お飾り妻は天井裏から覗いています。

七辻ゆゆ

文字の大きさ
1 / 16

「こんな立派なお屋敷にも、ネズミなんかいるのかしら?」

しおりを挟む
 キシ。
 かすかで確かな音が響いて、私は身をこわばらせました。

「ん?」
「……あら。こんな立派なお屋敷にも、ネズミなんかいるのかしら?」
「まさか。きちんと駆除しているはずだ」

 クリフト様がじろりと天井を睨んで言います。私はその天井の穴から見下ろしておりますので、目があったような気がして、思わず悲鳴をあげそうになりました。
 しかし体が硬直していたことが幸いか、実際には、まったく身動きせずに、旦那さまの目を見返しておりました。

 小さな穴です。
 しかし目を押し付けた私からは、しっかりと室内の様子が伺えます。クリフト様からどう見えているのかは全くわかりません。
 なぜなら私は妻でありながら、クリフト様の寝室には入ったことがないからです。

 この穴がわかりやすい穴であるのなら、すぐに修繕されるでしょう。ですからきっと、黒い木目の間にいやらしく紛れた穴であるのでしょう。
 その証拠に、するりとクリフト様の目は離れました。

「ふふっ、ネズミなんて駆除しても湧いてくるものよ。奥様も大変ねえ」
「……あれは家の仕事などしていない」
「そう? じゃあ何をしているの」

 気まずい顔をするクリフト様に構わず、無邪気に微笑むのはラーミア様です。クリフト様の愛人……と言うべきなのでしょうが、私よりもずっとクリフト様とは長い付き合いのようです。

 何度かこうして覗いていてわかったのは、彼女は高級娼婦であるということです。もとは貴族の娘で、お気の毒なことに借金を負って没落してしまったようでした。そういった方々は教養があるので、娼婦となっても、過酷な肉体労働を課されることなく、いくらか大事に扱われるそうです。
 私もまた没落しかけた家の娘ですから、他人事ではありません。

「何も。……ただいるだけだ。父は伯爵家の名が貰えれば、それでいいのだ」
 クリフト様が苦々しく言います。

 そう、栄華を失った家の娘である私は、伯爵家の名を必要としたクリフト様のもとに嫁ぎました。私が選んだことではなく、父の采配です。父はいずれ名ばかりの伯爵を継ぐことになる一人娘を心配してくれたのでしょう。
 本来ならクリフト様が婿に入る、という形になるべきですが、継ぐものが他に見当たらない場合は、嫁いだ娘の夫、あるいは子供が引き継ぐことが可能なのです。まともな婿を取るなどできるわけがない我が家は、子爵家のクリフト様に託すという形をとったことになります。

 私としては望んだことではありません。すでにほとんど市井で暮らしていたのですから、そのまま職業婦人として身を立てるつもりでした。
 それがこうしてクリフト様の妻に収まったのは、父への親孝行と……自信がなかったから、なのでしょう。

 市井で本当にやっていけるのか。受け入れられているように見えてもやはり、私は貴族の娘であり、本当にただの平民となれば、今までのようにいかないことは間違いありません。

「ふうん。じゃあ、なんにもしないでいるのね。……羨ましい話だわ」
 ラーミア様が言いました。
 実際に家を失い、高級娼婦として生きている方の言葉です。彼女からすれば当然なのでしょう。

 けれど私には、ただ存在しているだけを求められている私には、地に足をつけて暮らしている彼女のほうが羨ましく思いました。傲慢でしょうか。
 ああ、私にもそうする勇気があったなら。
 クリフト様のもとから逃げ出し、市井で身を立てていられればと、自分の勇気のなさを悔やみます。

 いえ、もしそんなことをしていれば、今頃行き倒れて儚くなっていたのかもしれません。それでも。
 もう少し私に自信が、自信を得られるような何かがあれば。

「そうか? 君は羨ましがられる方だろう。君は美しく、強かだ」
「まあクリフト様、それでも女は弱いものですわ」

 ラーミア様は微笑み、クリフト様に身を寄せました。それが媚びを感じさせない、いかにも上品な仕草なのです。きっと没落した生家は名のある、しっかりとしたお家だったのでしょう。
 そう想像させる、大事に扱うべきお方だと思わせる、ラーミア様はそのようなお方です。

 銀色の髪はどこまでも真っ直ぐ、まるで滝のように揺れます。肌も色素が薄く、消えてしまいそうなのに、ふっくらとした唇が目に焼き付きそうに赤いのです。
 クリフト様が思わず手をのばす。私にもその気持がわかりました。

 ラーミア様の瞳がじつとクリフト様を見ています。距離と角度のせいで、いつも瞳の色ははっきりとは見えません。けれどきっと宝石のように美しいのでしょう。それを彩るまつげも、けなげに揃っているのでしょう。

「……ラーミア」
「クリフト様」

 お二人の間に言葉はいらず、ただお名前を呼ぶだけで、ひとつの物語のようでした。クリフト様にお飾りの妻がおり、ラーミア様はお仕事としてここにおられます。
 それでも、そのようなことは全く……いいえ、それすらが美しい物語なのです。

 いったいクリフト様は何をお思いなのでしょうか? 妻を持ちながら愛人に触れる、けれど彼は驚くほど真面目な方なのです。少なくとも、ラーミア様を前にした時は。
 私が直接お会いしたのは式のときだけ。けれどこの婚姻はクリフト様も望むものではありませんでした。
 きっと、ラーミア様を愛しておられるのでしょう。

 では、ラーミア様は?
 それはわかりません。ラーミア様は娼婦です。それも体だけでなく、教養を、癒やしを売る高級娼婦なのです。クリフト様がお望みならお慕いしていると言うでしょうし、お望みでないなら、お慕いしていても言わないでしょう。

 ラーミア様はあらん限りの美しさでクリフト様を魅了しながら、その御心がどこにあるかはわかりません。けれどその御心の見えなさがまた、ラーミア様の魅力にも感じられるのです。

(ああ、)
 私は熱のこもった息を吐きます。
 お二人はどんな気持ちで、そしていったい、どうなるのでしょう?

 お飾りの妻として何もやることのない私の楽しみはただひとつ、こうして、天井裏からお二人の様子を眺めることなのです。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

次代の希望 愛されなかった王太子妃の愛

Rj
恋愛
王子様と出会い結婚したグレイス侯爵令嬢はおとぎ話のように「幸せにくらしましたとさ」という結末を迎えられなかった。愛し合っていると思っていたアーサー王太子から結婚式の二日前に愛していないといわれ、表向きは仲睦まじい王太子夫妻だったがアーサーにはグレイス以外に愛する人がいた。次代の希望とよばれた王太子妃の物語。 全十二話。(全十一話で投稿したものに一話加えました。2/6変更)

愛人契約は双方にメリットを

しがついつか
恋愛
親の勝手により愛する者と引き裂かれ、政略結婚を強いられる者達。 不本意なことに婚約者となった男には結婚を約束した恋人がいた。 そんな彼にロラは提案した。 「私を書類上の妻として迎え入れ、彼女を愛人になさるおつもりはございませんか?」

新婚初夜に『白い結婚にしてほしい』と言われたので論理的に詰めたら夫が泣きました

ささい
恋愛
「愛人がいるから、白い結婚にしてほしい」 政略結婚の初夜にそう告げた夫ルーファス。 妻カレンの反応は—— 「それ、契約不履行ですよね?」 「あなたの感情論、論理的に破綻してますよ?」 泣き落としは通じない。 そして初夜の翌朝、夫は泣いていた。 逃げ道は全部塞がれ、気づけば毎日論破されていた。 これは、論破され続けた夫がなぜか幸せになる話。

旦那様、愛人を頂いてもいいですか?

ひろか
恋愛
婚約者となった男には愛人がいる。 わたしとの婚約後、男は愛人との関係を清算しだしたのだが……

夫と愛し合った翌朝、一方的に離縁されました【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
美しい公爵夫人マルグリートは、冷徹な夫ディートリヒと共に、王国の裏で密かに任務をこなす“悪女”。 だがある日、突然夫から離婚を言い渡される。しかもその裏には、平民の愛人の存在が──。 失意の中、王命で新たな婚約者・エルンストと結ばれることに。 どうやら今回の離婚再婚は、王家の陰謀があるよう。 「悪女に、遠慮はいらない」 そう決意した彼女は、華やかな舞踏会で王に真っ向から言い放つ。 「わたくし、人の家庭を壊しておきながら悪びれない方に、下げる頭は持っていませんの。  王族であられる前に、人におなりくださいませ。……失礼」 愛も、誇りも奪われたなら── 今度はこの手で、すべてを取り戻すだけ。 裏切りに燃える、痛快リベンジ・ロマンス! ⚠️本作は AI の生成した文章を一部に使っています。タイトル変えました。コメディーです。主人公は悪女です。

最愛の人に裏切られ死んだ私ですが、人生をやり直します〜今度は【真実の愛】を探し、元婚約者の後悔を笑って見届ける〜

腐ったバナナ
恋愛
愛する婚約者アラン王子に裏切られ、非業の死を遂げた公爵令嬢エステル。 「二度と誰も愛さない」と誓った瞬間、【死に戻り】を果たし、愛の感情を失った冷徹な復讐者として覚醒する。 エステルの標的は、自分を裏切った元婚約者と仲間たち。彼女は未来の知識を武器に、王国の影の支配者ノア宰相と接触。「私の知性を利用し、絶対的な庇護を」と、大胆な契約結婚を持ちかける。

【完結】領地に行くと言って出掛けた夫が帰って来ません。〜愛人と失踪した様です〜

山葵
恋愛
政略結婚で結婚した夫は、式を挙げた3日後に「領地に視察に行ってくる」と言って出掛けて行った。 いつ帰るのかも告げずに出掛ける夫を私は見送った。 まさかそれが夫の姿を見る最後になるとは夢にも思わずに…。

【完結】16わたしも愛人を作ります。

華蓮
恋愛
公爵令嬢のマリカは、皇太子であるアイランに冷たくされていた。側妃を持ち、子供も側妃と持つと、、 惨めで生きているのが疲れたマリカ。 第二王子のカイランがお見舞いに来てくれた、、、、

処理中です...