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第一部 トロイヤード編 第四章 揺れる心
3 側室
しおりを挟むその頃。
レドは馬上にあって、王都に程近い農村で農地の検分を行っていた。
王都のごく近くであるため、早朝に出発して夕刻までには戻る予定である。そのため、供の人数も最小限にとどめている。手には農地の図面や石高を記した羊皮紙を持ち、服装もごく平易な普段着に真紅のマントを掛けているだけだ。測量技師や秘書などの文官と、警護の兵士が数人つき従っていた。
日はもう傾きかけている。そろそろ作業を終了する刻限だった。
村の村長や村民たちの慇懃な挨拶を受け、供の者たちとともに馬首をめぐらして王都を目指し、やや速歩に駆けさせた。
頭の中が暇になった途端、無理やり蓋をしていた諸々のことが頭をもたげ始める。
あれから、シュウには一度も会っていない。
というよりも、意識的に会うのを避けている。
自分のしたこと、いや「してしまいそうになった」ことを思い出すにつけ、レドは今でも顔から火が出る思いがする。
(俺は一体、なにを血迷って──)
仕事に没頭してでもいなければ、嫌でもそのことを考えずにはいられない。
それを締め出したいばかりに、ここ数日、レドは毎日起きている時間という時間を滅茶苦茶に仕事で埋めていた。
おめでたい文官たちは、理由もわからぬまま小躍りせんばかりに喜んでいた。なにしろ、溜まりに溜まっていた仕事の山が次々と片付いてゆくのである。
ほくほく顔を隠そうともせずに隣で馬に揺られている秘書官をちらりと見やって、レドは心底うんざりする。
(いい気なもんだ……)
思わず溜め息をつきそうになって、ぐっと堪える。
いつもヴォダリウスが言っているのだ。
「溜め息は、縁のなかった不幸までをも呼び寄せまするぞ」と。
(しかし、こんなことになろうとは……)
確かに、「戦場で傷ついた自分を助けてくれた青年をその礼がてら王宮に招いた」というのは嘘ではない。が、やはり建前だ。レドにはもちろん、思惑があった。しかし間違っても、彼にあのような行為を強要するためではない。
(大体、あの変わりようは何なんだ?)
何度思い出しても忌々しい。
こちらは、埃まみれでぼろぼろの薄汚れたむく犬を拾ってきたぐらいにしか考えていなかったというのに。
たかだか風呂に入っただけで。
女官たちが身づくろいをしたぐらいのことで。
あの変貌ぶりはもはや──
(……詐欺だ)
そこいらの女など、軽く凌いでしまうほどではないか。
(あんな可愛い顔で、子供のようにあいつが泣くから──)
馬上で思わず頭を抱えてしまう。
(くそっ……!)
一気に、先日の様々なシュウとの出来事を思い出してしまったのだ。
あのとき自分は「相手の容姿で態度を変えるなど云々」と、彼に偉そうにのたまったのではなかったか。あんな台詞を吐いた傍から相手の容姿に翻弄されるなど、もはや笑い話にもならない。
しかし、確かに自分は、シュウのあの姿に影響されてしまったのだ。
あの姿に惑わされて、相手が望んでいるはずもないのに、まるで彼が女であるかのように扱った。自分がシュウの立場だったら、最低でも相手を半殺しにせずには置くまい。
あの時の、シュウの驚いた瞳。こわばった体。
あれが、拒絶でなくて一体なんだ。
思い出すだけで、レドは髪を掻きむしりたくなる。
何故あんなことをしたくなってしまったのかは、これ以上自分に対しても詮索したくはなかった。
そもそも、自分に男色の気はないはずである。時折り王宮仕えの女を閨に呼ぶこともあるし、一度はその中の一人を孕ませたことすらある。
もう三年も前になるだろうか。その女は当然ながら側室の扱いになり、そのために事前に貴族の養女にするなどして、身分を引き上げる形になった。
可憐でしとやかな女だった。少なくとも、自分はそう思っていた。いま思えば、口にこそ出さなかったものの、ヴォダリウスが初めからあまりいい顔をしなかった記憶がある。
結果から言えば、まずはそこを考慮すべきだったのだ。
女はたちまち、もと同僚である女官たちを見下し、必要以上に尊大な態度をとり始めた。豪華な衣装や宝石なども、ひどく欲しがって国庫を圧迫した。
もちろん、自分の前ではあくまでもしとやかで従順な、可愛い女を演じてはいた。しかしたまたま物陰からそうした様子を垣間見て、レドは自分の熱が、潮が引くように冷めてゆくのを感じたのだ。そして嫌というほど、己の若気の至りを実感させられる羽目になった。
それでも、宿った子供に罪はない。そのまま何も見なかった風を装い、女を側室として、一生遇してゆくつもりだった。しかし、やがて女は流産し、それが元で体を壊した末、数ヵ月後には亡くなった。まだ十代だったレドにとって、それは苦すぎる薬となった。
あのことが元で、多少女というものに対しての免疫と、その内面を見る目を持つようにはなったと思う。以来、一人の女にのめり込んだこともない。しかし、特に自分が「女嫌い」になったとまでは思えない。
(まして、男を相手にするなど──)
しかし。
その内面的なことから言うならば、シュウはなかなか見所がある。ヴォダリウスがどう言うかは知らないが、少なくともレドにはそう思える。
もともと「変貌」をする前から、シュウが底意のない、素直で気持ちの優しい青年だということは分かっていた。そうでなければ、自分のような見ず知らずの男など、周囲に秘密にしなければならない能力を使ってまで助けようとは思うまい。
事実、シュウ自身がそう言った。
「相手を憐れに思い、心から救いたいと願わなければ、この力は発揮されない」のだと。
レドはあの言葉が、やけに気に入ったのだ。
だから、連れて帰ろうと思った。
あの特殊な能力は、うまく使えばこの国にとって大きな助けになるだろう。王として、そういう計算はもちろんあった。あったが、礼をしたいと思ったのも、好意──飽くまでも友人としての──を持ったのも、決して嘘偽りではない。
──偽りでは、ないが。
(ああ、くそっ!)
レドはいきなり、黒竜にひと鞭あてた。
「うおおおおおおっ!」
ひと声吼えると、そのまま王都に向かって疾走し始める。
「ひっ……!」
文官たちも兵士たちも、突然のレドの咆哮に一様に鞍の上で飛び上がった。が、すぐに気を取り直し、慌ててレドの後を追ってきた。
(もういい。やめた!)
こんなのは、性に合わない。
謝るなら謝る。
シュウが故郷に帰りたいというならば、引き止めぬ。
いずれにしても、さっさと結論を出すべきだ。
王は、そこまで暇な商売ではないのだから。
◇
王宮の高い尖塔に昇る石階段を、シュウは息を切らして小走りに登っていた。
もうすぐレドが帰って来ると聞いたのだ。
さすがにこんな所にまでは、王宮の者たちもあまり立ち入らない。
王城の大門を見下ろせる石造りの小窓のところでそっと覗くと、ちょうどレドが真紅のマントを翻し、愛馬の黒竜と共に堀を渡って走りこんでくるところだった。長めの黒髪が風になびいている。
従者は誰もいないようだ。いや少し遅れて、兵士が四人。ずっと遅れて、文官らしい者が三人だろうか。
(相変わらずだな……)
知らず、嬉しさがこみ上げてくる。こんなに遠くからではあるけれども、彼の姿を見るのは久しぶりだ。
窓の縁に隠れるように、こつんと額を当てて、彼を見つめた。
「おかえりなさい……」
聞こえるはずのない挨拶を、そっと呟いた。
階段下の物陰から、ヴォダリウスがひっそりとそんなシュウを見つめていた。
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