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第二部 エスペローサ編 第三章 過去
4 思惑(2)
しおりを挟むその後、アイリスは午前中の勉強に丸々付き合ってくれた。モリス先生はシュウの実力の程を丁寧に調べてから「ともかくゆっくりと、確実にやって参りましょう」と授業を締めくくると、静かに退室していった。
「はあ……」
シュウが思わずついた溜め息を聞いて、アイリスがころころと笑った。
「お疲れ様でございました、シュウ様。はじめてでしたものね。緊張されたことでしょう。すぐに昼餉の時間ですが、ちょっとお茶にでも致しましょうか?」
言って侍女を呼ぼうとしたアイリスを、シュウは慌てて押し留めた。
「いえ、僕はやることがありますので。……アイリス様は僕に構わず、どうぞ召し上がっていてください」言ってすぐに立ち上がる。
「え? シュウさま……?」
一瞬驚いたアイリスだったが、シュウの向かった先を見て、途端に嬉しそうに顔を輝かせた。
扉の中から聞こえてきた竪琴の旋律を聴いて、護衛の二人は顔を見合わせた。
先日来、これで聴くのは二度目になる。こんな風に心の琴線に触れるものがこの城に流れるのは、いったいいつ以来のことだろう。
「…………」
クリスがふと、遠くを見るような目になった。
と、廊下の向こうから白いマントと長い銀髪を翻してナリウスが足早にやってくるのに気がついて、護衛の二人は姿勢をただした。
「励んでいるようだな。結構だ」二人を見て微笑し、それだけ言うと、ナリウスは扉の方を窺った。「……相変わらず、美しい音色だな」
懐かしげな優しい微笑を頬に浮かべ、呟くように言う。それを聞いて、護衛の二人はまた顔を見合わせた。
ナリウスは音も立てずに扉を開けると、するりと中に入っていった。
◇
演奏が終わるまで、またしてもナリウスの存在は室内の人々に気付かれなかった。今ではアイリスのみならず、侍女たちやその他の女官たちまでが入室している。
「ナリウス様、困ります。入ってこられたなら、ちゃんと言ってくださらないと……」
演奏が終わって、シュウがまたもや呆れて肩を落とした。
それにはいっさい構わず人払いをし、ナリウスはアイリスとともに部屋に三人だけになるとすぐに用件を切り出した。
「仕事の件だ、シュウ。そなた、やはりトロイヤード宮と同じ仕事がしたいのか?」
「え? いえ、僕は何でもいいのですが。ただその仕事なら、ある程度は慣れているので……」質問の意図がよくわからないままシュウは答えた。
「医療に関わっているほうがそなたが落ち着くというなら、そうしよう。この城にも医務方を司る施設はある。私たちは『医務の間』と呼んでいるがな。護衛の者と共に、そこで働くという方法はある。……しかし」そこでわずかに言葉を切った。「あちらでは、そなたは顔を隠して働いていたのだったな。何故だ?」
「ああ、それは……」
そこでシュウは、トロイヤード王宮でレドと交わした会話をかいつまんで説明した。
「なるほど」聞いてナリウスは顎に手をあて、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。「……レド王。相当、過保護だな」
「あ、ははは……」
申しわけないが、シュウもそこだけはちょっと同意してしまう。もしも隣にレドがいたら殴られることは間違いないが。
「だが、選択としては間違っていない。私も同じことを考えていた。シュウ、また『ラギ』として働く気はあるか?」
「えっ……?」
つまりまた、あの包帯姿に戻れということか。
「別に、名前はそれでなくてもいいが。顔を隠すに越したことはない。そなたは気づいていないようだが、そなたの容姿は兵どもには目の毒だぞ」
「そ、そうですか……?」
なんだかピンとこないまま、シュウはナリウスの顔を見返した。
「考えてもみよ。彼らは妻子や想い人を故郷に置いてここへ来ている。冬の間は雪で移動もままならぬゆえ、まったく家族に会えぬ者も多い。そんな中に、そなたを素顔で放り込むのは──」言いかけて、ナリウスがいきなり沈黙した。
「……? 『放り込むのは』?」
怪訝な様子で聞き返すシュウの顔を、ナリウスはじっと凝視した。
と、いきなり両手を上げて言い放った。
「いや、やめた。そなた、働くのは諦めてくれ」
「は???」
唐突に前言を翻されて、がくっと体のバランスを失う。
話についていけず、目を白黒させてしまった。
「ちょ、ちょっと……!」
「お兄様」とうとうアイリスが口を挟んだ。少し呆れたような表情である。「お兄様も、人さまの事は言えませんわよ?」
ナリウスが意外そうな顔で妹を見返した。
「……そうかな?」
「ええ。十分に『過保護』でいらっしゃいますわ。もしかすると、その『レド王』様以上かも……」
困ったように可愛い溜め息をつく少女を前に、シュウとナリウスは顔を見合わせた。
やがて三人は、誰からともなく密やかに笑いあった。
「……ふふっ」
「あは、は」
「うふふふ……」
平和な午前のひと時だった。
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