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第一章 スメラギ皇国
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しおりを挟む宮中に、花びらの零れるがごとき女官らのさんざめきが流れている。
女たちは長く豊かな黒髪にそれぞれの位に従った髪飾りをさし、長く裾をひく豪奢な袷の衣に身を包んでいる。
「ほら、ごらんなさい。タカアキラ殿下の、なんとお可愛らしいこと」
「本当ね。兄君のナガアキラ殿下、ツグアキラ殿下もそれはすばらしいお姿、お心映えでいらっしゃるけれど」
「それはもちろんよ。けれどあのお年であのご聡明さ。ほんとうに驚いてしまうわ」
「それに明るさ、お可愛らしさも、兄君さまがたより秀でておいでよ。これは大きな声では申せませんけれど」
「なによりタカアキラ様は、その上、お心までお優しいときているのよ!」
「そうそう。この間なんて、わたくしがついお運びした茶器を床に落としてしまって軽い火傷をしたとき、あわてて駆け寄っていらして、『大丈夫?』ってこの手をとって。見ればまあ、本当に泣きそうなお顔で、心から心配してくださったのよ」
スメラギ皇家の広大な宮は、全体に板敷きの平屋建てとなっている。周囲をゆったりとした山水の庭園に囲まれ、春には春の、秋には秋のいろどりで住まうものの目を楽しませるのだ。
スメラギ皇──この国の人々はかの御方を「ミカド」とお呼びするのが普通だが――とそのご家族がたのおわす宮全体は皇居と呼ばれ、そのうちこの后の住まう宮のことを、ここでは「曙光の宮」と呼ぶ。
后妃は正妃であられる「光の上」を筆頭に三名。とはいえミカドのご寵愛は、ほとんど一筋にその「光の上」のもとにあった。
二の后、三の后にも子はあるが、基本的に皇位を継ぐことができるのは正妃の子のみだ。あとの子らはといえば、いわばある種の「保険」のような存在で、万が一正当な皇位継承者たちに不測の事態が発生したときにのみ、その上に皇座が舞い降りてくるのである。幸いにして長ずるまでの間にそうした事態にならなかった場合、それらの子らは臣下筋の何某かへと養子に出され、いずれ未来のミカドの手足となって働く臣の一人になるのが普通だ。
女たちから扇や袖の陰でこそこそと好きなように噂されていることなど露知らず、スメラギ家の第三皇子タカアキラは、ちいさな額に玉の汗を光らせながら、一心に母のいる宮へと駆けている。
明るい空色の絹糸で織られた童水干と、動きやすい小袴といった出で立ち。水干には胸元や袖のあたりに可愛らしくぽんぽんと菊綴と呼ばれる房飾りがあしらわれている。長い黒髪は頭の後ろでひとつにまとめ、素直な垂れ髪になっていた。
「母上、母上! 池の向こうの陽だまりに、菫が咲いておりました。今年、はじめて見つけたのです!」
「あら、可愛らしいこと」
女官に勧められて香炉を手にし、新しい香を吟味していた母「光の上」がふわりと微笑む。そうやって愛する息子を迎えるのも、この宮のいつもの光景だ。
皇后は沓を投げ出さんばかりにして座敷へ上がってきた小さな息子の手からその二輪ばかりの花を受け取り、生けてやるようにと傍らの女官に預けた。それからあらためて息子を近くへと招き寄せ、やさしく抱きしめる。
男児が七つになれば、たとえ血を分けた母といえどももはやこうして同じ部屋に起居したり、直接顔を合わせたりすることは許されなくなる。だからこれはこの親子に、今だけに許された大切なふれあいのひとときなのだった。
「美しいわね。どうもありがとう、タカアキラ」
女官が小ぶりな花瓶に生けてきたその花をすこし嗅ぐようにして、母はそっと傍らの息子を見やった。皇子は上気した丸い頬をにっこりと微笑ませる。もちろん、母の喜ぶ顔が見られて嬉しいのだ。
母はそんな息子をみながら、やや首をかしげてもの思う風だったが、やがて顔をあげて息子の目をじっと見返した。そこにのぼった微笑みはそのままに。
「けれど、タカアキラ。花は摘んでしまったら、もう長くは生きられないのよ。今度はすぐに摘んでしまわないで、まずわたくしを呼んでちょうだい。そうして、そこへ案内してくださればいいの。そうしたら、もっともっとお母様は嬉しいわ」
「え、母上……」
どうやら母の意にそまぬことをしてしまったらしいと気づいて、タカアキラの相貌が曇る。この皇子は非常に感受性が豊かで、相手の気持ちの機微に敏感なのだ。
母のほうでも息子の表情にすぐに気づいて、困ったような笑みを作った。
「いえいえ。叱っているのではありませんよ。ただ、花にも命があるのだから。あなたの手で手折られなければ、この花とてこれからまた種を残して、命をつないでいきたかったかも知れないでしょう」
「あ」と小さく声をあげて、皇子はしょんぼりと目線を落とした。たとえまだ幼い齢だとは言っても、この皇子に多くの言葉は必要ないのだ。
母はそれを察して、ゆっくりと笑みを深くした。
「ですからわたくしは、たとえ少々土に汚れていても、お日様の下で健やかに根付いている花が好きなの」
「……はい、母上……」
少ししょんぼりしたタカアキラを、かさねた長い袖を揺らして抱き寄せると、母はその髪を、優しく撫でてやった。
「がっかりさせてごめんなさいね。気に病む必要はないのですよ。わたくしが、少しばかり敏感すぎるだけのことだから」
そんな微笑ましい母と子の様子を遠目に見ながら、女官らの噂話は続いている。
「それにしても、ツグアキラさまにはお気の毒なことだったわね」
「そうね。まさか第二皇子であらせられる方に、<恩寵>が顕れなかっただなんて──」
「これで第二皇位継承者は、タカアキラ殿下に決まったようなものね。なにしろ殿下は、あのお年でもう<恩寵>を賜っておいでなのだもの。しかも、ひとつではないという噂もあるわ」
「そうらしいわね。わたくしたちにとっては喜ぶべきことよ。大きな声では言えないけれど」
「そうね。それに、その……こう言っては何だけれど、あのツグアキラ殿下は少しばかり──」
「しっ。誰が聞いていないとも限らないのよ。まして皇族さまがたには<恩寵>があられるのだから。迂闊な言葉はお口になさらないのが身のためだわよ。お互いにね」
「そ、そうね……」
途端に、女たちの声はぼそぼそとさらに低くなり、周囲には聞こえないほどになった。
「曙光の宮」のまわり、池を囲んだ木立の陰に、陰鬱な顔をした青白い相貌の少年が立っている。
その目はじっと、邸の中で今もまだ戯れている「光の上」とその三男、タカアキラを虚ろな光をたたえて見つめている。
が、その薄暗い視線を感じたかのように、いきなりぱっとタカアキラがこちらを見て、少年は小さく舌打ちをした。そして素早く木の幹に体を隠すと、足早にその場を去って行った。
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