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第二章 焦燥
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しおりを挟むさて。
自分の気持ちを自覚してからというもの、ベータの苦労と言ったら実際、言葉に尽くせないものになった。
「いつまでも働きもしないで世話になっているのは申し訳ないから」と拝み倒され、彼に夜、自分の店を手伝わせたときもそうだった。青年は明らかに彼を目当てに店に入ってきたらしい獅子顔の大男にあっさりとつかまった。そうしてそのまま好き放題に体を撫でまわされ、硬直したように無抵抗になった。
ここはそういう店ではないのだから、イヤならイヤとはっきり言って手を振りほどくぐらいのことは構わない。まあ、それにもある程度、相手の気分を害さないぐらいのスキルは要るが。だというのに、彼は涎を垂らさんばかりのその男にいいようにされ、もう少しで「付き合ってよ」の言葉にうなずきそうにすら見えた。
見るに見かねたベータが彼をバックヤードに追いやって、適当にその客をあしらって店から追い出していなかったら、その後どうなっていたことか。想像するだに胃の腑から苦いものが上がってきそうな気分になる。
実を言えば、その後もアルファの匂いをたどってその男をはじめとする様々な獣人どもが店の近辺をうろつくという事態が発生した。ベータはやむなく羊とは違うマスクをかぶり、この左手の脅威をもって奴らにきつい「お仕置き」をしておいたのだ。無論、青年には何も言わずに。
要するに、奴らには「あいつに手を出せばこの街のちょっと怖いお兄さんがたからえらい目に遭わされるぞ」といったようなことを、まああること無いこと吹き込んでおいたわけである。そうでなければあのアルファに一人でちょっとした買い出しに行かせることすらままならなかったからだ。
まったく、厄介な店員があったものである。
しかし、それはなにも客に対してばかりの話ではなかった。
なにしろ記憶を失くしたままのアルファはいやに素直で可愛すぎる上に、以前にも増してすさまじく色香が増していた。その上、何故か知らないがいつのまにやらこちらのことを「好き」と言うまでになってしまった。その無防備さといったらなかった。まさに「触れなば落ちん」というあれだ。
いや、あのアルファもこのアルファも同じアルファだ。ベータとしてもどちらのことも嫌いではない、むしろその逆だと言って良かった。
しかし。
吸いつきたくなるような白いうなじを見せてこちらの肩に額を乗せ、震える声で「好き」と繰り返すあの皇子にむしゃぶりつきたくなる自分を、ベータは必死で抑えていた。
いま、この状態の彼を抱いてもいいものか……?
ベータにとって、そこが大問題だったのだ。
もしも彼に記憶が戻れば、「記憶を失くしていたのをいいことに、この体を好きにしたんだな」と白い目で見られることは必至だった。記憶がないということは、すなわち今ここにいるアルファはアルファであってもアルファではない、ということだ。記憶というものはすなわち、その人そのものを形作る重要なファクターだから。
記憶の戻ったアルファからすれば、いま自分がこのアルファを抱いてしまえば「そっちの彼を愛したんだな」と誤解するのは当然である。そう思われるのは甚だ面倒だった。
だから、迷った。
かなり迷った。
とは言え結局、ベータは負けた。
その後、ここに再現するのも面倒なすったもんだがあった挙げ句、ベータはしまいに彼から「こんな汚い体だから、あなたは私なんか抱きたくないんだ」と泣かれた。ひとたびそうなってしまったら、彼の願いを無下に却下するのはさすがに気が引けたのである。
(……ふざけるなよ)
ベータの血は逆流した。
「抱きたくない」わけがない。許されるものなら今すぐにでも彼を組み敷き、そうしたくてたまらなかった。この自分が単なる性欲処理のためでなしにそんなことを思ったのは、まったくそれが初めてだった。
だというのに、あのバカ皇子はこちらがどんなにそれを我慢してきたかも知らないで、泣きながらそんなことを訴えたのだ。
ベータは正直、心の中で頭を抱えた。
「お前、いい加減にしろ」と。
「こっちの気も知らないで」と。
スメラギの古い言葉に「据え膳食わぬは」なんとやらというのがあるが、その比ではない。それどころか、この場合は罪だろう。
だからベータは、腹を括った。
記憶を失ったままのあのアルファを、その夜、初めて抱いたのだ。
しかし。
果たしてそれは、良かったのか悪かったのか。
さも嬉しそうに口づけを求め、自分から足を開いてベータを受け入れたアルファは、えも言われぬ可愛さだった。その体も、相変わらず素晴らしかった。そのうえ正直、かなりな床上手にもなっていた。それがあの蜥蜴野郎に教え込まれたせいだと思えば苛立つ気持ちもあったけれども、事実は事実なのだから仕方がない。
アルファは甘く掠れた声をあげつづけ、ベータに愛される喜びを全身で表現し、何度も絶頂しては気持ちよさそうにその滑らかな肢体を震わせ、欲望を吐き出した。その瞬間の、蕩けて恍惚とした顔は最高だった。
行為がひとしきり終わっても、彼の体はその中にあるベータ自身をいつまでも名残惜しげにきゅうきゅう締めつけ、逃がすまいとするように絡みついていた。
が、そんな甘い夜はその後、あっという間に打ち砕かれた。
目を覚ましかけたアルファにひと言、ベータが囁きかけた途端、彼は瞬く間にもとのタカアキラとしての記憶を取り戻したのだ。
普段はあまり使うこともなかった「ブラッド」という偽名をわざとらしいほど連呼して、アルファは忌々しげにこちらを睨み、さっさと服を着て「スメラギに戻る」と言い放った。その態度は氷のほうがはるかに温かみがあるのではないかと思われるほど、それはそれは冷淡なものだった。
(……勘弁しろ)
愛機「ミーナ」のコクピットで、眼前に迫ってくる惑星スメラギの姿を見ながらベータは思う。
ある程度の予期はしつつもこうなることこそを恐れていたというのに。運命というものは、なんとも皮肉かつ呆気ない幕切れを用意してくれていたものだ。
隣には、件の麗しいこの星の皇子殿下が座っておいでだ。その横顔は気高く知的で、しかし相当に冷ややかなものを湛えて目の前の星を見つめている。あの夜以来、皇子はずっとこの調子で言葉少なだ。
記憶をなくしていた間の自分をベータが抱いたことについても特にこれといって責めるような言は吐かないけれども、心の内でどう思っているかは今のところ未知数だ。ひどく怒りを覚えるだろうと思っていたが、どうやら単純にそういうことでもないらしい。それがなにやら不思議だった。
と、その知的な光を取り戻した黒い瞳がひょいとこちらを向いた。
「どこまで『送って』くれるつもりなのかな、君は」
その口調が、三年前に別れるまでと比べても随分と冷ややかかつ他人行儀になったように思うのは気のせいか。彼がその同じ声帯を震わせて、つい先日自分の下で絶頂の甘い声をあげていたとはとても思えない。
「スメラギに降りてしまったら、あとのことまでは責任持てんぞ。その形ではあの星では目立ちすぎるしな」
「ああ。そのことなら心配いらん」
ベータはちょっと笑って、隣の青年に軽く片目をつぶってみせた。皇子があからさまに嫌そうな顔になる。
「俺にもちょっと、この星で会っておきたい奴がいる。ついでにそっちの用を済ませておこうと思ってな」
「…………」
「余計なお世話かとは思うが、お前も会っておいたほうがいいと思うぞ。向こうはまあ、あまりお前に会いたそうではないんだがな」
「なんだって……?」
皇子の怪訝な視線を左頬に感じながら、ベータは眼前の惑星から目をはなさないまま愛機の中央制御システムに尋ねた。
「ミーナ。降下準備まであとどのぐらいだ」
《はい、マスター。あと六十分程度でステルス状態の降下モードに入ります》
すぐに、落ち着いたアルトの声が答えてくる。
「了解した。俺はそれまでに、ちょっと準備をしてくる。その間、アルファの相手をしてやっておいてくれ」
《了解しました》
「おい──」
「子供じゃないんだぞ」という目になった皇子のことはほっぽって、ベータはシートから立ち上がり、後部のブロックへ移動した。
首の後ろをさすりながら、ついにやりと笑ってしまう。
(お前ひとりでなんて、行かせられるか)
実際、ここまでですでにある程度の仕込みは済ませてあるのだ。
お前のような世間知らずのぼんぼんを、「じゃあ勝手にしろ」とあんな星に一人で放り出すと思うのか。
同じ轍は、二度と踏まない。
(覚悟しろよ、バカ皇子──)
分解シャワールームの隅にある小さな鏡をのぞき込み、ベータは自分の蜂蜜色の髪をちょいといじってにやりと口角を歪ませた。
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