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第一部 トロイヤード編 第七章 ふたつの月
10 夢幻(1)
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レドの声が聞こえて、シュウはそっと扉を開けた。
レドは相変わらず、書類の山に埋もれるようにして仕事中だった。
「なんの用だ、爺。要点だけ言え」
羊皮紙から目も上げない。こちらをヴォダリウスだと信じて疑っていない様子だ。その老人が事前に手配したのか、部屋の中にはいつもの文官たちの姿はなかった。
(よ、要点……)
一瞬、返答に困ってしまう。
(そんな急に『驚かせろ』とか、『喜ばせろ』とか言われても……)
こんなとき、臨機応変に気の利いた台詞のひとつも言えればいいのにと思う。しかし悲しいかな、やっぱりそういう才能は自分にはないのだった。
「え……えっと……」
と、声を発した途端。
ばさばさばさっと音をたてて、書類の束が執務机から落ちていった。
目を上げると、レドが立ち上がってこちらを凝視している。ひどく驚いているようだ。
「あっ、あの……。ただいま、も──」
「戻りました」までは言わせてもらえなかった。レドが一足飛びでシュウのところまでやって来て、その体を力いっぱい抱きしめたからである。
「よく戻った!」言いながら破顔し、ばしばしと肩を叩いて、シュウの頭を乱暴に掻きまわす。「爺め、何かこそこそやっているとは思ったが、こういうことか!」
「あ、いたたた……」
それがあまりに強い力なので、シュウは小さく悲鳴を上げた。まだ少し背中の矢傷が痛むことがあるのだ。
「ああ、すまんすまん」
レドは笑ったまま言って、またシュウを抱きしめた。今度は手の位置と力加減を考慮してくれているようだ。シュウもその背中にそっと手を回す。頭をレドの肩に埋めると、なんだかとても落ち着いた。
いつもの、お日様の匂いがした。
静かに目を閉じる。
(帰って、きたんだな……)
自分から逃げ出しておいて、随分と勝手な感慨だとは思う。
でも、それでも、やっぱりシュウは嬉しかった。
この胸に、帰ってきたかった。
静かになったシュウを覗きこんで、レドが言った。
「どうした。道中、疲れたのか?」
少し心配げな声だ。そっと髪を撫でてくれる手がひどく優しくて、少し戸惑う。
「……いえ」くすりと笑ってレドの肩から頭を離し、シュウは彼の瞳を見返した。「……嬉しいんです」
本当に、心からレドに向かって微笑んだのは、これが初めてだったかもしれない。
今まで、困って苦笑したり、隠し事を見抜かれまいと作り笑いをしたりしたことは何度もあった。だがこんな風に素直に、ただ嬉しくて彼に笑いかけたことはなかった。
「…………」
レドはしばらく無言で、それをじっと見つめていた。
やがてその唇が下りてきて、シュウのそれに重なった。
優しくて、甘いキスだった。
先日の中庭でのそれとは、まるで別人のもののようだった。
そして。
レドはシュウをを抱き上げると、そのまま自室へ連れて行った。
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