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第一部 トロイヤード編 第七章 ふたつの月
3 涙 ※
しおりを挟むタルカスとノインが部屋の外に下がった後。
しばらく、二人は沈黙していた。
シュウはただただ申し訳なさそうに寝台の上で膝を掛け布にくるんでうずくまっているし、レドはレドで、脇の椅子に座ったまま何かを考え込む姿勢で静まり返っている。
殴られもせず、怒鳴られもせず、ただ沈黙されていることのなんと居心地の悪いことか。いっそ酷い言葉で罵られたほうが、いくらか気分も落ち着くというものだろうに。
しかし、レドがこうして黙っている以上、やはりシュウが話を始めるしかないようだった。
かなり長い間逡巡していたが、とうとうシュウは口を開いた。
「あの……陛下」
レドは無言だ。
「え……えっと……」
どんどん声が小さくなる。
「す、すみませんでした……。まさか、あんな大掛かりな捜索隊が出るなんて……思わなくて」
やはりレドは無言である。それどころか、シュウの顔を見ようともしない。先ほどからずっと、腕を組んで片手を顎に当てた姿勢からぴくりとも動かない。
「みなさんに、ご迷惑を掛けてしまいました……。本当に……ごめんなさい」
シュウの最後の言葉は、もう消え入るようだ。
やはりレドの反応は何もなくて、シュウはもう堪えきれず、立てた膝に顔を伏せてしまった。
かなりの時間が過ぎた。
と、唐突にレドの方から声が聞こえた。
「……それだけか?」
(え?)
目を上げると、体勢はそのままだったがレドがようやくこちらを見ていた。
「それだけか、と訊いた。お前が言いたいことは、それだけなのか」
レドの言葉は静かだった。が、相変わらずその表情からは何も読み取れない。
シュウは困惑した。
(僕の、言いたいこと……)
それは、とても沢山あるような気もした。しかしまったくないような気もしていた。いや、言ってはならないと思っていた。
「爺が、そう言っているというからな。言いたいことがあるなら聞こう。俺の話はその後だ」
「…………」
物言わぬレドの瞳と目が合った。いつもの強い光は影を潜め、その碧い瞳はなんの感情も映してはおらず、まるで空洞のようだった。レドが何を考えているのか、シュウにはまったく分からなかった。
と、ふとシュウはレドが顎に当てている右手の傷に気がついた。あれから壁といわず柱といわず殴り続けでもしたのだろうか。その拳は傷つき、出血して、全体が赤紫色に変色している。よく見れば、レドの唇も端が少し切れているようだった。血の滲むほど唇を噛み締めていたのだろうか。
「………!」
それを見た途端、シュウの胸が締め付けられるような悲鳴を上げた。
「陛下……」
(陛下に、こんな思いをさせて──)
そう思った途端、熱いものがこみ上げてきて視界が霞んだ。慌てて口元を押さえたが、涙は勝手に転がり落ちてゆく。シュウはうつむいて、溢れそうになる嗚咽をこらえた。
「また……泣くのか」
シュウを見つめて、レドが静かに言った。
「涙が、なにか語るのか?」
声の調子は、先ほどよりも多少柔らかさを帯びていた。
「おまえは、いつもそうだな。何も言わない。何も言わずに、ただ泣く。……何も言わずに、いなくなる──」
次第次第に声に感情が現れてきた。
「お前は、俺が身勝手で自由気ままな王だと思っているかもしれん。しかし、お前のほうがよっぽどそうだぞ」
「…………」
シュウは濡れた目を上げてレドを見つめた。
「泣いて務まる交渉などない。泣けば敵の刃が止まるわけでもな。まして、王の立場を放り出して俺が逃げたりすると思うか?」
シュウは黙って首を横に振った。
「お前が逃げた理由が、予測できないわけではない。……しかし」
レドは少し言葉を切った。
「俺は、お前の口から聞きたい。……なぜ逃げた、シュウ」
再び沈黙がおりた。
そう言った後、またレドは黙り込んだ。
今度は、シュウの目をまっすぐに見つめている。
その碧い瞳は澄んでいた。そして、絶大な力をもっていた。
もう、どこにも逃げることなどできなかった。
シュウは、とうとう心を決めた。
長い時間をかけて、嗚咽をなんとか押さえ込んだ。
そうして、ようやく口を開いた。
「陛下が……好き、なんです……」
言葉を切って、また溢れそうになるものを必死で堪えた。
「だ、から……ご迷惑……かけたく、なかっ──」
次の瞬間。
シュウはレドに抱きすくめられていた。
顔を覆っていた手をどけられ、あっという間に唇を塞がれる。
それは、熱くて、深くて、血の味がした。
シュウも、それをずっと待っていたように夢中で応えた。レドの首に手を回し、吸い上げられる舌と唇の感覚を必死で追った。
ただ嬉しくて、涙が溢れた。
「ん……んんっ」
いつのまにか、シュウは寝台に押し倒されて、目といわず耳といわず激しくレドの唇に愛されていた。首にも顎にも、キスの雨が降らされた。
「ふっ……あ!」
耳朶を喰まれて思わず腰が跳ねる。差し入れられる舌が、ぞくぞくと背中に快感を駆け上がらせた。
「んっ……! や、あ!」
本当にいやだったわけではないが、そんな声が勝手に上がった。
と、レドの唇の動きが止まった。
「……嫌なのか?」
そろりと目を開けて見上げると、レドが心配げな目で覗き込んでいた。
シュウはふわりと笑って首を振ると、息の上がった声で囁いた。
「……いいえ」
レドが安心したように、額をくっつけて確認した。
「では……もっとか?」
返事の代わりに、今度はシュウからレドの唇に軽くキスした。すぐに、首と項にキスの愛撫が再開された。
いつのまにか、宿から借りた夜着の前をはだけられている。項から降りてきたレドのキスは、鎖骨から胸へと下りていく。
「は……あっ!」
胸の尖りに指を這わされて、思わず声が出た。同時に腰がまた跳ねてしまう。片方を指先で愛撫されながら、もう片方には舌を這わされた。
「あっ……あ、は!」
舌先で細かく刺激され、頭の芯がびりびりする。そんなところに触られたのは生まれて初めてなのに、こんな快感があることに驚いてしまう。
「あん……っん」
と、その時。
扉の向こうで軽い咳払いが聞こえた。と同時に、軽いノック。
「もしも~し、お二人さん? 言っとくけどこの扉、めっちゃくちゃ薄いからね~?」
ノインの声だ。
まず、シュウが真っ青になった。たちまち凍りつく。
(う、うわあああ!)
ということは、すべて丸聞こえだったということだ。慌てて夜着の前を掻きあわせる。
一方レドは、「ちっ」と明らかに舌打ちしている。どうやら分かっていたようだ。なんだか少し悪い顔になっている。
さらに、続いて聞こえた呑気な声で、シュウは一気に現実に引き戻された。
「あー、もいっこ言っとくと~。隣のおっさんの顔がめっちゃ怖いんでー、そろそろ切り上げてくれっとありがてーかなぁ? 俺としては」
続いて、タルカスの声。
「……陛下。ご病人にご無体はお控えくださいますよう」
まさしく、地獄の底から響いてくるような声だった。
「…………!!」
(うああああああ!!)
シュウはもう体じゅう真っ赤になって、掛け布にくるまって全身を隠してしまう。
(嘘だ嘘だ嘘だ──! もうやだあああ!)
布の中で頭を抱えてじたばたするよりほか、もうどうしようもない。すべての元凶であるレドは特になんの羞恥も覚えていないらしく、隣でただくすくす笑っている。
「聞かれたものは仕方あるまい。諦めろ」
(そんな一言で諦められるか──!)
シュウが心の中で抗議している間にも、掛け布を強引に引っぺがされた。
(うわ……!?)
抵抗する間もなく、いきなり首筋に吸い付かれる。
「ふあ……っ!」
強く噛んでから吸い上げられて、ぴりっと痛みが走った。
「なっ、なにすっ……」
「これが消えるまでには、戻って来い」
それだけ言うと、レドはあっさり寝台から下り、何事もなかったかのように扉に向かった。
もう帰るつもりらしいと分かって、シュウは慌てた。自分も急いで起き上がる。
「あ、あっ、陛下! ちょっと待って下さい……!」
「ん? 何だ」
振り向いたレドの傍まで急いで歩み寄ると、シュウはわずかに躊躇いながらも彼の唇に指先を当てた。
そのままそっと撫でると、噛み切られていた唇の傷が嘘のように消えうせた。
「……! シュウ──」
レドの瞳に驚きの色がうかんだ。
シュウは次に彼の右手をそっと両手に包みこみ、自分の口元に持ってきた。
手のひらに温かな光が集まったような感覚が起こる。それからゆっくりと手を放すと、レドの右手も元のようになんの傷もない状態に戻っていた。
すべてが済んで、シュウはちょっと微笑んだ。
「はい、終わりです」
言ったその顎をついと持ち上げられ、
最後にもう一度だけ、レドのキスが降ってきた。
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