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前編

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「いいか、勘違いしないようはっきり言っておく。俺がおまえを愛することはない。おまえのような成金の平民女が侯爵家の女主人などと、おこがましいにもほどがあるだろう」

 俺は苛立ちのままに、寝台で震える女にそう告げた。
 忌々しいことだ。まるでか弱く怯えたようなそぶりで身を縮め、顔を隠している。もちろんその表情は、図太く笑っているに違いない。こうしてわが侯爵家に入り込むことに成功したのだから。

 平民の汚らわしい女。こんなものが俺の妻となるなど、たとえ形だけでも忌々しい。
 だが、これの持ち込む金を父は喜び、これで侯爵家が立て直せるなどとふざけたことを言う。我が父でなければすぐさま放逐したい、無能の当主だ。

「目に入れることすら汚らわしい。おまえは明日から離れで暮らせ。何をする必要もない。何、食い物くらいは恵んでやる。形式だけでもこの俺の妻となったのだ、それで満足だろう」
「……何をする必要も?」
「ああ。侯爵夫人としての仕事は全てクリスティアが行う。おまえが汚れた金で横槍を入れなければ、もともとそうなるはずだったのだ!」

「そ、それは大変、大変……助かります!」
「は?」

 がばりと音をたてそうに、女は声をあげて寝台に手をついた。

「な、な……っ?」

 明かりに顔が照らされて、俺は仰天した。そこにいるのは気に食わない、あの品性のない女ではなかった。
 気に食わないだけに嫌というほど覚えている。まったくの別人だ。

「わたくしはソフィーナ様の侍女でございます」
「……はあっ?」

 確かに、そう言われればおぼろげに思い出された。媚を売って表情を品なく変えるソフィーナの後ろに控え、何かといちいち耳打ちをしていた侍女だ。
 いっそこちらの方が貴族らしい品性があると呆れたものだった。

「なぜおまえが……いや、ソフィーナはどうした! どこにいる?」
「お嬢様は……ソフィーナ様は、その……」

 俺は周囲を見回したが、薄暗くとも寝室に誰の姿もないことはすぐにわかった。ここを夫婦の寝室として使う気がなかったため、視界を邪魔する物がないのだ。

「……駆け落ちしました」
「なん……だと!?」
「お嬢様はこの結婚を嫌がっており、式までは厳重に周囲を固められていたのです。しかし式が終われば侍女は私一人。婚姻は成立したのですから、さすがのお嬢様も諦めるかと思ったのですが…」

 そんな馬鹿な。
 俺は唖然と侍女を見たが、いや、いや、そんなわけはない。あの女からすれば利の多すぎる婚姻ではないか!
 この俺と結婚できるのだぞ。
 逃げる意味がない!

「は……ははっ! わかった、わかったぞ」
「ご理解いただけましたか。それで……」
「そんなことを言って、この俺が心配するとでも思っているのだろう。浅墓な。残念だったな、いらぬ女がいなくなったところで知ったことか。探したりなどしない。勝手にしていろ」

 すると侍女はなんとも言えない半笑いになった。

「まあ……それで大丈夫です。そういうわけですから、互いの利益は一致しているのです。どうか、お嬢様は結婚してこの家の離れにいる、ということに……。お嬢様はお父上と折り合いが悪かったので、連絡を取らなくても不自然ではありません。実際には住んでいませんから、食事など不要ですし、メイドも不要ですので経費が浮くでしょう」
「……それは、そうだな。探すにも金がかかる。ふん、食事くらいは恵んでやろうと思っていたが、もうそんな気も失せた。好きにのたれ死ぬがいい」
「ありがとうございます、ゲルド様! おかげで私は罰を受けずにすみます」

 侍女は思い切り頭を下げて感謝を表している。
 そのさまが本気のものに見えて、俺は少し落ち着かない気分になった。本当に、それでいいのだろうか。何か騙されていないだろうか。

 こんな馬鹿げた嘘をついたソフィーナに、罰を与えるべきではないか?
 だが、探す気はない。大事にもしたくない……。父に知られたら、ソフィーナを探して侯爵夫人をさせようとするかもしれない。

 そもそも、ソフィーナという平民女と結婚したのだということを、できるだけ誰にも知られたくないのだ。
 式だってできる限り質素にして、呼んだのは身内ばかり。いや、考えてみれば、向こう側もなんでもいいからさっさと式をあげたがっていたような……?

 まさか本当に駆け落ちしたのか?
 馬鹿な。
 俺との結婚が身に過ぎたことだと感じて身を引いた、というのはあり得るかもしれないな。

「あ、私の食事なども不要でございます。こちらの人手は足りていると、ソフィーナ様からも商家の仕事に戻って良いと言われたことにいたしますので。……何か問題がありますでしょうか?」
「……」

 問題はない。
 ないが、本当にそれでいいのかと俺は迷った。想像もしなかった展開だ。しかし平民女を養わずにすむのだし、身元のあやしい侍女なども必要ない。

「それともソフィーナ様に未練が……?」
「貴様……俺を侮辱するのか? 未練以前に、あれを女と思ったことさえない」
「ですよね。であれば、何も問題ないように思いますが」
「……」
「ご提案があればおっしゃってください。なければ、お目汚しにならぬようすぐにでも出ていきますので」
「……ああ」

 すぐに出ていくのならば、クリスティアを呼べるのではないか?
 そうすれば、式こそないものの初夜をクリスティアと迎えることができるのだ。俺は思いつきに心を踊らせた。

「よし、出ていけ!」
「ありがとうございます! 大変お手数ですが、もしこちらから問い合わせがあったさいは、お嬢様は連絡を面倒がっているとでも口裏を合わせてくださいませ」
「わかってるわかっている」

 俺はこれからの楽しい時間に思いをはせ、侍女を追い払った。
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