじっとこちらを見上げ、ユーリの袖をひっぱりながら唇を尖らせている。表情といい性格といい、本当に可愛い少年だ。ユーリもここまで慕われてしまっては、あまり強く拒否することもできなかった。
 こうなると、大抵は《水槽》から玻璃の優しい声がした。

《ユーリ。いいではないか。俺はかまわんぞ。フランの側にいてやるといい》
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