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第一章 スメラギ皇国
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しおりを挟む「ははうえ……母上さま。どこ……?」
小さな皇子が、広い庭先をぱたぱたと駆けてゆく。
母上は「光の上」などと称される、まさに光かがやくような御方だ。すでに三人もの男子をお産みになられた身だとは思えぬほど、その軀は少女のごとく、ほっそりとしてたおやかだった。
長くつややかなみどりの黒髪。それを美しく結い上げて、金襴の衣をまとい、いつも寂しげにその池の端にたたずんでおられる。そこは彼女のお気に入りの場所なのだった。
彼女の黒髪をいろどる藤のしだれる姿を模した簪が、さらさらと風に揺れている。
「ははうえさま、どうしたの」
そのやわらかな膝にいつものように甘えて抱きつきながら見上げると、母はいつも、優しいながらも悲しい瞳で息子を見やった。
「なんでもないのよ。少し、知っていた人を思い出していただけ」
母はまるで、その池の水面にかの人の面影が揺蕩っているかのように目を細め、そちらをしばらく見つめていた。
「知っていたひと? それはだあれ?」
無邪気な息子の質問に、母はふわりと寂しげな笑みを返しただけで、答えてはくれなかった。
「どうして母上、かなしそうなの。その人と、もう会えないの?」
「……そうね。もう会うことはできないわね」
「どうして?」
だがその質問も、ついに答えてもらうことはできなかった。
やがて白魚にも喩えられるそのお手でそうっと息子の額に触れると、優しい声が振ってきた。
「さあ。お部屋に戻りましょう。額にこんなに汗を掻いておいでだわ。またお熱が出てしまいますよ。先月は三日もお熱を出して、侍女たちを慌てさせてしまったでしょう」
幼い皇子は、少しひんやりするこの母の手が好きだった。そしてこの母が、兄弟の中でだれよりも自分を愛してくれていることをよく知っていた。皇子はふざけて、母の膝にさらにしがみついて見せた。
「ねえ、もう少しここにいましょう。だってお部屋へもどったら、またおべんきょうばかりなんだもの」
剣術や柔術の稽古は好きなのだったが、皇子はじっと机の前に座っての座学をするには、いささか年が幼すぎた。
「いいでしょう? 母上……」
しかたがありませんね、と母が微笑み、「あとほんの少しだけですよ」と釘をさされるのもいつものことだ。この母は、決して皇子を無下に追い払ったりしないのだから。
(ああ……これは)
遠い遠い、過去の夢。
自分にはそれが、すべて夢なのだとは分かっていた。そうだと知ってはいながらも、しばしそれに身をゆだねていたのだったが、やがてその光と温かさに満ちた場面は一転して暗くなる。
これもまた、いつものことだった。
ふと見上げれば、優しい母の顔が一変している。
それはおどろおどろしい黒灰色の髑髏に変わり、暗く底の見えない眼窩でじいっと自分を見つめている。えも言われぬ芳香を発していたはずのその体からは、まぎれもない腐臭がする。
あれほど美しかった黒髪がざんばらになり、うねうねと皇子の体にまつわりついて息もできないほどに締め上げ、悲鳴をあげた彼が逃げようとするのを阻む。
そうしてふと池のほうを見やれば、先ほどは見えなかった何かの影が、じわじわと水底からあがってくるのだ。
それは、血まみれの子供たち。
ある者は腕がなく、またある者は足がなく。
腹を裂かれて臓物をはみださせた姿の者。片目をくりぬかれた者。体の表皮がほとんど剥がれて、顔の見分けもつかない者。
それらの子たちが、ずるずると泥のようになった池から現れては、皇子の体に触れようとして寄ってくる。
『タスケテ』
『タスケテ』
『タスケテ』──。
皇子はふたたび悲鳴をあげて、必死で逃げ出そうともがく。
しかしその時にはもう、母だった何かの髪ばかりでなく、足にも腕にも子供たちの手がとりついて、身動きもできなくなっているのだ。
ぺたぺたと、ぬらぬらと、冷たい手のひらが体じゅうを這う。
肺いっぱいに、腐った肉の臭いが充満する。
『タスケテ……』
『タスケテ……』
『タスケテ……』
子供たちの声は真っ暗な怨嗟と、冷たい絶望に満ちている。
ときにはただ、絹を裂くような悲鳴が混じる。
『ドウカ、ドウカ、アナタノチカラデ』
『オネガイ、オネガイ。オウジサマ――』
『どうかぼくたちを、助けてください』――。
◆◆◆
「アルファ。……アルファ!」
男の声で、アルファはぱっと目を開けた。
ベータの小型艇の中である。そのコックピットのシートに座ったままで、どうやら少し眠ってしまっていたらしい。
全身に、びっしょりと汗をかいている。
(……ああ。久しぶりに見たな)
あの夢を。
記憶を失くしていた三年の間、その記憶ともども封印されていたものが一気に手元に戻ってきてしまったようだ。良いものも、そうでないものもごちゃ混ぜに。
アルファはふと、汗を握り締めていた自分の手を見下ろした。
そして思わず苦笑する。
(なんで信じていたのかな、私は)
この手が綺麗なものだなんて。
周囲の大人がいくら「殿下はまことにお美しい皇子様であらせられます」などとお追従を言うからといっても。
皇家が裏でどんな酷薄で非人道的なまねをしていたかを知っていて、あの者らは平気な顔で、あんな軽薄な言葉の数々を並べ立て、幼い第三皇子を褒めちぎっていたのだ。
そう思うと、いつも自分はどうしようもない吐き気に襲われる。
だが、知らなかったからといって、自分に罪がないと思うのは間違っている。あの皇族の一員であるというその一事だけで、自分には重大な責任が生じるのだから。
……つまり、あの子らに対する責任が。
それらすべてを忘れて、その間いくらあんな下卑た男の持ち物になっていたとはいっても。こんなもの、あの子らが舐めた辛酸に比べれば。
(ちゃんちゃら可笑しい。……まったくな)
アルファのその顔を見て、隣の席に座った男が妙な顔になった。
「何を笑ってるんだ。気色の悪い」
「おや。泣いていたほうが良かったのかな? ベータ君」
そう切り返したら、途端に顔をしかめられた。
「そんなことは言ってない」
「そうかな? なにしろ君は、記憶をなくしたあの『アルファ君』が、ひどくお気に召したようだったからね」
言ってアルファはこれ見よがしに、まだ自分の首筋に残ったその「印」を少し指先でたたいてみせた。つまりこの男が、その唇でこの身に残した名残りの痕を。
「彼はさぞかし、可愛かったのだろう? 君はああいう、素直ですぐに泣いたりする子がお好みだったわけだね。今回のことでよくわかったよ。こんなにあっさりと記憶が戻ってしまって、さぞやがっかりさせたことだろう。そこは申し訳なかったと思ってる。幾重にも謝るよ」
笑ってそんな憎まれ口を叩くと、男は「やれやれ」とばかりに肩を竦めて見せた。
「もうすぐ着くぞ。そろそろ大気圏突入の準備にかかる」
「ああ。諸々、よろしく頼む」
なんだかんだ言いながら、男は結局、自分をこの惑星まで送り届けた。もちろん、スメラギおよびユーフェイマス宇宙軍によって厳重な警備をほどこされた星ではあるのだが、この男にはそれをすり抜ける術がいくらでもあるらしかった。
そのお陰で幸いにも、アルファも自分の「虎の子」をひっぱりだす手間を省くことができたわけだ。
真正面からこの星に戻る場合、本来であれば自分にも「タカアキラ」個人を識別するためのシークレットコードが与えられている。実際には警備システムから誰何されたとき、アルファ自身が返答するだけでことは済むのだ。
しかし、今回のアルファは正攻法で皇家に戻るつもりは無い。まずは搦め手から故国に入り、その内情を調べ、子らの状況をなるべく詳しく探ったうえで、今後の行動方針を立てる必要があるからだ。
それほどこの星の内実は危うい。すでに死んだものとみなされているだろうとは言え、我が故国に戻るというのに、一国の皇子がここまで用心せねばならないほどには。
目の前のモニターには、懐かしくもおぞましき、わが故郷の星がある。
――惑星、スメラギ。
選ばれし皇族の人々が暮らす地にふさわしく、そこは青や緑に彩られた、見るものを虜にする美しい星だ。
しかしアルファはただそれを、本物と寸分たがわぬように精緻につくりあげられた宝石の贋物を見る人の目でじっと睨んだ。
ふと隣を見れば、精悍な横顔のその男も、恐らく自分と似たような目の色でその惑星を冷ややかに見つめているばかりだった。
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