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第二部 エスペローサ編 第二章 解放
4 密書(2)
しおりを挟む「そろそろ昼餉の時刻だね。考えは決まったかな?」
「禁錮の間」ではナリウスが、柔らかい声でレドにそう尋ねていた。
警護の兵は下がらせて、いまは鉄格子を挟んで二人きりである。
レドは鉄格子のすぐ後ろに立ち、ナリウスは扉側の壁に凭れかかっている。
ナリウスに手渡されたトロイヤードからの密書を見ながら、レドは眉間に皺を寄せていた。手の中にある件の書簡は、見覚えのあるヴォダリウスの筆跡によるものだった。
丁寧きわまる長々しい挨拶文のあと、そこにはこう記されていた。
『過日、誠にお恥ずかしき顛末なれど、わが国より、国王陛下の影武者を勤めおりましたる《ジタン》なる男が一名、逐電いたしおり候。もしや貴国にて見つかることあらば、即刻ご送還のほど、何卒よろしくお願い申し上げたく──』
さらに言う、
『また同様に《シュウ》なる麗人および《ラギ》なる医務官が、エスカルド山脈を越え、わが国より出奔したとの由。両名とも、わが王宮にて仕えおりし臣なれば、もしや貴国にて発見さるることあらば、これらもまた保護の上、即刻お戻し願いたく、平にお願い申し上げる次第──』
そしてつらつらと、そのための費用の補填と、謝礼等々について細かく列挙されていた。
そこには、たったの一言も「そちらが拉致した」などの文言がなかった。
あくまでも「本人たちが勝手に逃げた」という主旨で貫かれている。
また、レド本人についての言及も一切ない。
これもまた、あくまでも「そちらに居るのは《影》である」と言外に匂わせるのが目的であろう。レドがこちらで、自分の身分を偽ることも計算の上での作戦であるらしい。
つまり、トロイヤードの立場としては、飽くまでも建前だが「職務を放棄して勝手に逃亡した臣下の者を、自国できちんと罰したいがために戻して欲しい」ということになるだろうか。
まずはこれが、ヴォダリウスの打った初めの一手なのだろう。
「これを、俺に相談とは? ……どういう了見だ」
書簡をナリウスに返しながら、「一応聞いてみた」という風にレドが尋ねた。
なんであれ、決定権はナリウスにあるはずだ。そもそも囚人であるレドがどうこう言う話ではない。
ナリウスは静かに笑った。
「……帰りたいかな?」
レドは表情を変えない。
「当然だ」
即答である。いやむしろ、「バカかお前」と言わんばかりだ。
「彼も一緒に?」ナリウスの目が意味深に細められる。
「……どういう意味だ」レドの声音が剣呑になった。
ナリウスは少し、レドを嬲るように時間をとった。
「そうだね……。君一人だけなら、帰してあげてもいいかと思ってね?」
ナリウスは微笑んでいる。
「君を帰す条件があるとすれば、それだ。……彼は、ここに残らせる」
「貴様……」
レドの気魄が、次第に怒気を帯びてくる。
「妹御は、すでに全快したやに聞いたが?」
殺気を含んだ低い声で確認するが、
「そうなんだよ。お陰様でね」ナリウスはそんなものは柳に風だ。「私も妹も、彼には心から感謝している。本当だよ?」
「…………」
レドは、それで相手を殺せるものならそうしたいと言わんばかりの視線でナリウスを睨みつけている。
「今なら、君のことはただの逃亡したレド王の《影武者》として、こちらも対応ができる。なんの腹も痛まない。むしろ、謝礼までいただけて好都合なぐらいさ」
つまり、タイミングとしては最高だと言いたいのだろう。
「幸い、大臣たちにも君の正体については伏せているしね」
レドが片眉を上げた。
(そうだったか──)
ちょっと意外な気がした。
ナリウスは、とうにレドの正体を臣下に知らせているものだと思っていたのだ。やはり予想していた通り、あまり臣下を信頼しないタイプの男であるらしい。今のレドにとってはそれこそ好都合な話だった。
「正直なところ、彼らからは矢の催促でね? 君のことを殺すなり追い出すなり、とにかく早くしろと会議のたびに大騒ぎだよ。君の言うとおりさ。《影》を養う予算などない──」
「…………」
「でも、殺すわけにも行かないよね?」沈黙しているレドに構わず、ナリウスは更に言葉を継いだ。「もしそうしたら、彼も死ぬって先に宣言されちゃってるし……。私としては、そうしたいのは山々なんだけど。……困ったものさ」
微笑したまま、恐ろしいことを平気で言う。
「せいぜい、彼に感謝するんだね? 彼がアイリスを救わなければ、君がこの国から生きて出られる目など万にひとつもなかったのだから」
レドはひたすら無言である。
「殺さないまでも、単に城から追い出すことも考えたんだけどね。でもそれじゃ、君を恨んでいる民のだれかが君に手を下さないとも限らない。君の国の兵士には、この何十年というもの、それは沢山の民たちが殺されてきているんだから。それに──」
ナリウスは一旦言葉を切った。
「それでは、彼との約束を守ったことにはならない。そうだろう?」
「…………」
「なにより、君を国に帰すことは、彼本人の希望でもあるわけだから──」
「……なに?」レドの眉がぴくりと動いた。
「本当だよ?」
ナリウスの声は、あくまでも柔らかい。
それでいて、首をかしげてレドの瞳をじっと見据えているその氷の瞳は、やはりある種の狂気を含んで、ゆらゆらと揺蕩うように見えた。
「この間、何が欲しいか聞いてみたんだ。どうしてもお礼がしたくて、彼に」
ナリウスは頬に指を添えて、ちょっと言葉を切った。少し思い出すような目つきになる。
「即答だったよ? 『君の解放』。それだけだ、って。とっても綺麗な目をしてた──」
「…………」
レドは怒気をはらんだ視線でナリウスを睨めつけた。
ナリウスも、飽くまでも柔らかな物腰ではあったがその瞳を見返した。
そしてあらためて確認するかのように言った。
「彼と一緒でないと帰りたくないなんて、子供みたいなことは言わないよね?」
「…………」
「君は、そんな無責任な王じゃない。君が預かっている国民の命と、彼の命を秤に掛けるほど愚かでもない──」
「…………」
「それとも、それは私の買いかぶりだったかな?」
ナリウスが再びにっこり笑った。
長い長い、沈黙が流れた。
やがて、とうとうレドが言った。
「……あいつが、欲しいのか」
簡潔に、ただ核心を突いていた。
さまざまな御託を聞かされたが、結局のところ、話はそこに尽きるのだ。
レドの声は静かだったが、底流には明らかな憤怒と、底知れない嫌悪がこもっていた。
ナリウスはさらににっこりと笑って見せた。
その、花のような顔で。
「そうだね。……とっても」
その声はしかし、「手に入らなければ壊すだけだ」とも、冷酷なまでに告げていた。
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