白と黒のメフィスト

るなかふぇ

文字の大きさ
109 / 209
第十章 決戦

7 変わる心

しおりを挟む

 脱出行は思った以上に難航した。《闇のヘビ》たちは二人の周囲をがっちりと取り囲んで逃がそうとしないし、そこをどうにかこうにか突破したかと思えばまた新手の《闇》が目の前に現れてゆく手をさえぎる。
 それを咬みちぎり、蹴散らし、かき分けて進むうちに、さすがの黒狼シディも全身に重い疲れが広がるのを覚えはじめた。四つの足すべてにいくつもの岩を結び付けられたようだ。ひどくだるい。頭もぼうっとしはじめている。
 それでもがむしゃらに目の前の《闇》を蹴散らすことはやめなかったけれど。

(くそうっ……。こんなところで!)

 あまりの悔しさで、知らず牙をバリバリと噛み鳴らしていたらしい。
 だからインテス様が優しい手つきで自分の首の横をぽすぽす叩いてくださっていることに気づくのもだいぶ遅れてしまった。

「シディ。落ちつくんだ」
「わうううっ……」
「気持ちはわかる。だがここで慌てても仕方がない。ここは二人でまた魔力を合わせてみようではないか。どうだ?」
「わうっ?」

(でも、インテス様)

 そんなにお顔の色が悪いのに。
 今、あなたにそんな無理はさせられない。
 本来ならとっくに餓死でもしていたはずのところ、こんな場所でもなんとか体力を保たれていたのは《半身》としての魔力の加護があったからだろう。普通の魔導士よりはるかに強大な魔力を持つとはいえ、それでも体力には限りがある。術師自身はただの人間にすぎないからだ。器がもろければ蓄えられる魔力にはどうしても限りがある。

(今ここでそんな無理をしたら、あなたは──)
「心配いらぬ」

 シディの内面を正確に読み取った表情をなさっているインテス様の顔色は、やはり蒼白だった。いつもは明るく輝くような目元にも、目覚められてからこっちどす黒いくまがずっと居座っている。こんなもの、心配するなと言う方が無理だ。

(やめてください。それであなたにもしものことがあったら、オレは──)

 正直、理性を保っていられる自信がない。
 だがインテス様はふふっと笑った。ごく軽い調子で。

「そこまでの無理をしようと言うのではないさ。無理になったらそう申すゆえ」
(……本当ですか?)
「疑り深いなあ、我が半身どのは。私はそなたが思うほど我慢強くなどないよ。これで結構、根性なしなのだからな」

 やつれたお顔でくすくす笑われると、胸に引き絞られるような痛みが走った。痛々しいなんてものではない。
 決して余裕があるわけではないのだ。むしろ今のインテス様の状態はその真逆──。
 シディはほんのわずかに沈黙し、ゆっくりと思考の扉を開いた。

《……インテス様。オレ、本当に感謝してるんです。あなたに》
「うん?」

 背中側から意外そうな声が聞こえた。「急になにを」というお気持ちが、背中を通してありありと伝わってくる。

《あんなところで、あんな仕事をしていたオレを……何年も何年もかかってやっと見つけ出してくださった。村の女の子からも聞きました》
「ん? ……そうか」

 どうやらお心当たりがあるようだ。インテス様の匂いがふと照れくさそうなものに変わる。黒狼王としての非常に敏感な鼻は、彼の微妙な変化すら手にとるように教えてくれるのだ。

《あの頃のオレは、ただのゴミだった。いやそれよりもずっとずうっと、つまらないモノだった》
「シディ──」
 インテス様が絶句したのがわかる。
《いいえ。本当にそうだったんです》

 あの頃。
 夜な夜な性欲を満たすための玩具として男どもに金で買われ、好き放題に弄ばれるだけの存在だった自分は、いつ死んだからといって誰に惜しまれることもなかっただろう。それ以上金になる仕事ができなくなったことと、余計な死骸を片付けなくてはならないことを不快に思った親方が、舌打ちをするぐらいのことだったにちがいない。そうして、どこぞのゴミ捨て場にでも遺棄されたにちがいないのだ。
 ただそれだけの存在にすぎなかった自分を、この人はずっと何年も探し回ってくださった。
 一度は海の精霊に隠されて、その存在を感じることすらできなくなったというのに。それでも決してあきらめず、こうして自分にたどりついてくださった。

《だから。あなたのためならなんだってやるんです。オレは》
「シディ──」
《でも》

 今はもう、それだけではなくなっている。
 セネクス翁に言われた通りだ。もしも今、この場でこの方と一緒に命を喪うことになっても、以前のシディならそれで満足してしまっていたかもしれない。
 「この方と一緒ならいいや」と、「この人となら死んでしまってもいい」と、どこかで諦めてしまっていたかも。

《でも……。今はもう、そうじゃないんです》

 インテス様は静かにシディの次の言葉を待ってくださっている。

《いまは……みんながいる。セネクス師匠も、ティガリエも、ラシェルタも。それからレオも。……ほかのみんなも》

 セネクス翁があちこちの島にシディを連れて回り、それぞれの場所に住む素朴な村人たちに会わせてくれたことの意味。それがこのところようやく、シディの腹にしっくりと落ちてきたのだ。

《誰も失わせたくない。たとえ短いものだったとしても、ちゃんと幸せに、自分の人生を生きてから死んでほしい。……前だったらこんなことは思わなかった。他の人のことなんてどうでもいい、っていうか……あんなひどい奴らなんて、みんな死んじゃえばいいって、そう思っていたかもしれない。すごく簡単に。でも、今はちがうんです》
「……うん」

 匂いでわかる。インテス様が静かに微笑んでいる。

「そうなって初めて出せる力がある。師匠はそのようにおっしゃったのではないか? シディ」
《はい》

 シディも静かに笑った。ただこの狼の顔ではそれがどこまで人の目で理解できるかは知らないけれど。
 だがインテス様は、まさに「心の目」でもってシディの表情を的確に見極められたらしかった。

「そなたがそう思えるようになってくれて嬉しいよ、シディ。本当に」
《インテス様……》

 優しい声に、ぶるっと全身の毛が逆立った。
 きゅっと胸に走る鋭い痛みとともに、温かななにかが満ちている。狼の目からは何も溢れはしないけれど、もしも人の目であったなら、何かが零れ落ちてしまっていたかもしれなかった。
 「では」とインテス様がおごそかな声で宣言した。

「ひとつその成果を、ここで披露してみようじゃないか。ん?」

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

【完結済】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている

キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。 今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。 魔法と剣が支配するリオセルト大陸。 平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。 過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。 すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。 ――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。 切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。 全8話 お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c

この世界は僕に甘すぎる 〜ちんまい僕(もふもふぬいぐるみ付き)が溺愛される物語〜

COCO
BL
「ミミルがいないの……?」 涙目でそうつぶやいた僕を見て、 騎士団も、魔法団も、王宮も──全員が本気を出した。 前世は政治家の家に生まれたけど、 愛されるどころか、身体目当ての大人ばかり。 最後はストーカーの担任に殺された。 でも今世では…… 「ルカは、僕らの宝物だよ」 目を覚ました僕は、 最強の父と美しい母に全力で愛されていた。 全員190cm超えの“男しかいない世界”で、 小柄で可愛い僕(とウサギのぬいぐるみ)は、今日も溺愛されてます。 魔法全属性持ち? 知識チート? でも一番すごいのは── 「ルカ様、可愛すぎて息ができません……!!」 これは、世界一ちんまい天使が、世界一愛されるお話。

【本編完結】転生したら、チートな僕が世界の男たちに溺愛される件

表示されませんでした
BL
ごく普通のサラリーマンだった織田悠真は、不慮の事故で命を落とし、ファンタジー世界の男爵家の三男ユウマとして生まれ変わる。 病弱だった前世のユウマとは違い、転生した彼は「創造魔法」というチート能力を手にしていた。 この魔法は、ありとあらゆるものを生み出す究極の力。 しかし、その力を使うたび、ユウマの体からは、男たちを狂おしいほどに惹きつける特殊なフェロモンが放出されるようになる。 ユウマの前に現れるのは、冷酷な魔王、忠実な騎士団長、天才魔法使い、ミステリアスな獣人族の王子、そして実の兄と弟。 強大な力と魅惑のフェロモンに翻弄されるユウマは、彼らの熱い視線と独占欲に囲まれ、愛と欲望が渦巻くハーレムの中心に立つことになる。 これは、転生した少年が、最強のチート能力と最強の愛を手に入れるまでの物語。 甘く、激しく、そして少しだけ危険な、ユウマのハーレム生活が今、始まる――。 本編完結しました。 続いて閑話などを書いているので良かったら引き続きお読みください

竜の生贄になった僕だけど、甘やかされて幸せすぎっ!【完結】

ぬこまる
BL
竜の獣人はスパダリの超絶イケメン!主人公は女の子と間違うほどの美少年。この物語は勘違いから始まるBLです。2人の視点が交互に読めてハラハラドキドキ!面白いと思います。ぜひご覧くださいませ。感想お待ちしております。

希少なΩだと隠して生きてきた薬師は、視察に来た冷徹なα騎士団長に一瞬で見抜かれ「お前は俺の番だ」と帝都に連れ去られてしまう

水凪しおん
BL
「君は、今日から俺のものだ」 辺境の村で薬師として静かに暮らす青年カイリ。彼には誰にも言えない秘密があった。それは希少なΩ(オメガ)でありながら、その性を偽りβ(ベータ)として生きていること。 ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。 「お前のその特異な力を、帝国のために使え」 強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。 しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。 運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。 偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!

2度目の異世界移転。あの時の少年がいい歳になっていて殺気立って睨んでくるんだけど。

ありま氷炎
BL
高校一年の時、道路陥没の事故に巻き込まれ、三日間記憶がない。 異世界転移した記憶はあるんだけど、夢だと思っていた。 二年後、どうやら異世界転移してしまったらしい。 しかもこれは二度目で、あれは夢ではなかったようだった。 再会した少年はすっかりいい歳になっていて、殺気立って睨んでくるんだけど。

異世界で8歳児になった僕は半獣さん達と仲良くスローライフを目ざします

み馬下諒
BL
志望校に合格した春、桜の樹の下で意識を失った主人公・斗馬 亮介(とうま りょうすけ)は、気がついたとき、異世界で8歳児の姿にもどっていた。 わけもわからず放心していると、いきなり巨大な黒蛇に襲われるが、水の精霊〈ミュオン・リヒテル・リノアース〉と、半獣属の大熊〈ハイロ〉があらわれて……!? これは、異世界へ転移した8歳児が、しゃべる動物たちとスローライフ?を目ざす、ファンタジーBLです。 おとなサイド(半獣×精霊)のカプありにつき、R15にしておきました。 ※ 造語、出産描写あり。前置き長め。第21話に登場人物紹介を載せました。 ★お試し読みは第1部(第22〜27話あたり)がオススメです。物語の傾向がわかりやすいかと思います★ ★第11回BL小説大賞エントリー作品★最終結果2773作品中/414位★応援ありがとうございました★

処理中です...