ルサルカ・プリンツ 外伝《小さな恋のものがたり》

るなかふぇ

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おまけのおはなし2 ロマン君のおたんじょうび

14 海底にて


 海底とは言っても、そこは海面から何十メートルもある場所ではなかった。水圧のことを考えれば当然の話である。専門的な訓練を受けていない者があまり深い場所へ潜ることは、たとええらがあっても推奨はされていない。
 もちろん黒鳶は訓練された人間だが、ロマンはただの素人である。当然、彼はロマンに合わせてくれているのだ。
 水が澄んでいるので、少し上からでも海底の様子はよく見えた。あちこちに人々が沈んで泳ぎ回っているのが見える。尾鰭をつけた者たちの華やかな色あいが、ひらひらと海底を彩っている。

(……ん?)

 中には底に沈んだまま、体を絡み合わせている者たちもいる。「なにをやってるんだろう」と一度じっと観察してしまってから、慌てて目を逸らさなくてはならなかった。両手で思わず顔を覆う。

(なっ……なな……)

 見間違いではない。彼らは海底で、互いの愛を確認し合っているのだ。よく見てみれば、鰓があるのをいいことにあちらこちらの岩場の影で恋人たちが互いに抱き合い、口を吸いあい、足を絡めあっている。それは完全な愛の行為にほかならなかった。

《く、黒鳶どのっ……》

 度を失って黒鳶の袖をくいくい引いたら、男はこちらを振り向いて「大丈夫」と言わぬばかりに頷いた。
 いや大丈夫じゃない。大丈夫なんかじゃないぞ。
 これのどこが「大丈夫」なんだ!

 黒鳶は平然とした顔で、そのまま人々の群れの上を通り過ぎていく。ある程度そこから離れてやっと落ち着きをとりもどし、ロマンはあらためて周囲を見た。

(うわあ……)

 そこは、珊瑚と温かな海に棲む鮮やかな魚たちの天下だった。
 ひらひらと豪華な鰭をうごめかして踊るように泳ぐもの。黄色に黒や白の縦じまが鮮やかなあの魚は「ニシキヤッコ」というのだと黒鳶が教えてくれた。
 ぬうっとした石のような怖い顔をして珊瑚の間を動き回っているのは、確かイシブダイとかいう魚だ。
 魚たちは基本的にのんびりと好きなように泳ぎ回っているように見えた。人間が安全に楽しむため、大型の肉食魚が入り込めないよう、この海域全体が管理されているからなのだろう。

 と、黒鳶はあるところでさらに深く潜り始めた。そうして、もとの海岸からだいぶ離れた岩場の影へひょいとロマンの体を下ろした。
 ここまで来ると、周囲には完全にだれもいなくなっている。鰓のある者らはそうでない者たちよりも利用範囲が広いとは聞いていたけれど、そもそも普通の海水浴客がこんな所まで来てもいいものなのだろうか。
 一人だったらまちがいなく心細くなっていたはずのところだったが、今はほかならぬ黒鳶がそばにいる。ロマンが不安に感じることは何もなかった。
 腰を抱きよせられるまま、ロマンは黒鳶に抱きついた。
 少しだけ見つめ合い、どちらからともなく唇を寄せ合う。

 それは不思議な口づけだった。
 どんなに舌を絡めあっても、少しも息が苦しくないのだ。鼻で呼吸をするよう気遣う必要も、時おり唇を放して息継ぎをする必要もまるでない。それがなんだか痛快だった。
 が、考えてみれば当然だった。水中では、基本的に鰓が呼吸をしてくれる。それは首のやや後ろ、耳の下あたりに作られているため、口づけとは直接かかわりがない。ただし、お互いそこに手を触れて鰓を塞がないようにだけは気をつけなくてはいけなかったけれど。

《ふあ……》

 切れ目のない熱い口づけは、どうしたってロマンの体に火をつけた。だが、まさかさっきの人々のようにこんな場所で男と睦みあうわけにはいかない。
 それに、と考えかけてロマンはぎくりと唇の動きを止めた。

(え? ちょっと待てよ……?)

 当然のように至った結論が、じわじわと迫ってくる。

(だってで性交してるってことは──)

 つまりこの近隣の水中には、あの者たちの淫らなあらゆる体液が、めいっぱい混ざりこんでいるということなのでは……?

 ロマンが微妙な顔になって黙り込んでしまったのを、黒鳶は不思議そうな目で見つめてきた。促され、しかたなく訥々とつとつと理由を言うと、男は困ったように苦笑した。
《なんですか?》
 ムッとして睨みつけたら、男は「ああ、いえ」と言うように片手を振った。
《ですが、考えてご覧なさい。この海に暮らす生きとし生けるものたちは、みなこの海の中で生まれ、そこからすべてを受け取り、またすべてを放出して生きております。……最期は、己が死骸までも》

 「あっ」と思った。その通りだ。
 だとしたら、たかがわずかな体液ごときがなんだと言うのか。
 つまり黒鳶はそう言いたいわけだ。もともと地上に暮らしていたアルネリオ出身のロマンとは、やや価値観が違うということらしい。
 ……いや、やっぱり気分的には微妙だけれど。
 黒鳶はなぜか、ふっと沖の方向を見やって言った。

《我らとて、最後はあの『ニライカナイ』へ我が身体を沈めます。……みな、海に還るのです》
《…………》

 ロマンは思わず、ぎゅっと黒鳶にしがみついた。
 そんな。
 いま、こんなに幸せな時に。
 人生の中でも最も幸せの絶頂にいるはずの、この瞬間に。

(どうして……)

 どうして死の話などするのだろうか、この人は。
 だが、すぐに思った。無理もないと。
 彼は貴人の護衛の忍びだ。今は比較的、滄海も政治的に落ち着いている。だがいつなん時、どんな敵が現れて主人の命を狙わぬとも限らない。
 そのとき、わが身と命をもって主人を守るのが彼の仕事である以上は。
 実際、あの宇宙から来た生き物のため、玻璃殿下を護衛していた人々がどんな死に方をしたことか。それは記憶にあたらしい。生々しい、と言ってよいほどだ。ロマンにとって背筋が凍るような恐怖とともに、あの記憶は刻まれている。
 この男は、そうやってずっと死を身近に感じながら生きて来たのだろう。ロマンごときが想像するよりもはるかに深く、具体的に。

(黒鳶どの……)

 胸のあたりがきゅうっと苦しくなって、急に鼻の奥が痛みを覚えた。
 ロマンの体液のひとつが、早速目から水中へと滲みだしていく。
 黒鳶の腕がロマンの体を優しいしぐさで抱きしめて来た。

《申し訳ありません。無用なことにございました》
《無用なことなんかじゃありません!》

 ロマンはすぐに遮った。そのまま先ほどよりもっと強く彼に抱きつき、さらに深い口づけをねだった。黒鳶はすぐに応えてくれた。
 抱き合いながら、水中でくるり、くるりと回転する。
 互いの体がゆっくりと上になり、下になる。

(……その時は、僕だって)

 彼らの墓場である「ニライカナイ」が、たとえ彼の命を所望しても。
 もはや彼だけをひとりで逝かせるつもりはない。
 黙って見送るつもりはなかった。
 だって、やっとだ。
 やっとあなたとこうなれたのに。

(僕だって一緒だから。……ひとりで逝くなんて、許さないから)

 とめどなく潮に溶けだしてゆくロマンの涙を悔やむように見つめながら、黒鳶はいつまでもロマンの求めに応じていた。
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