110 / 191
第二章 焦燥
5
しおりを挟む実は彼を助け出してみて初めて、様々な困った問題が存在することが判明した。
アルファはかの蜥蜴の男に拉致される以前の、タカアキラとしての記憶をすべて失っていたのである。当然ながら、わざわざマスクを外して素顔を晒してやったベータを見ても、彼はただ不思議そうな顔をしただけだった。
ベータは何か拍子抜けするとともに、改めてあの蜥蜴野郎を憎悪した。「あの野郎、もっと苦しませて殺すんだった」と殺伐とした後悔がぐらぐらと臓腑を灼くようだった。が、すでにあとの祭りだった。
彼が記憶を失った顛末についてはよくわからなかったのだが、それとよく似た<恩寵>を持つベータにしてみれば、なんとなしにその経緯は想像できた。彼の理性はあの蜥蜴男から与えられるあまりの仕打ちに耐えかねたのではないのかと。それゆえ、自分の心の繊細で大切な部分を本能的に守ったのではないのかと。
ただ、そんな風にぼうっとしているようには見えても、やっぱりアルファは美しかった。この三年というもの、各種さまざまの嗜虐の肴にされてきたのであろうに、彼自身は微塵もそうした薄汚れた心に毒されているようではなかった。そうした精神的な在り方というものは、往々にしてすぐそばにいる他者に伝播しやすいものだというのに。
その体に埋め込まれていたナノマシンを取り除いてやったり、足の傷を治してやったりするときにも、彼は邪気のない子供のような目でベータを見つめていた。そのきょとんとした目はいかにも、「この人とどこかで会ったことがあるだろうか」と自問自答するものだった。
(まったく……)
そんな彼に接すると、ベータは無性にやりきれない気持ちになった。「しっかりしろ」と彼の頬を張り飛ばしたいような、いや、力いっぱい抱きしめてやりたいような。
別に彼から「私を助けに来てくれたんだな。ありがとう」などと涙にむせんで感動し、礼が言われたかったわけではない。そんな期待をした覚えは微塵もなかった。なかったが、逆にこんな風に「今度はこの男が自分の『主人』になるんだな」と、何もかもを諦めたような目をして微笑まれるとは思わなかったのだ。こればかりは予想のはるか外だった。
いや、正直なところを言えば、胸の内に「それならそれでもいいではないか」と囁く「黒いベータ」も居るにはいた。このまま彼の記憶が戻らなければ、彼は本当にただの男、ただの「アルファ」として自分のそばにずっといさせられるだろう。あのスメラギ皇国の皇子としての柵も<燕の巣>から生まれる子らへの責任感もなにも持たない、ただの一人の青年として好きなだけ自分のそばに置いておける。
彼の体を洗うため、宇宙艇内の分解シャワー室の中でその体に触れたときにも、青年は特に嫌がるそぶりは見せなかった。このまま彼の誤解のとおりに彼を自分のものにして、どこかの隠れ家で飼うことだってできるのだ。
あのゴブサムがしていたような嗜虐の生贄にするのとはわけがちがう。ただ自分の思うさま彼を抱き、思うさま彼を悦がらせて、夜ごと甘い声で啼かせてやるだけではないか。
毎日、毎晩。
彼を自分の寝床から出すこともしないで、ずっと。
そうしていけない理由があるか……?
(バカが。何を考えている……!)
電撃のようにしてそんな叱咤の言葉がひらめき、ベータはすんでのところで自分の足の間のものを今にもしゃぶろうとしていたアルファの体を突き飛ばした。
びっくりして呆然としたアルファをシャワー室の外へ追い出して、ベータは口の中でありとあらゆる悪態をつきながら、みっともない欲望を主張しまくっている自分のそれを我が手で慰めねばならなかった。
そんなこと、許されるわけがない。
あの惑星オッドアイの子らもマサトビも、それにあのザンギだって呆れかえり、怒り心頭になるに決まっている。下手をすればあのザンギは、こちらの首の骨を折りにすらやって来かねないだろう。
(……それに)
それに、本当はベータだって嫌だったのだ。
こんな風に理性を失い、たとえ美しくとも心の抜け殻のようになったこの皇子をただそばで見ているのは。そんな心を誤魔化して、うやむやのままに抱いてしまうのは。
やはり、彼に会いたかった。
「子らのために」と必死に自分にできることを探して足掻いていた、美しい瞳をしたあの皇子にまた会いたい。「君に抱いてほしいんだ」とあの夜、耳まで真っ赤にして震える声で言ってくれた、あの皇子に。
世間知らずのどうしようもないぼんぼんではあるけれど、それでもまっすぐに前を見て、自分のすべきことをしようと必死に生きていたあの皇子にだ。
(……焼きが回ったな、俺も)
これはもう、認めるしかなさそうだった。
彼がスメラギの皇子だろうが何だろうが。
そんなことはもう、関係ないのだ。
……愛してる。
お前を。
タカアキラを。
お前がどんな生まれだろうが育ちだろうが、そんなことはもうどうでもいい。
ましてや今回、どんな目に遭って帰ってきたのだとしても。
全部が全部、なにもかも。
もはやどうだっていいのだ。
(……愛してる)
そう心に思った途端、ふわっと体が軽くなった。
ミーナの重力制御装置がおかしくなったはずはないのに、自分の体重がいつもの半分ぐらいになった気がした。
「は……、はは」
狭い分解シャワールームで、ベータは一人、けらけら笑った。
可笑しくて可笑しくて、笑い続けずにはいられなかった。あまり笑いすぎて、ちょっと目じりに涙が浮かんでしまったほどに。
(……やってくれたな。バカ皇子)
なんてことをしてくれる。
よりにもよって、俺からこんなものを盗むつもりか。
(お前って皇子はまったく──)
どうやら、これが年貢の納めどきらしい。
あっちこっちでいろんな男女を手玉にとってきた自分を、あいつはよくも、こんなに呆気なく落としてくれたものだ。
可愛い、清らかなバカ皇子。
(……お前の、勝ちだ)
そう思って衣服を整えると、近頃うるさくなってきた前髪をくしゃりと掻きあげ、ベータは勢いをつけて分解シャワールームから飛び出ていった。
0
あなたにおすすめの小説
[BL]憧れだった初恋相手と偶然再会したら、速攻で抱かれてしまった
ざびえる
BL
エリートリーマン×平凡リーマン
モデル事務所で
メンズモデルのマネージャーをしている牧野 亮(まきの りょう) 25才
中学時代の初恋相手
高瀬 優璃 (たかせ ゆうり)が
突然現れ、再会した初日に強引に抱かれてしまう。
昔、優璃に嫌われていたとばかり思っていた亮は優璃の本当の気持ちに気付いていき…
夏にピッタリな青春ラブストーリー💕
窓のない部屋の、陽だまりみたいな君
MisakiNonagase
BL
都心の高層ビル、その「内臓」とも言える地下一階のメール室。
そこで働く山﨑智之は、目立たず、期待されず、淡々と郵便物を捌く「透明人間」のような毎日を愛していた。自分は低スペックで、華やかな地上には居場所がない。そう、諦めていた。
そんな彼の静寂を破ったのは、二十二階の住人、若きエース・風巻隼人だった。
完璧なルックス、圧倒的な成果、羨望の眼差しを一身に浴びる彼が、なぜか地下のメール室に足繁く通い始める。
「五分だけ、ここにいさせてくれないか」
一通の郵便物から始まった、五分間だけの秘密の共有。
次第に剥き出しになっていく隼人の孤独と、それを無自覚に包み込んでしまう智之の温度。
住む世界が違う二人が、窓のない部屋で見つけたのは、名前のつかない「救済」だった。
エリート上司に完全に落とされるまで
琴音
BL
大手食品会社営業の楠木 智也(26)はある日会社の上司一ノ瀬 和樹(34)に告白されて付き合うことになった。
彼は会社ではよくわかんない、掴みどころのない不思議な人だった。スペックは申し分なく有能。いつもニコニコしててチームの空気はいい。俺はそんな彼が分からなくて距離を置いていたんだ。まあ、俺は問題児と会社では思われてるから、変にみんなと仲良くなりたいとも思ってはいなかった。その事情は一ノ瀬は知っている。なのに告白してくるとはいい度胸だと思う。
そんな彼と俺は上手くやれるのか不安の中スタート。俺は彼との付き合いの中で苦悩し、愛されて溺れていったんだ。
社会人同士の年の差カップルのお話です。智也は優柔不断で行き当たりばったり。自分の心すらよくわかってない。そんな智也を和樹は溺愛する。自分の男の本能をくすぐる智也が愛しくて堪らなくて、自分を知って欲しいが先行し過ぎていた。結果智也が不安に思っていることを見落とし、智也去ってしまう結果に。この後和樹は智也を取り戻せるのか。
魔王を倒した勇者の凱旋に、親友の俺だけが行かなかった理由
スノウマン(ユッキー)
BL
スラム育ちの二人は、スキルを得た事で魔王討伐に旅立つ勇者と彼の帰還を待つだけのただの親友となる。
勇者と親友の無自覚両片想いのじれったい恋愛の物語。
俺以外美形なバンドメンバー、なぜか全員俺のことが好き
toki
BL
美形揃いのバンドメンバーの中で唯一平凡な主人公・神崎。しかし突然メンバー全員から告白されてしまった!
※美形×平凡、総受けものです。激重美形バンドマン3人に平凡くんが愛されまくるお話。
pixiv/ムーンライトノベルズでも同タイトルで投稿しています。
もしよろしければ感想などいただけましたら大変励みになります✿
感想(匿名)➡ https://odaibako.net/u/toki_doki_
Twitter➡ https://twitter.com/toki_doki109
素敵な表紙お借りしました!
https://www.pixiv.net/artworks/100148872
【完結・BL】胃袋と掴まれただけでなく、心も身体も掴まれそうなんだが!?【弁当屋×サラリーマン】
彩華
BL
俺の名前は水野圭。年は25。
自慢じゃないが、年齢=彼女いない歴。まだ魔法使いになるまでには、余裕がある年。人並の人生を歩んでいるが、これといった楽しみが無い。ただ食べることは好きなので、せめて夕食くらいは……と美味しい弁当を買ったりしているつもりだが!(結局弁当なのかというのは、お愛嬌ということで)
だがそんなある日。いつものスーパーで弁当を買えなかった俺はワンチャンいつもと違う店に寄ってみたが……────。
凄い! 美味そうな弁当が並んでいる!
凄い! 店員もイケメン!
と、実は穴場? な店を見つけたわけで。
(今度からこの店で弁当を買おう)
浮かれていた俺は、夕飯は美味い弁当を食べれてハッピ~! な日々。店員さんにも顔を覚えられ、名前を聞かれ……?
「胃袋掴みたいなぁ」
その一言が、どんな意味があったなんて、俺は知る由もなかった。
******
そんな感じの健全なBLを緩く、短く出来ればいいなと思っています
お気軽にコメント頂けると嬉しいです
■表紙お借りしました
溺愛極道と逃げたがりのウサギ
イワキヒロチカ
BL
完全会員制クラブでキャストとして働く湊には、忘れられない人がいた。
想い合いながら、…想っているからこそ逃げ出すしかなかった初恋の相手が。
悲しい別れから五年経ち、少しずつ悲しみも癒えてきていたある日、オーナーが客人としてクラブに連れてきた男はまさかの初恋の相手、松平竜次郎その人で……。
※本編完結済。アフター&サイドストーリー更新中。
二人のその後の話は【極道とウサギの甘いその後+ナンバリング】、サイドストーリー的なものは【タイトル(メインになるキャラ)】で表記しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる