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1巻
1-3
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そんなことを考えながら、周囲に目を向けると多くの人々がこちらに注目しているが見えて、またよろめきそうになった。
(……やっぱり、わたしには無理。このひとの隣に立つような資格はないわ)
人々の視線が突き刺さるように感じる。大国の王太子妃ともなれば、これ以上の衆目に晒されることもあるだろう。
なのに既に泣きそうになっている自分には、とても彼の妃など務まらない。
(さんざん考えたけど、この求婚はお断りしたほうがいい……)
それがいかに非常識なことであるかはよくわかっているつもりだ。
自分本位なエメラルダに頭を抱えていたくせに、セシリア自身がこんなことを考えるなど正気の沙汰ではない。しかし――
(住む世界も教養もなにもかも違う方に嫁いで、上手くやっていけるとはとうてい思えないもの)
こんなにきらびやかな場所で、目の覚めるような美青年と踊れただけでも僥倖だ。むしろ奇跡と呼んでもいい。――そしてたいてい、こういったいいことは続かないようにできている。
(伊達に十七年間、苦汁を舐め続けてきたわけではないわ。物事というのはたいてい悪い方向に転がるもの。こんな幸せな思いは一時の夢だから味わえるものなのよ)
他人が聞いたら考えすぎだと一笑に付すかもしれないが、降って湧いた幸運を現実のことだと簡単に信じられるほど、セシリアは甘い人生を送ってきてはいない。
生まれも育ちも、おまけに容姿まで完璧な異性に求婚されるなど、それこそ夢かなにかとしか思えなかった。
夢は必ず醒める――それがわかっているから、醒めてつらい現実を突きつけられる前に……自分からすべてを手放すのだ。
(もちろん、そんなことをしてただで済むとは思わないけれど)
もしかしたら後宮から去れと言われるかもしれないが、それこそセシリアにとっては願ってもないことだ。もともと王女として忘れ去られていた身だし、また縁談があるとも思えない。
どうせなら国外れの修道院に身を寄せ、清貧に生きるのもいいだろう。
(そうすれば侍女暮らしに戻ることもないし、わずらわしい人間関係に悩まされることもなくなって万々歳だわ)
エメラルダを頼るわけではないが、セシリアが結婚を拒否すれば彼女が父王や王妃を取りなして、その後は上手くやるだろう。アルグレードと縁を結びたい重臣たちもすぐに動くはずだ。そのあたりは問題ない。
ともすればひるみそうになる心をそんな言葉で叱咤し、セシリアは思い切って顔を上げる。
「あの、王太子殿下」
「できればクレイグと呼んでほしい。結婚するのに他人行儀のままじゃ寂しいだろう?」
大の男に「寂しい」などと言われ、セシリアはぽかんとした。
「え。いえ、あの……」
「緊張しているのか? さっきからあまり顔色がよくないようだが」
なんとか気を取り直し、腹をくくったセシリアは再び口を開く。
「無礼を承知で申し上げます。……どうかこのたびの求婚、なかったことにしていただけませんか?」
それまで笑みを浮かべていた王太子殿下がかすかに目を見開く。だが何事もなかったようにステップを続け、ターンしたセシリアを優雅に受け止めた。
「理由を聞いてもいいか?」
「……わたしなどが、クレイグ様の妃になるなど恐れ多いことでございます」
セシリアはそう口にしてうつむく。
気が短い者ならこの時点で激昂されてもおかしくはない。相手の激しい反応を覚悟して、セシリアはきつく目をつむった。
しかし――
「そうか」
と、当の王太子殿下はあっさり頷いた。
予想外な反応に、セシリアのほうが大いに困惑してしまう。
「えっ……。あの、よろしいのですか?」
「よろしくはないな。当たり前だが」
セシリアの唖然とした表情がおもしろかったのか、王太子殿下――クレイグはふっと相好を崩した。
その表情にどきっとなる。クレイグはセシリアをじっと見下ろしながら、気遣うように優しく問いかけてきた。
「ただ、どうして突然そんなことを言い出したのかは知りたいな。なにか理由があってのことだろう?」
なにもかもお見通しという様子に、セシリアは少し気まずくなる。
「理由は……ですから、大国の王太子妃はわたしには荷が勝ちすぎていて」
「……そう言い張るなら、そういうことにしておこう。だが、おまえは本当にそれでいいのか?」
「え?」
いつの間にかクレイグの表情からは笑みが消えている。射貫くような視線でまっすぐ見つめられ、セシリアはたちまち言葉に詰まった。
「おれとの結婚をやめたとして、この国に残ったおまえは幸せになれるのか? 脅すつもりじゃないが、結婚を断れば、おまえは相応の責任を取らされることになるんだぞ?」
セシリアは大きく息を呑む。
クレイグの言葉には、非常識なことを言い出したセシリアを責める響きは微塵もなかった。
代わりに、セシリアの身を案じる心配そうな雰囲気が伝わってくる。真摯な表情で、心の奥底をのぞき込むみたいにじっと見つめられ、セシリアは急に落ち着かなくなった。
強い視線から逃れるためにうつむいたセシリアに、クレイグは静かに言葉を続ける。
「確かにアルグレードは大国だ。立場や風習の違いに不安を感じることもあるだろう。だが、この国に残って今よりつらい目に遭うくらいなら、この機を生かして現状を抜け出してみるのも、ひとつの手なんじゃないか?」
「現状から、抜け出す?」
思いもしなかったことを告げられ、セシリアは呆然と聞き返す。
顔を上げた彼女にニヤリと好戦的な笑みを浮かべ、クレイグはセシリアの頬を指先でつぃと撫でた。
「おれと結婚すれば、おまえはおまえを蔑ろにしてきたこの国を堂々と出て行くことができるんだぞ? そっちのほうがいいと思わないか?」
セシリアは驚きのあまり、青い瞳をこぼれんばかりに瞠った。
(どうしてこの方がそれを知っているの……!?)
セシリアが長く苦境にあったことなど、異国の人間である彼には知りようがないはずなのに。
戸惑いを隠せないセシリアに、クレイグは笑みを深める。
そしてセシリアの腰をぐいっと引き寄せ、今にも鼻先がふれ合いそうな至近距離で囁いてきた。
「おれの手を取れ、セシリア。自分を変えたいと思うなら」
セシリアにしか聞こえない小さな声なのに、そこには彼女の奥底を激しく揺さぶる力強さが宿っていた。
目の前に迫る紺色の瞳から視線を逸らせず、セシリアは目を見開いたまま硬直する。
華やかな音楽も人々の視線もなにもかもが遠くなって、彼の存在と言葉だけがセシリアの内を支配した。
(自分を、変える?)
これまで考えたこともなかった言葉だ……セシリアは驚きのあまりしばらく動けなくなった。
ちょうど曲が終わり、弦楽器の音が長い尾を引いて広間に細く響き渡る。
本来なら、ダンスを終えた男女は少し身体を離し互いに礼をしなければならない。だがセシリアは衝撃のあまり、彼の腕に手を添えたままうつむいていた。
そんなセシリアをクレイグは優しく抱き寄せる。厚い胸板を頬に感じ、まだ困惑の中にいるセシリアは大いに狼狽えた。
だが状況はゆっくり考えることを許してくれない。
ほどなく抱擁を解いたクレイグは、彼女の足元に静かに跪いた。求婚したときと同じように。
「セシリア姫、改めてあなたに求婚する。我がアルグレードに嫁ぎ、わたしの伴侶として生涯をともにしてほしい」
懐に手を入れたクレイグは、そこから掌に載るくらいの小さな化粧箱を取り出した。彼が化粧箱の蓋をセシリアに向かって開くと、それを見た周囲の人々からどよめきと歓声が沸き起こる。
セシリアは息を止めて箱の中身を見つめた。
化粧箱の中で柔らかなビロードに収まっていたのは、銀のリングに、アクアマリンを花の形に埋め込んだ豪華な指輪だった。
「了承してくれるなら、婚約の印にこの指輪を受け取ってほしい」
跪いたまま、こちらをまっすぐ見つめるクレイグに、セシリアは困惑する。心臓がうるさいくらいに高鳴って、耳元で騒いでいるような気がした。
そもそも彼の立場であれば、無理やり指輪を嵌めることだってできるのに……こうしてセシリアの気持ちを請うてくる姿に、不覚にも胸がときめいてしまう。
彼は改めて求婚することで、セシリア自身の意思を尊重すると言外に示してくれているのだ。
(どうしてなの? 彼ほどのひとが、政略で娶る花嫁にここまで気を遣う必要なんてないはずなのに……)
一瞬、エメラルダに聞かされた『愛人を多く囲っている』という噂が頭をよぎった。
だがそれを凌駕する勢いで、自分を真摯に見つめる彼を信じたい気持ちが湧き起こり、さらなる戸惑いに突き落とされる。
なにより、先ほど言われた力強い言葉が、セシリアの胸を激しく揺さぶっていた。
『おれの手を取れ、セシリア。自分を変えたいと思うなら』
(本当に変われる? この手を取ることで……)
これもまた一時の夢に過ぎず、実際に嫁いだらこれまで以上に苦労をするかもしれない。
しかし――
(……変えたい。変わりたい)
この国で、これからも同じような日々を送るくらいなら、いっそ――
(彼の手を取って、ここを、抜け出す――!)
セシリアはぐっと唇を噛みしめ、震える手を伸ばした。両手でそっと化粧箱を包み込む。
周囲が再び盛り上がった。大広間中に拍手の音が鳴り響き、どこからともなく祝福の声が上がる。
立ち上がったクレイグはみずから指輪を取り出し、セシリアの左の薬指にそっと嵌めた。
銀の指輪はセシリアの指にぴたりと収まる。きらきらと輝く美しいアクアマリンに、セシリアはこくりと喉を鳴らした。
(本当に、大国アルグレードの王太子と婚約してしまった……)
自分で選び取った道とはいえ、指輪を目にするとその重圧がずしりと肩にのしかかってきたように感じる。
あまりのことに青くなるセシリアの顎に、クレイグの長い指がかかり、くいっと顔を上げさせられる。
え、と声を上げる間もなく唇になにかがふれ、視界いっぱいに紺色の瞳が広がった。
周囲がどっと沸いて、若い令嬢の口から黄色い悲鳴まで上がる。
口づけられた、と気づいたときにはクレイグは顔を上げていて、してやったりという表情でセシリアを見下ろしていた。
「なっ、なにを……!」
「なにって、婚約者にキスをしたんだが? なにか問題でも?」
「キッ……、んぅっ」
思わず悲鳴を上げそうになったところをすかさず覆い被さられる。薄く開いた唇から流れ込む吐息に、飽和状態の頭が危うく真っ白になりかけた。
「んっ……、……はぁ……っ」
「……可愛い声で煽るな。食べたくなるだろうが」
わずかにかすれた声で囁き、クレイグはかすかにのぞかせた舌先でセシリアの下唇をぺろりと舐める。
びくんと肩を揺らしたセシリアに口角を引き上げ、クレイグは彼女の細腰をしっかり引き寄せながら居並ぶ人々に向き直った。
「ただいまより、フォルカナ王国王女セシリア姫は、アルグレード王国王太子クレイグ・アレンの婚約者と相成りました。国に戻り落ち着き次第、結婚式を挙げる予定ですので、その折にはぜひ皆様も足をお運びください――」
王太子らしくにこやかに発表するクレイグに、周囲の人々は再び温かい拍手を贈る。
クレイグは余裕の笑みで手を振っていたが、いっぱいいっぱいの状態になっていたセシリアはされるがままになっていた。
おまえも手を振れ、とクレイグに耳元で囁かれ、ようやくぎこちない笑みを浮かべて手を振る。
多くの人々が祝福を送ってくれることに嬉しさ以上に戸惑いを覚えつつも、何気なく周囲を見回したセシリアは、直後ぎくりと肩を強張らせた。
人混みの向こう。祝福の輪から外れた遠くから、エメラルダが射貫くようなまなざしでこちらを見つめている。
まぎれもない憎しみが見える瞳に、このままでは終わらない予感を感じ取って、セシリアは密かに背筋を凍らせた。
* *
正式に婚約が決まると、本格的に輿入れの準備が始まった。
もともとクレイグの帰国に合わせて支度は進められていたが、いかんせん彼からの贈り物の量が多すぎて、荷造りだけでも大仕事となってしまったのだ。
セシリア自身も最後のおさらいとばかりに、毎日行儀作法や勉強に明け暮れていた。出発前夜ともなるともうへとへとで、湯浴みを終えたあとはばたりと寝台に倒れ込んでしまったほどだ。
(本当に、目が回るような日々だったわ)
おかげで考えにふける時間はほとんどなく、どこか現実味がないまま物事が進んでいく。
自分は本当に明日、アルグレードに輿入れするのだろうか?
セシリアは無意識に左の薬指に嵌る指輪を指先で撫でた。
(そういえば……結局、王太子殿下がなぜわたしを選んだのかはわからずじまいね)
だが彼はある程度セシリアの身の上を把握していたようだった。
その上でセシリアを選んだのなら、エメラルダが言っていたように、後ろ盾がないことが好都合だったからなのだろうか?
(でもそれにしては、あのときのあの方のまなざしは……)
おれの手を取れ、と力強く言ってきたクレイグのまなざしが思い出され、セシリアはたちまち落ち着かない気持ちになる。
彼がセシリアを選んだ理由がなんであれ、あのときの彼の真剣なまなざしと言葉はまぎれもない本心であったと感じた。
その気持ちは今も変わらず、彼のことを信じたいという思いが少なからず存在している。
妃として相応の努力はもちろんしていくとして、あのような言葉をかけてくれるクレイグのそばで、これまでとは違う人生を送っていきたいと今のセシリアは考えていた。
しかし……
(気がかりがあるとすれば、やっぱりエメラルダのことね)
セシリアが求婚を断らなかったことでまたなにか行動を起こすだろうと思っていたエメラルダが、今日までいっさい動きを見せていない。
さすがにあきらめたのかとも考えるが、エメラルダの性格からしておそらくそれはないだろう。
ここまで自分の思い通りに物事が進まないことは、両親に甘やかされて育ってきたエメラルダにとって初めてのはずだ。きっとこれまで以上の憎しみをセシリアに募らせているに違いない。
(無事にアルグレードに出発できればいいけれど……)
祈るような思いでそう考えていたとき、侍女がお茶を持って寝室に入ってきた。
安眠を促すためのハーブティーは既に飲みやすい温度になっている。入浴のあとで喉が渇いていたセシリアはそれを一息に飲み干し、早々に寝台に横になった。
疲れのせいか、驚くほどの早さでころりと眠りに落ちてしまった。
翌日。朝日がちらちら入るのを感じつつ、寝台から身体を起こしたセシリアは、ぐらりと強いめまいに襲われた。
(なに? 頭がぐらぐらする……)
とっさに敷布に手をついて、しばらくじっとしている。その後ゆっくり目を開けたセシリアは、なだれ落ちてくる髪を左手で掻き上げた。
「……えっ?」
何気なく薬指を見たセシリアは、文字通り顔色をなくす。
「指輪……っ、え、どうして、……ない……っ!」
クレイグから贈られた婚約指輪が、左手の薬指から消えている!
入浴のとき以外、セシリアは常に指輪を嵌めたまま過ごしていた。昨夜も確かに指輪を見た記憶があるのに、いったいどうして――
慌てて毛布をまくり上げ、敷布の隅々まで懸命に探した。だが指輪はどこにも見当たらない。戸棚や衣装棚も手当たり次第探すが、やはり見つからなかった。
「いったいどこに……」
物音に気づいてか、洗面の支度をした侍女たちがノックとともに入室してきた。
あちこちひっくり返された部屋に驚く彼女たちに、セシリアは真っ青な顔で詰め寄る。
「あなたたち、指輪を見なかった? 王太子殿下からいただいた婚約指輪が見当たらないの!」
たちまち侍女たちが顔色を変え、全員で部屋全体をくまなく探し回った。だがいくら探しても婚約指輪は見つからない。
(どうしよう……あれは他の贈り物とはわけが違うわ。婚約の印としていただいたものなのに!)
すっかり散らかった部屋の中央で、セシリアは今にも崩れ落ちそうになる。
そんな中、騒がしい足音とともに部屋の扉が音を立てて開け放たれた。
「た、大変です! セシリア様のお荷物が……!」
真っ青な顔をした女官が息を切らせて駆け込んでくる。
さらなる嫌な予感に震えながら、セシリアは急いで身支度を整え外に出た。
女官が案内したのは城の正面玄関から少し離れたところだ。そこには荷物の運搬などに用いられる入り口があり、セシリアの荷物を積んだ馬車が横付けされている。
促されるまま荷馬車をのぞき込んだセシリアは、思わず口元を覆った。
「なんてことでしょう……! ああっ、ドレスが、こんな、ひどい……ッ」
うしろからのぞき込んだ侍女たちも涙まじりに叫ぶ。
荷馬車の中は惨憺たる有様だった。きちんと荷造りされていたセシリアのドレスや小物類が、ズタズタに切り裂かれている。宝飾品の入っていた箱はすべて壊され、中身がごっそり持ち去られていた。
「いったい誰がこんなひどいことを……!」
さめざめと泣き始める侍女たちの声を聞きながら、セシリアは呆然と立ち尽くす。その脳裏に、ゆらりと浮かんでくる人物があった。
「まーあ、朝からいったいなんの騒ぎ?」
頭上からのんきな声がかけられて、セシリアは雷に打たれたように身体を震わせる。ゆっくり背後を振り返ると、そこにはまさに今、脳裏に浮かんだ人物がたたずんでいた。
二階の窓が大きく開け放たれ、侍女を従えたエメラルダが笑みを浮かべて身を乗り出している。彼女は幌が開けられた荷馬車の中をのぞき込み、わざとらしく目を丸くした。
「あら? そこに散らかっているのはアルグレードの王太子殿下から贈られた品々ではなくって?」
エメラルダは眉をひそめつつ、さっと口元を扇で覆う。だが、隠し切れていない彼女の唇がニヤリとつり上がるのを、セシリアははっきり見てしまった。
セシリアの中で激しい感情が湧き起こる。それを感じているのかいないのか、エメラルダは厳しい表情でまくし立ててきた。
「これから嫁ごうという方からの贈り物を蔑ろにするなんて、いったいどういうつもり? いくら寛大な王太子殿下でも、これはさすがに許してくれないのではなくって?」
「――ッ!」
ただでさえ腸が煮えくりかえりそうなところに説教じみた言葉までぶつけられ、セシリアは思わず駆け出そうとした。これ以上ないほど姑息なやり方を用いた異母妹を、高いところから引きずり下ろしてやりたいと思ったのだ。
「セ、セシリア様!」
本能的にまずいと感じたのだろう。侍女たちが抱きつくようにしてセシリアを止めにかかる。無意識に身をよじりながら、セシリアは抑えきれない怒りをほとばしらせた。
「どうしてっ……! なぜこんなことができるのっ!」
「なっ……」
扇の陰でほくそ笑んでいたエメラルダが顔色を変える。これまでずっと虐げてきたセシリアが、はっきりと敵意を向けてきたことに驚いたらしい。
セシリアは激しく身体を震わせながら、高みの見物を決め込む異母妹を大声で怒鳴りつけた。
「いくらわたしが気に入らないからと言ってこんなことをするなんて、恥を知りなさいッ!」
すると、エメラルダは一転して顔を真っ赤にした。
「この……っ、黙っていれば図に乗って! おまえのような女、さっさと王太子殿下に見限られてしまえばいいのよ!」
紅を刷いた唇を吊り上げ、エメラルダは高らかに笑って踵を返す。
「せいぜい苦しむことね!」
嘲笑とともに去っていくエメラルダを睨みつけながら、セシリアは音が鳴るほど奥歯を噛みしめる。
――物心ついてからこれまでさんざん嫌がらせを受けてきたが、今ほど彼女に怒りを感じたことはない。
(なんて馬鹿なことをしてくれたの……!)
どうせ彼女はセシリアに恥をかかせようと深く考えずにやったのだろうが、あまりに愚かと言わざるを得ない。
切り裂かれたこれらはただの贈り物ではない。クレイグが自国の慣習に則り贈ってくれた品々なのだ。この贈り物を蔑ろにするということは、クレイグの心遣いだけでなくアルグレードの文化そのものを侮辱するということになる。
つまりセシリアが愛想を尽かされるどころか、外交問題に発展してもおかしくない暴挙なのだ。
(いくらこの国にいい思いはないとはいえ、そんな事態を引き起こすのは不本意よ。このままじゃ大変なことになる……!)
エメラルダが黙っていないことは予想できたが、まさかこんな形で報復されるとは思いもよらなかった。これまで気に入らないことがあれば、セシリアに直接攻撃してきていただけに、荷物がやられることなど考えもしなかったのである。
――収まらない感情の嵐に震える拳を握りしめていると、侍女のひとりがおずおずと歩み出てきた。
「い、いかがいたしましょう。もうそろそろ出発のお時間です。先ほどアルグレードの方々が城の正面に馬車を用意しているのが見えました」
セシリアは弾かれたように顔を上げた。
「出発を待っていただくように連絡したほうが……あっ、セシリア様ッ!?」
侍女の言葉が終わるより早く、セシリアは城の正面に向かって駆け出していた。
もともと近いところにいたこともあって、セシリアはすぐ城の正面に到着する。
そこではアルグレードの兵士たちが忙しく動き回っており、クレイグの姿もあった。
「――王太子殿下!」
側近のマティアスとなにやら話していたクレイグは、ハッとセシリアを振り返る。今日は飾り気の少ない軍服姿だが、なにを着ていても彼の美しさが損なわれることはないようだ。
「セシリア? どうした、そんなに慌てて」
婚約者のただならぬ様子に気づき、すぐセシリアのもとへ駆けつけてきたクレイグは、さりげなく兵たちの視線から彼女の姿を隠す位置に立った。
とにかく彼に謝らなければと走ってきたものの、いざ本人を前にすると言葉に詰まる。緊張したセシリアは息を吸い込んだ途端に噎せてしまった。
「大丈夫か? いったいなにが――」
クレイグの言葉が不自然に止まる。その目はセシリアの左手を見つめていた。
「婚約指輪はどうした?」
びくり、とセシリアは身を強張らせる。背筋を冷や汗が伝うのを感じながらも、正直に話さなければと口を開いたとき――
「おお、お早いですな王太子殿下」
と、朗らかな声が割り込んできて、クレイグとともにそちらを見やったセシリアは小さくうめいた。
フォルカナ国王と王妃、そして宰相を始めとする重臣たちが、ぞろぞろと城から出てくるところだった。腹立たしいことに、エメラルダも涼しい顔をして同行している。
クレイグはまた、さりげなく彼らの目からセシリアを守るように立ち位置を変え、そばに控えていたマティアスに向かって手を挙げた。
「全員、整列!」
主人の意向を受け、マティアスが兵士たちに向け声を張り上げる。
兵士たちが一斉に作業を切り上げ、瞬く間に三列に並んだ。一糸乱れぬ統制された動きに、フォルカナの面々は一様に気圧されたようだった。
「これはフォルカナ国王陛下。皆様もお揃いのようで、このような早い時間からありがとうございます」
「なに、クレイグ殿下のもとには我が娘が嫁ぐのですから、このくらいは当然のことです」
言いながら、父王がぐるりと視線をめぐらせる。肝心のセシリアの姿がないことに気づいたのだろう。セシリアはこのまま逃げ出したい気持ちをぐっと抑え、クレイグの背後から思い切って姿を見せた。
「なっ! セシリア、そんな恰好でなにをしておるっ」
部屋中を引っ掻き回したあと、適当なドレスに着替えて飛び出してきたのだ。今の彼女は化粧はもちろん髪も結っていない。人前に出るどころか、庭を散歩するのもはばかられるような恰好だった。
父の鬼のような形相にひるみそうになりながらも、セシリアはぐっと顔を上げた。
(……やっぱり、わたしには無理。このひとの隣に立つような資格はないわ)
人々の視線が突き刺さるように感じる。大国の王太子妃ともなれば、これ以上の衆目に晒されることもあるだろう。
なのに既に泣きそうになっている自分には、とても彼の妃など務まらない。
(さんざん考えたけど、この求婚はお断りしたほうがいい……)
それがいかに非常識なことであるかはよくわかっているつもりだ。
自分本位なエメラルダに頭を抱えていたくせに、セシリア自身がこんなことを考えるなど正気の沙汰ではない。しかし――
(住む世界も教養もなにもかも違う方に嫁いで、上手くやっていけるとはとうてい思えないもの)
こんなにきらびやかな場所で、目の覚めるような美青年と踊れただけでも僥倖だ。むしろ奇跡と呼んでもいい。――そしてたいてい、こういったいいことは続かないようにできている。
(伊達に十七年間、苦汁を舐め続けてきたわけではないわ。物事というのはたいてい悪い方向に転がるもの。こんな幸せな思いは一時の夢だから味わえるものなのよ)
他人が聞いたら考えすぎだと一笑に付すかもしれないが、降って湧いた幸運を現実のことだと簡単に信じられるほど、セシリアは甘い人生を送ってきてはいない。
生まれも育ちも、おまけに容姿まで完璧な異性に求婚されるなど、それこそ夢かなにかとしか思えなかった。
夢は必ず醒める――それがわかっているから、醒めてつらい現実を突きつけられる前に……自分からすべてを手放すのだ。
(もちろん、そんなことをしてただで済むとは思わないけれど)
もしかしたら後宮から去れと言われるかもしれないが、それこそセシリアにとっては願ってもないことだ。もともと王女として忘れ去られていた身だし、また縁談があるとも思えない。
どうせなら国外れの修道院に身を寄せ、清貧に生きるのもいいだろう。
(そうすれば侍女暮らしに戻ることもないし、わずらわしい人間関係に悩まされることもなくなって万々歳だわ)
エメラルダを頼るわけではないが、セシリアが結婚を拒否すれば彼女が父王や王妃を取りなして、その後は上手くやるだろう。アルグレードと縁を結びたい重臣たちもすぐに動くはずだ。そのあたりは問題ない。
ともすればひるみそうになる心をそんな言葉で叱咤し、セシリアは思い切って顔を上げる。
「あの、王太子殿下」
「できればクレイグと呼んでほしい。結婚するのに他人行儀のままじゃ寂しいだろう?」
大の男に「寂しい」などと言われ、セシリアはぽかんとした。
「え。いえ、あの……」
「緊張しているのか? さっきからあまり顔色がよくないようだが」
なんとか気を取り直し、腹をくくったセシリアは再び口を開く。
「無礼を承知で申し上げます。……どうかこのたびの求婚、なかったことにしていただけませんか?」
それまで笑みを浮かべていた王太子殿下がかすかに目を見開く。だが何事もなかったようにステップを続け、ターンしたセシリアを優雅に受け止めた。
「理由を聞いてもいいか?」
「……わたしなどが、クレイグ様の妃になるなど恐れ多いことでございます」
セシリアはそう口にしてうつむく。
気が短い者ならこの時点で激昂されてもおかしくはない。相手の激しい反応を覚悟して、セシリアはきつく目をつむった。
しかし――
「そうか」
と、当の王太子殿下はあっさり頷いた。
予想外な反応に、セシリアのほうが大いに困惑してしまう。
「えっ……。あの、よろしいのですか?」
「よろしくはないな。当たり前だが」
セシリアの唖然とした表情がおもしろかったのか、王太子殿下――クレイグはふっと相好を崩した。
その表情にどきっとなる。クレイグはセシリアをじっと見下ろしながら、気遣うように優しく問いかけてきた。
「ただ、どうして突然そんなことを言い出したのかは知りたいな。なにか理由があってのことだろう?」
なにもかもお見通しという様子に、セシリアは少し気まずくなる。
「理由は……ですから、大国の王太子妃はわたしには荷が勝ちすぎていて」
「……そう言い張るなら、そういうことにしておこう。だが、おまえは本当にそれでいいのか?」
「え?」
いつの間にかクレイグの表情からは笑みが消えている。射貫くような視線でまっすぐ見つめられ、セシリアはたちまち言葉に詰まった。
「おれとの結婚をやめたとして、この国に残ったおまえは幸せになれるのか? 脅すつもりじゃないが、結婚を断れば、おまえは相応の責任を取らされることになるんだぞ?」
セシリアは大きく息を呑む。
クレイグの言葉には、非常識なことを言い出したセシリアを責める響きは微塵もなかった。
代わりに、セシリアの身を案じる心配そうな雰囲気が伝わってくる。真摯な表情で、心の奥底をのぞき込むみたいにじっと見つめられ、セシリアは急に落ち着かなくなった。
強い視線から逃れるためにうつむいたセシリアに、クレイグは静かに言葉を続ける。
「確かにアルグレードは大国だ。立場や風習の違いに不安を感じることもあるだろう。だが、この国に残って今よりつらい目に遭うくらいなら、この機を生かして現状を抜け出してみるのも、ひとつの手なんじゃないか?」
「現状から、抜け出す?」
思いもしなかったことを告げられ、セシリアは呆然と聞き返す。
顔を上げた彼女にニヤリと好戦的な笑みを浮かべ、クレイグはセシリアの頬を指先でつぃと撫でた。
「おれと結婚すれば、おまえはおまえを蔑ろにしてきたこの国を堂々と出て行くことができるんだぞ? そっちのほうがいいと思わないか?」
セシリアは驚きのあまり、青い瞳をこぼれんばかりに瞠った。
(どうしてこの方がそれを知っているの……!?)
セシリアが長く苦境にあったことなど、異国の人間である彼には知りようがないはずなのに。
戸惑いを隠せないセシリアに、クレイグは笑みを深める。
そしてセシリアの腰をぐいっと引き寄せ、今にも鼻先がふれ合いそうな至近距離で囁いてきた。
「おれの手を取れ、セシリア。自分を変えたいと思うなら」
セシリアにしか聞こえない小さな声なのに、そこには彼女の奥底を激しく揺さぶる力強さが宿っていた。
目の前に迫る紺色の瞳から視線を逸らせず、セシリアは目を見開いたまま硬直する。
華やかな音楽も人々の視線もなにもかもが遠くなって、彼の存在と言葉だけがセシリアの内を支配した。
(自分を、変える?)
これまで考えたこともなかった言葉だ……セシリアは驚きのあまりしばらく動けなくなった。
ちょうど曲が終わり、弦楽器の音が長い尾を引いて広間に細く響き渡る。
本来なら、ダンスを終えた男女は少し身体を離し互いに礼をしなければならない。だがセシリアは衝撃のあまり、彼の腕に手を添えたままうつむいていた。
そんなセシリアをクレイグは優しく抱き寄せる。厚い胸板を頬に感じ、まだ困惑の中にいるセシリアは大いに狼狽えた。
だが状況はゆっくり考えることを許してくれない。
ほどなく抱擁を解いたクレイグは、彼女の足元に静かに跪いた。求婚したときと同じように。
「セシリア姫、改めてあなたに求婚する。我がアルグレードに嫁ぎ、わたしの伴侶として生涯をともにしてほしい」
懐に手を入れたクレイグは、そこから掌に載るくらいの小さな化粧箱を取り出した。彼が化粧箱の蓋をセシリアに向かって開くと、それを見た周囲の人々からどよめきと歓声が沸き起こる。
セシリアは息を止めて箱の中身を見つめた。
化粧箱の中で柔らかなビロードに収まっていたのは、銀のリングに、アクアマリンを花の形に埋め込んだ豪華な指輪だった。
「了承してくれるなら、婚約の印にこの指輪を受け取ってほしい」
跪いたまま、こちらをまっすぐ見つめるクレイグに、セシリアは困惑する。心臓がうるさいくらいに高鳴って、耳元で騒いでいるような気がした。
そもそも彼の立場であれば、無理やり指輪を嵌めることだってできるのに……こうしてセシリアの気持ちを請うてくる姿に、不覚にも胸がときめいてしまう。
彼は改めて求婚することで、セシリア自身の意思を尊重すると言外に示してくれているのだ。
(どうしてなの? 彼ほどのひとが、政略で娶る花嫁にここまで気を遣う必要なんてないはずなのに……)
一瞬、エメラルダに聞かされた『愛人を多く囲っている』という噂が頭をよぎった。
だがそれを凌駕する勢いで、自分を真摯に見つめる彼を信じたい気持ちが湧き起こり、さらなる戸惑いに突き落とされる。
なにより、先ほど言われた力強い言葉が、セシリアの胸を激しく揺さぶっていた。
『おれの手を取れ、セシリア。自分を変えたいと思うなら』
(本当に変われる? この手を取ることで……)
これもまた一時の夢に過ぎず、実際に嫁いだらこれまで以上に苦労をするかもしれない。
しかし――
(……変えたい。変わりたい)
この国で、これからも同じような日々を送るくらいなら、いっそ――
(彼の手を取って、ここを、抜け出す――!)
セシリアはぐっと唇を噛みしめ、震える手を伸ばした。両手でそっと化粧箱を包み込む。
周囲が再び盛り上がった。大広間中に拍手の音が鳴り響き、どこからともなく祝福の声が上がる。
立ち上がったクレイグはみずから指輪を取り出し、セシリアの左の薬指にそっと嵌めた。
銀の指輪はセシリアの指にぴたりと収まる。きらきらと輝く美しいアクアマリンに、セシリアはこくりと喉を鳴らした。
(本当に、大国アルグレードの王太子と婚約してしまった……)
自分で選び取った道とはいえ、指輪を目にするとその重圧がずしりと肩にのしかかってきたように感じる。
あまりのことに青くなるセシリアの顎に、クレイグの長い指がかかり、くいっと顔を上げさせられる。
え、と声を上げる間もなく唇になにかがふれ、視界いっぱいに紺色の瞳が広がった。
周囲がどっと沸いて、若い令嬢の口から黄色い悲鳴まで上がる。
口づけられた、と気づいたときにはクレイグは顔を上げていて、してやったりという表情でセシリアを見下ろしていた。
「なっ、なにを……!」
「なにって、婚約者にキスをしたんだが? なにか問題でも?」
「キッ……、んぅっ」
思わず悲鳴を上げそうになったところをすかさず覆い被さられる。薄く開いた唇から流れ込む吐息に、飽和状態の頭が危うく真っ白になりかけた。
「んっ……、……はぁ……っ」
「……可愛い声で煽るな。食べたくなるだろうが」
わずかにかすれた声で囁き、クレイグはかすかにのぞかせた舌先でセシリアの下唇をぺろりと舐める。
びくんと肩を揺らしたセシリアに口角を引き上げ、クレイグは彼女の細腰をしっかり引き寄せながら居並ぶ人々に向き直った。
「ただいまより、フォルカナ王国王女セシリア姫は、アルグレード王国王太子クレイグ・アレンの婚約者と相成りました。国に戻り落ち着き次第、結婚式を挙げる予定ですので、その折にはぜひ皆様も足をお運びください――」
王太子らしくにこやかに発表するクレイグに、周囲の人々は再び温かい拍手を贈る。
クレイグは余裕の笑みで手を振っていたが、いっぱいいっぱいの状態になっていたセシリアはされるがままになっていた。
おまえも手を振れ、とクレイグに耳元で囁かれ、ようやくぎこちない笑みを浮かべて手を振る。
多くの人々が祝福を送ってくれることに嬉しさ以上に戸惑いを覚えつつも、何気なく周囲を見回したセシリアは、直後ぎくりと肩を強張らせた。
人混みの向こう。祝福の輪から外れた遠くから、エメラルダが射貫くようなまなざしでこちらを見つめている。
まぎれもない憎しみが見える瞳に、このままでは終わらない予感を感じ取って、セシリアは密かに背筋を凍らせた。
* *
正式に婚約が決まると、本格的に輿入れの準備が始まった。
もともとクレイグの帰国に合わせて支度は進められていたが、いかんせん彼からの贈り物の量が多すぎて、荷造りだけでも大仕事となってしまったのだ。
セシリア自身も最後のおさらいとばかりに、毎日行儀作法や勉強に明け暮れていた。出発前夜ともなるともうへとへとで、湯浴みを終えたあとはばたりと寝台に倒れ込んでしまったほどだ。
(本当に、目が回るような日々だったわ)
おかげで考えにふける時間はほとんどなく、どこか現実味がないまま物事が進んでいく。
自分は本当に明日、アルグレードに輿入れするのだろうか?
セシリアは無意識に左の薬指に嵌る指輪を指先で撫でた。
(そういえば……結局、王太子殿下がなぜわたしを選んだのかはわからずじまいね)
だが彼はある程度セシリアの身の上を把握していたようだった。
その上でセシリアを選んだのなら、エメラルダが言っていたように、後ろ盾がないことが好都合だったからなのだろうか?
(でもそれにしては、あのときのあの方のまなざしは……)
おれの手を取れ、と力強く言ってきたクレイグのまなざしが思い出され、セシリアはたちまち落ち着かない気持ちになる。
彼がセシリアを選んだ理由がなんであれ、あのときの彼の真剣なまなざしと言葉はまぎれもない本心であったと感じた。
その気持ちは今も変わらず、彼のことを信じたいという思いが少なからず存在している。
妃として相応の努力はもちろんしていくとして、あのような言葉をかけてくれるクレイグのそばで、これまでとは違う人生を送っていきたいと今のセシリアは考えていた。
しかし……
(気がかりがあるとすれば、やっぱりエメラルダのことね)
セシリアが求婚を断らなかったことでまたなにか行動を起こすだろうと思っていたエメラルダが、今日までいっさい動きを見せていない。
さすがにあきらめたのかとも考えるが、エメラルダの性格からしておそらくそれはないだろう。
ここまで自分の思い通りに物事が進まないことは、両親に甘やかされて育ってきたエメラルダにとって初めてのはずだ。きっとこれまで以上の憎しみをセシリアに募らせているに違いない。
(無事にアルグレードに出発できればいいけれど……)
祈るような思いでそう考えていたとき、侍女がお茶を持って寝室に入ってきた。
安眠を促すためのハーブティーは既に飲みやすい温度になっている。入浴のあとで喉が渇いていたセシリアはそれを一息に飲み干し、早々に寝台に横になった。
疲れのせいか、驚くほどの早さでころりと眠りに落ちてしまった。
翌日。朝日がちらちら入るのを感じつつ、寝台から身体を起こしたセシリアは、ぐらりと強いめまいに襲われた。
(なに? 頭がぐらぐらする……)
とっさに敷布に手をついて、しばらくじっとしている。その後ゆっくり目を開けたセシリアは、なだれ落ちてくる髪を左手で掻き上げた。
「……えっ?」
何気なく薬指を見たセシリアは、文字通り顔色をなくす。
「指輪……っ、え、どうして、……ない……っ!」
クレイグから贈られた婚約指輪が、左手の薬指から消えている!
入浴のとき以外、セシリアは常に指輪を嵌めたまま過ごしていた。昨夜も確かに指輪を見た記憶があるのに、いったいどうして――
慌てて毛布をまくり上げ、敷布の隅々まで懸命に探した。だが指輪はどこにも見当たらない。戸棚や衣装棚も手当たり次第探すが、やはり見つからなかった。
「いったいどこに……」
物音に気づいてか、洗面の支度をした侍女たちがノックとともに入室してきた。
あちこちひっくり返された部屋に驚く彼女たちに、セシリアは真っ青な顔で詰め寄る。
「あなたたち、指輪を見なかった? 王太子殿下からいただいた婚約指輪が見当たらないの!」
たちまち侍女たちが顔色を変え、全員で部屋全体をくまなく探し回った。だがいくら探しても婚約指輪は見つからない。
(どうしよう……あれは他の贈り物とはわけが違うわ。婚約の印としていただいたものなのに!)
すっかり散らかった部屋の中央で、セシリアは今にも崩れ落ちそうになる。
そんな中、騒がしい足音とともに部屋の扉が音を立てて開け放たれた。
「た、大変です! セシリア様のお荷物が……!」
真っ青な顔をした女官が息を切らせて駆け込んでくる。
さらなる嫌な予感に震えながら、セシリアは急いで身支度を整え外に出た。
女官が案内したのは城の正面玄関から少し離れたところだ。そこには荷物の運搬などに用いられる入り口があり、セシリアの荷物を積んだ馬車が横付けされている。
促されるまま荷馬車をのぞき込んだセシリアは、思わず口元を覆った。
「なんてことでしょう……! ああっ、ドレスが、こんな、ひどい……ッ」
うしろからのぞき込んだ侍女たちも涙まじりに叫ぶ。
荷馬車の中は惨憺たる有様だった。きちんと荷造りされていたセシリアのドレスや小物類が、ズタズタに切り裂かれている。宝飾品の入っていた箱はすべて壊され、中身がごっそり持ち去られていた。
「いったい誰がこんなひどいことを……!」
さめざめと泣き始める侍女たちの声を聞きながら、セシリアは呆然と立ち尽くす。その脳裏に、ゆらりと浮かんでくる人物があった。
「まーあ、朝からいったいなんの騒ぎ?」
頭上からのんきな声がかけられて、セシリアは雷に打たれたように身体を震わせる。ゆっくり背後を振り返ると、そこにはまさに今、脳裏に浮かんだ人物がたたずんでいた。
二階の窓が大きく開け放たれ、侍女を従えたエメラルダが笑みを浮かべて身を乗り出している。彼女は幌が開けられた荷馬車の中をのぞき込み、わざとらしく目を丸くした。
「あら? そこに散らかっているのはアルグレードの王太子殿下から贈られた品々ではなくって?」
エメラルダは眉をひそめつつ、さっと口元を扇で覆う。だが、隠し切れていない彼女の唇がニヤリとつり上がるのを、セシリアははっきり見てしまった。
セシリアの中で激しい感情が湧き起こる。それを感じているのかいないのか、エメラルダは厳しい表情でまくし立ててきた。
「これから嫁ごうという方からの贈り物を蔑ろにするなんて、いったいどういうつもり? いくら寛大な王太子殿下でも、これはさすがに許してくれないのではなくって?」
「――ッ!」
ただでさえ腸が煮えくりかえりそうなところに説教じみた言葉までぶつけられ、セシリアは思わず駆け出そうとした。これ以上ないほど姑息なやり方を用いた異母妹を、高いところから引きずり下ろしてやりたいと思ったのだ。
「セ、セシリア様!」
本能的にまずいと感じたのだろう。侍女たちが抱きつくようにしてセシリアを止めにかかる。無意識に身をよじりながら、セシリアは抑えきれない怒りをほとばしらせた。
「どうしてっ……! なぜこんなことができるのっ!」
「なっ……」
扇の陰でほくそ笑んでいたエメラルダが顔色を変える。これまでずっと虐げてきたセシリアが、はっきりと敵意を向けてきたことに驚いたらしい。
セシリアは激しく身体を震わせながら、高みの見物を決め込む異母妹を大声で怒鳴りつけた。
「いくらわたしが気に入らないからと言ってこんなことをするなんて、恥を知りなさいッ!」
すると、エメラルダは一転して顔を真っ赤にした。
「この……っ、黙っていれば図に乗って! おまえのような女、さっさと王太子殿下に見限られてしまえばいいのよ!」
紅を刷いた唇を吊り上げ、エメラルダは高らかに笑って踵を返す。
「せいぜい苦しむことね!」
嘲笑とともに去っていくエメラルダを睨みつけながら、セシリアは音が鳴るほど奥歯を噛みしめる。
――物心ついてからこれまでさんざん嫌がらせを受けてきたが、今ほど彼女に怒りを感じたことはない。
(なんて馬鹿なことをしてくれたの……!)
どうせ彼女はセシリアに恥をかかせようと深く考えずにやったのだろうが、あまりに愚かと言わざるを得ない。
切り裂かれたこれらはただの贈り物ではない。クレイグが自国の慣習に則り贈ってくれた品々なのだ。この贈り物を蔑ろにするということは、クレイグの心遣いだけでなくアルグレードの文化そのものを侮辱するということになる。
つまりセシリアが愛想を尽かされるどころか、外交問題に発展してもおかしくない暴挙なのだ。
(いくらこの国にいい思いはないとはいえ、そんな事態を引き起こすのは不本意よ。このままじゃ大変なことになる……!)
エメラルダが黙っていないことは予想できたが、まさかこんな形で報復されるとは思いもよらなかった。これまで気に入らないことがあれば、セシリアに直接攻撃してきていただけに、荷物がやられることなど考えもしなかったのである。
――収まらない感情の嵐に震える拳を握りしめていると、侍女のひとりがおずおずと歩み出てきた。
「い、いかがいたしましょう。もうそろそろ出発のお時間です。先ほどアルグレードの方々が城の正面に馬車を用意しているのが見えました」
セシリアは弾かれたように顔を上げた。
「出発を待っていただくように連絡したほうが……あっ、セシリア様ッ!?」
侍女の言葉が終わるより早く、セシリアは城の正面に向かって駆け出していた。
もともと近いところにいたこともあって、セシリアはすぐ城の正面に到着する。
そこではアルグレードの兵士たちが忙しく動き回っており、クレイグの姿もあった。
「――王太子殿下!」
側近のマティアスとなにやら話していたクレイグは、ハッとセシリアを振り返る。今日は飾り気の少ない軍服姿だが、なにを着ていても彼の美しさが損なわれることはないようだ。
「セシリア? どうした、そんなに慌てて」
婚約者のただならぬ様子に気づき、すぐセシリアのもとへ駆けつけてきたクレイグは、さりげなく兵たちの視線から彼女の姿を隠す位置に立った。
とにかく彼に謝らなければと走ってきたものの、いざ本人を前にすると言葉に詰まる。緊張したセシリアは息を吸い込んだ途端に噎せてしまった。
「大丈夫か? いったいなにが――」
クレイグの言葉が不自然に止まる。その目はセシリアの左手を見つめていた。
「婚約指輪はどうした?」
びくり、とセシリアは身を強張らせる。背筋を冷や汗が伝うのを感じながらも、正直に話さなければと口を開いたとき――
「おお、お早いですな王太子殿下」
と、朗らかな声が割り込んできて、クレイグとともにそちらを見やったセシリアは小さくうめいた。
フォルカナ国王と王妃、そして宰相を始めとする重臣たちが、ぞろぞろと城から出てくるところだった。腹立たしいことに、エメラルダも涼しい顔をして同行している。
クレイグはまた、さりげなく彼らの目からセシリアを守るように立ち位置を変え、そばに控えていたマティアスに向かって手を挙げた。
「全員、整列!」
主人の意向を受け、マティアスが兵士たちに向け声を張り上げる。
兵士たちが一斉に作業を切り上げ、瞬く間に三列に並んだ。一糸乱れぬ統制された動きに、フォルカナの面々は一様に気圧されたようだった。
「これはフォルカナ国王陛下。皆様もお揃いのようで、このような早い時間からありがとうございます」
「なに、クレイグ殿下のもとには我が娘が嫁ぐのですから、このくらいは当然のことです」
言いながら、父王がぐるりと視線をめぐらせる。肝心のセシリアの姿がないことに気づいたのだろう。セシリアはこのまま逃げ出したい気持ちをぐっと抑え、クレイグの背後から思い切って姿を見せた。
「なっ! セシリア、そんな恰好でなにをしておるっ」
部屋中を引っ掻き回したあと、適当なドレスに着替えて飛び出してきたのだ。今の彼女は化粧はもちろん髪も結っていない。人前に出るどころか、庭を散歩するのもはばかられるような恰好だった。
父の鬼のような形相にひるみそうになりながらも、セシリアはぐっと顔を上げた。
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