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第二部 エスペローサ編 第二章 解放
19 雪の日(3)
しおりを挟む「クリスってば! そっちじゃねえって!」
言われてクリスは兜の奥のホッパーの目線を追った。
そして、驚くべきものを目にして絶句した。
(……!)
朝のまろやかな光の中を、廊下の向こうからエスペローサの現国王がゆっくりとこちらへ歩いてくる。手には体をすっぽりと白い布に包んだ虜囚の青年を抱いている。そのこと自体も驚きだったが、それよりも。
国王の表情に、その場の誰もが息を飲んだ。
この王がこんな顔をすることを、いまだかつてこの城の誰が知っていただろう。
青年を見つめる王の瞳は、慈愛と優しさとに満ちていた。頬に溢れる微笑は、妹君に向けられるものを遥かに凌ぐのではないかとすら思われた。
冬の寒々しい廊下の上で、ナリウスの微笑みが春の華やぎを振りまいている。そこだけがまるで、冬になることを拒むかのようだった。
まるで花嫁のように抱かれて運ばれることを恥ずかしがって、あの青年はまた顔を隠している。王はその耳に口を寄せては楽しげに何ごとかを囁いている。
昨夜二人の間に何があったかなど、だれの目にも明らかだった。
……一人、きょとんとしているホッパーを除いては。
クリスはただ呆然と、美貌の国王に目を奪われていた。
(あの目は──)
その表情には、覚えがあった。
それはかつて、クリスがまだ少年兵だったころ目にした瞳と生き写しだった。
今は亡き、ある女性の眼差しと。
(妃殿下……!)
かつて──
そう、かつてクリスはこれと同じ瞳をした女性を知っていた。
十二年前、この王宮で非業の死を遂げた高貴な麗しい女を。
フローラ王妃。
現国王ナリウスとその妹アイリスの実の母君だったお方である。
いまやあの《血の粛清》に至る一連のむごたらしい顛末のすべてを知る者は、この城のどこにも残っていないが。
(しかし……)
今の今まで、クリスはアイリス姫こそがその悲劇の王妃の面影をもっとも映した忘れ形見だと信じていた。それは別にクリスに限ったことでもなく、城にいる者ならだれでもそう考えてきたのに違いなかった。
(……だが、違う)
今のナリウスは──ナリウスこそが、まさにあのフローラの生き写しだった。
いやフローラその人、そのものだった。
なんという輝き。
なんという慈愛。
そして、なんという優しさ──
思わず目頭が熱くなるのを覚え、クリスはそれをぐっと堪えた。
臣下のそんな揺れ動く心中など気づくはずもなく、国王の足はシュウを抱いたままもう目の前まで来ている。
クリスはぎこちなく頭を下げた。
「おはようございます、陛下。……シュウ様も」
ホッパーと女官たちもそれぞれに国王へ慇懃な挨拶をする。
「ああ。皆も早いな」
ナリウスが応えた。今まで聞いたこともないほど柔らかな声だった。
「……!」
彼に抱かれたままの虜囚の青年は案の定、クリスとホッパーを見た途端さらに赤面して顔を覆った。耳が真っ赤になっている。
「お……おはよう、ございます……。クリスさん、ホッパーさん……」
「穴があったら入りたい」と震える声が言っている。
クリスは彼の姿を眺めて、遂に最後の決心をつけた。
そうしてその決心を、思い切って言葉にした。
「……陛下」
「なんだ?」
ナリウスの優しい眼差しがこちらを向いたのを感じる。まるでフローラに見つめられたかのような錯覚を覚えて、クリスは密かな胸の動揺を抑えた。
そして素早く兜を脱ぐと、素早くその場に片膝をついた。
「お願いがございます。わたくしを、シュウ様監視の任から解いていただきたく──」
「えっ?」シュウが驚いて顔を上げた。「ど、どうして──」
ナリウスは沈黙してクリスを見下ろしている。その瞳がややいつも通りの冷ややかな色を取り戻していた。静かにシュウを下ろして床に立たせると、ナリウスはあらためてクリスを見やった。
「なぜだ。申してみよ」
「勝手を申して、まことに申し訳もなきことです。ですが」
続くクリスの説明はごく端的なものだった。
「わたくしには、もはやシュウ様を弑し奉る覚悟が持てませぬ。どうか、この身の勝手をお許しくださいませ」
「あっ! そ、それなら、俺も……!」ホッパーも慌ててクリスの隣に膝をついた。こちらはもたもたと兜を取っている。「お、俺たち、もうとってもシュウ様を殺したりなんてできねえんで……。こんなお方、俺にはとっても殺せねえ……!」
途中からは半泣きになりながら、ホッパーはホッパーなりに訴える。
「ご処罰は、いかようにも──」クリスは潔く頭を下げた。
「ホッパーさん、クリスさん……」
シュウは困った声を出し、二人の前にしばらく立ち尽くしていたようだった。が、やがてすぐ傍にしゃがみこんだ。
「そんなこと、言わないでください……! お二人が傍にいてくださって、僕はどんなに心強かったか──」
体の前で白い掛け布を掻きあわせているが、恐らくその下は何も着けていないに違いない。こんな場面にはまったく似つかわしくないことだが、クリスは目のやり場に少々困った。
「有難う存じます。しかし……」
「では、こうするがいい」
柔らかな声が降ってきて、三人は目を上げた。
「あの、ナリウス様──」
言いかけたがナリウスの指先ひとつで押しとどめられ、シュウが黙る。そのままその指を自分の頬に添わせて、ナリウスはさも愉快げに微笑んだ。いかにも「いいことを思いついた」という顔だった。
「両名とも、本日づけでシュウの『監視兵』の任を解く。と同時に、あらためて『護衛兵』を命じることとする。殺すのではない、守るのだ。……それなら、二人とも文句はあるまい?」
「……なんと」
クリスは目を瞠った。
当然、きつい処罰が下るものと覚悟していたというのに。
(これは一体……)
「嫌かな?」
首をかしげてにっこりと尋ねられ、クリスは慌てて床に拳をつき、頭を下げた。ホッパーもそれに倣う。
「とんでもないことでございます、陛下! あ、有難きお言葉!」
「お……お言葉!」相変わらず語尾だけ唱和するホッパーである。
「が、守ると決めた以上は命がけだぞ」言葉を継いだナリウスの声音には、何か思うところがあるようだった。「すでに一度、彼は命を狙われている……」
(……なに?)
クリスは眉を顰めた。
それは初耳だった。一体だれが、この青年を殺そうと?
「よくよく心せよ。このシュウは、いまやこのナリウスの何ものにも替えがたき至宝である。今後は彼を、その身を賭してあらゆる危険から守り抜け。両名とも、わかったな」
王が耳を疑うような言葉を吐くのを、その場の一同は呆然と聞いていた。
「はっ、命に替えましても!!」
クリスはホッパーとともにきりりと頭を下げた。
視線を感じてふと目を上げると、嬉しげな翡翠の瞳と目が合った。
目の前で美しい虜囚の青年が、誠に嬉しそうに二人を見つめて微笑んでいた。
──何かが、変わる。
クリスは確信した。
この瞳が、この城の何かをきっと変えてしまうだろう。
それは空恐ろしいような、しかし期待に胸が震えるような、はっきりとした予感だった。
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