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派閥同盟篇
1.Mのいない朝
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2021年12月19日日曜日。神奈川県川崎市、アパート『隣人荘』2階、楠森家。
午前8時30分。
12月13日から一週間に渡り行われた、新川学園の第3学期期末試験。本日はその試験から二日後の平々凡々な日曜日だ。
学園に通う生徒のほとんどが、恐らく土曜に外出し、日曜は自宅でのんびり過ごすというスケジュールだと思われる。
例外は一握りの、追試を言い渡された不良生徒であるが、優等生が多く治安が良いことがウリの新川学園に、そういった連中はほとんど在学していない。
私立新川学園から徒歩10分の場所にある小さなアパート『隣人荘』。
可愛らしい名前の印象を粉々に打ち砕くような、寂れた外観のそのアパートには、人間ではない人間が暮らしていた。
その一人――2階の最東端の部屋に暮らす、高校1年生の少年は自宅で、以前に録画したカラオケ番組を観賞している。
年季の入ったベージュ色の箱、中を満たしているのは、哀愁と退屈がないまぜになったたいへん息苦しい空気だ。箱の内側にいる少年は、数年前まで愛用していた炬燵を惜しむように、座椅子に座った状態で雑巾のような毛布をかぶり、ただ根性だけで寒さから身を守っていた。
大きく浮き出した粟に全身を包みながら、廊下からの隙間風に身を震わせる少年だったが、突如玄関のほうから何かが軋む音が聞こえたため、布にくるまったまま急いで現場へ――、
「もしかして、玄関の鍵開いてた……?」
この家の住人、楠森バジルは驚いた顔で、突然の来訪者にそう訊ねる。
「いいや、頑丈なうえ厳重に閉ざされていたさ。お蔭で少々手間取ってしまったじゃないか」
「ふ、不法侵入者のくせに、俺の責任だと言わんばかりの態度だな……」
「こんなに雪が降って素敵な休日に、自宅に引き籠っているジルくんが悪いんだよ」
「お嬢さんは犬か何かですか……?」
「せめて子供と言いたまえ」
来訪者はバジルの自宅の玄関を無理やりこじ開けておきながら、不機嫌な様子の彼の額を思いきり指で弾いた。来訪者の少女の握力はゴリラ並みで、筋力に関しても人知を超えている。そのためたかがデコピンでも、一瞬で額が赤く腫れあがり、バジルは地面でもがき苦しんだ。
恵光日和、バジルと同い年且つアパートの隣の部屋に住む少女で、バジルと非常に仲がいい。
そして彼女もまた、人間ではない人間の一人だ。
「それで……その素敵な休日の朝から、俺に何か用でも?」
バジルは、なんの前触れもなく玄関扉の鍵穴を破壊し、侵入してきた茶髪の少女に、怪訝な表情で理由を訊ねる。尤も、少女の態度から悪気を感じている様子が一切うかがえないため、正直に答えてくれるとも思えないのだが、一縷の希望に賭けるしかなかった。
「ふふっ、わたしは知っているぞ。今日のジルくんは、まだ朝食を摂っていないのだろう?」
「だって俺、冬は少食だし……というか、どうしてわかったんだ?」
「まあ、隣人同士にプライバシーなど存在しないことを、肝に銘じておくことだね」
要するに日和は、午前8時を過ぎても朝食を摂らないバジルを心配して、わざわざ様子を見に来たのだ。
まるで、思春期を迎えた息子への接し方を間違えている母親のような、日和の過保護とも思われる行為に、バジルは憂鬱な表情で嘆息する。
「これ、俺の気のせいかもしれないけど……送迎といいテスト勉強といい、日和がそこまで俺の世話を焼いてくれる理由なんて、特にないと思う。別に義理でもなんでもないでしょ?」
自分のことを想って、何かと絡んでくれることは純粋に嬉しい。だがその厚意も、度が過ぎてしまえばただのお節介であり、最悪障害にさえなり得る。
「だからさ、今までどおりでいいよ。……ね?」
毎日、姉のように世話を焼いてくれる日和には申し訳ないが、バジルは彼女に自身の行為を省みるよう懇願した。
しかし、日和は口を尖らせた不満顔で、
「マイだと嬉しいが、わたしだと迷惑だって……そう言っているのかい?」
「そんなこと言うわけないでしょ。ただ、若い男女がむやみやたらに絡むのも、正直どうなのかなって。いや、うーん……他になんて言えばいいんだ……?」
「ジルくんがそうまで嫌に思うのなら、わたしはもう実家に帰らせて貰うよ」
「そういう、反応に困るような返しは勘弁してくれって……」
真面目な話をしていたというのに、日和は真顔で淡々とふざけたことを言い放つ。
恐らく、バジルの緊張を解くためでもなんでもなくて、反射的に冗談を漏らしてしまっただけなのだろうが、二人は互いの顔を見つめ合いながら苦笑するしかなかった。
微妙に面映ゆさを覚える状況に、いよいよ耐えられなくなったバジルは、
「ひ、日和の家で、朝ご飯が食べたいなっ!!」
「――そ、そうかい。折角だから、寿司でも握ってあげようかな」
「モーニング・シースーは胃袋への暴力でしょ!」
バジルのくだらない突っ込みに、日和は固く結んだ口唇を緩め柔らかい笑みを浮かべる。
そして――なぜか唐突に、上着を脱ぎ捨てた。
バジルは何事か理解できないため激しくうろたえるが、幸か不幸か日和は白色のジャンパーの下には真っ赤なセーターを着ていた。室温の高さに耐えかねたという可能性は、前述の楠森家の状態から考えられないため、バジルは徐に首をかしげる。
「日和、この部屋暑かった?」
「……いいや」
素っ気ない返事をすると、日和は先ほどまで羽織っていたジャンパーを、薄い布を纏っただけのバジルに優しくかぶせた。
「こんな寒い部屋にいたら、風邪を引いてしまうだろう? 早く着替えて、我が家に来なさい」
「――いや、うん。ありがと……」
艶っぽい笑顔でこちらを一瞥すると、足早に日和は楠森家をあとにした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
遡ること、10月30日。あの日を境に、バジルと仲間たちとの関係は大きく狂ってしまった。
数年前から、川崎市民だけを対象に連続殺人事件を起こしていた「赤い人」。その正体は、バジルの所属する派閥とは別の派閥からさらに分かれた、過激派の工作員だった。
バジルはあの日、過激派のメンバーを全員拘束して本家へ安全に返還するという任務で、過激派の人間が潜伏する千葉県の房総半島に赴いていた。
普段は任務の条件を忠実に守るバジルだが、この日だけは違った。彼自身と高難度の任務の両方を慮って、間違いを正そうとしてくれた仲間たちを裏切り、バジルは単独で敵の本拠地へ乗り込んだのだ。
類い稀な能力を有する彼なら、たとえ苦戦を強いられようとも敵を殺さずに無力化することなど実に容易い――そのはずだったが、極限まで貧血状態に陥ったバジルは暴走し、過激派をまとめていたリーダーを含む30名以上の人間を斬り殺してしまった。
幸いにも、過激派の幹部的存在だった男だけが一命をとりとめたのだが……この一件以来、本家とは一切の連絡が絶たれてしまい、そしてバジル自身も仲間たちの信頼を完全に失った。
あまりに痛ましい事件からすでに2ヵ月が経過したが、バジルは仲間たちから向けられる冷たい視線に耐えられず、拠点へ足を運ぶことができないでいる。
しかし、そんな事件があったにも関わらず、日和だけはバジルのことを見放さなかった。
「朝から揚げ物はキツイと思ったけど……うん。意外といけるよ」
「それでも、材料は全てスーパーマーケットで安売りされていた品物さ」
「俺が単に舌バカで、普通の人なら絶対食えないっていう可能性は?」
「別に、ジルくんが口にできるのなら、それで構わないだろう」
「日和は優しいなぁ……」
いまだ湯気が立つ唐揚げを頬張りながら、バジルはそう呟く。表現力の乏しい彼なりに感謝の言葉を述べようとしたのだろうが、どうしても陳腐で幼稚な言葉になってしまう。
月曜の登校日のため、リラックスして過ごすのが定石であるはずの日曜の朝、日和の自宅の食事テーブルには非常に豪華な料理が並んでいた。そのどれもが、手を抜いたとしても時間と手間のかかるものばかりで、なお且つなるべく軽いものが望ましい朝食には不向きな肉料理がメーンである。
しかし中には、蛋白質やカルシウム、鉄分の吸収を手助けする食材も多く見られ、本当にバジルのために作ったのだと理解できる。
「ところで、少し気になっていたんだけど……よく食べるよね、最近のジルくんは」
「まあ、筋トレとか有酸素運動とか頑張ってるからかなー?」
「虚勢を張らなくて結構だよ。『その力』の副作用だってことは、すでに把握している」
日和のいう『その力』とは、即ちバジルの身体に宿る異能力のことを指す。
新人類の中でも特に古い者たちの血を継ぐ者で、ごく稀に人知を超えた『血液の異能』を持って誕生する人間がいるという。内容には個人差があるようだが、バジルの場合は初期状態が液体の血液を瞬時に状態変化させる異能、そして驚異的な自然治癒力である。
しかし力を行使するには当然本人の血液を必要とする。消費された血液は、摂取された水分などから新しく作られるのだが、そうなると生成に必要な大量の養分を摂ることが必須となるため、バジルは異能力が発現してからというもの、真っ白い小軀に似合わず大食漢なのだ。
「それでも、必要以上に摂取した養分は脂肪として蓄積される。そりゃあ、多少は備蓄があるほうが生物的にはよろしいんだけど、その分だけ行動に制限がかかってしまう。そして、その行動の制限を一時的に解除するため、また必要以上の養分を摂取する……典型的な悪循環だ」
「それ、現在進行形で油分摂ってる俺に言っていいことなのか……?」
「わたしはただ心配なだけさ。尤も、その心配が杞憂で終わればいいんだけどねえ」
頬杖をついて嘆息すると、日和はシーザーサラダのレタスを一枚だけ口へ運んだ。一口程度の大きさにも関わらず、指で摘まみながらシャリシャリと頬張る姿はさながら、不思議なものを吟味する好奇心旺盛な子供のようだ。
「確かに、訓練も任務も強要されない今だったら、すぐ太っちゃうかもな……」
唐突にバジルは、孤独な現状をつくってしまった自分を皮肉るような言葉を口にする。
「何さ。折角わたしが、ジルくんを元気づけたくて、腕を振るったというのに」
「違う、違う! 俺は別に、日和の料理に文句を言いたかったんじゃなくてっ!」
自身の行為を否定されたことに腹を立てる日和。対して、狼狽しながら弁明しようとするバジルだったが、それは益々日和の不満を買うだけだった。
「結局は同じさ。わたしのお節介をダシに、ジルくんは自分をもっと貶めて、後悔させて、そして憐れな自分に酔いしれたいだけなんだよ」
「…………」
「本当、典型的すぎる行為だ。そういう誰の目にも入る自慰をひたすら続けることで、いつか誰かが不憫な自分を理解してくれると思い込んでいる、妄想に取り憑かれた変態に等しい」
「俺の後悔って、そんなふうに見えてるんだ……?」
「見えているとも。そりゃあもう迷惑さ。視界に入るたび周囲の心が荒むんだから」
日和の慰めの言葉はその実、ただの罵倒である。それを自覚しているらしく、バジルの真っ白い双眸を見つめる彼女の表情は、耐え難い苦痛に歪んでいた。
別に誰かに助けを求めることもなく、ただ起こってしまった事実を背負いながら、壊れてしまったものをどうにかして修復しようと奔走していたバジル。
彼の行動は信頼を回復するうえでは確かに必要なものだったが――日和は端から、彼の失敗と後悔をそのまま受け入れる気持ちだったのだ。それなのに、彼女の友人としての好意など知らないで、勝手に関係が破綻したと思い込んでいたバジルが、日和は許せなかった。
それでも、日和の叱責はあくまでバジルの過剰な自責の念を指摘したもので、不満や怒りをそのまま吐露したものではない。バジルに少しでも理解して貰えるよう、自身の感情を程よく加工したものを、隅々に散りばめただけなのだ。
しかし、当然ながらその事実にバジルは気付かないでいる。
容赦のない罵りの言葉を投げかけてくる日和に対して、今すぐに殴りかかってしまいそうな程の憤りを覚えていた。
「……そう、か。それなら別に、朝飯なんて作らなくて良かっただろ」
「忘れたのかい? わたしは君が朝食を摂っていないことを知っていただけで、わたしの家で朝食を共にしたいと口にしたのは、紛れもなくジルくんなんだよ」
「…………」
事実を突きつけられ、バジルは押し黙ってしまう。単純に、日和の優しさを踏みにじりたくないという気持ちから発した言葉だったが、裏を返せば少しでも孤独感を紛らわせるため、日和の厚意を利用したともいえる。彼女はその逃避行動について追及しないが、すでに知り得ていることは確かだ。
バジルは唇を結って、頭を垂れた。どうしようもなく困り果てた際、こうして困ったようなポーズを取るということを、今しがた日和から指摘されたばかりだというのに。
――しかし日和は、小さく笑ってバジルの髪の毛を乱暴に撫でまわした。
「もう。そういうのが、わたしの母性をくすぐるんだよ。本当、やめてくれないかい?」
「……いや、やめろと言われても――ぅぐっ!?」
目を伏せてブツブツ呟いているバジルの口へ、思い切り捻じ込まれた豚レバーの塊。
「君はもう少し、他人の機微というものを観察したほうがいいよ」
無論、返答などない。というか噛み砕くのが大変で、母音しか発することができないのだ。
「恐らくだけど、今までジルくんのアプローチが上手くいかないのは、そういうところが原因だ。なぜ、マイが君を避けたがるのか……なぜ、いつも君と訓練しくれる彼女がやたら君に厳しいのか……そしてなぜ、わたしが君を叱ったり頭を撫でたりするのか……」
『ジジジジジジジジッ!』
「――ぃ、今はまだわからないよ、ごめん……。でも、理解はしようと思う」
『ジジジジジジジジッ!』
「ジルくんの素直なところ、わたしは好きだよ。君みたいな人間が友人であることは、わたしの誇りだ。だから……君に早く、わたしたちを理解して欲しいのさ」
『ジジジジジジジジッ!』
「ありがとう。……ところで、電話に出なくていいのか?」
折角のいいムードの中、弁えもなく鳴り響く日和のスマートフォン。彼女は着信音から相手が誰なのかわかっているはずだが、なぜか電話に応じる素振りを見せない。
「ほら、ジルくん。今のわたしを理解してごらん?」
「え、えっとぉ…………」
「残念、時間切れだ」
次の瞬間、バジルの背後――玄関のほうから、不気味な呼吸音が聞こえてきた。
再び全身に粟を纏ったバジルは、もの凄い剣幕で後ろを振り返る、
「え、あ……どうやって入ってきたんだ?」
「すみません、説明している暇がありませんので。日和さん、悪意ある行為は慎んでいただきたいのですが……ご存じでしょうが、僕は運動神経が皆無なのですよ」
「ふんっ。今回ばかりは、君にすこぶる腹が立っただけのことさ」
「そ、それは何よりで……」
応えにならない返答をする赤い髪の少年は、息を切らしながらゆっくりと述べる。
「只今より、会議を行います。同志の方々は、エコービル1階の会議室へお越し下さいませ」
「な、なんでアブラゼミなんだ……?」
いまだ着信音の謎を引きずるバジルは、怪訝な顔で、赤髪の来訪者を徒に眺めていた。
午前8時30分。
12月13日から一週間に渡り行われた、新川学園の第3学期期末試験。本日はその試験から二日後の平々凡々な日曜日だ。
学園に通う生徒のほとんどが、恐らく土曜に外出し、日曜は自宅でのんびり過ごすというスケジュールだと思われる。
例外は一握りの、追試を言い渡された不良生徒であるが、優等生が多く治安が良いことがウリの新川学園に、そういった連中はほとんど在学していない。
私立新川学園から徒歩10分の場所にある小さなアパート『隣人荘』。
可愛らしい名前の印象を粉々に打ち砕くような、寂れた外観のそのアパートには、人間ではない人間が暮らしていた。
その一人――2階の最東端の部屋に暮らす、高校1年生の少年は自宅で、以前に録画したカラオケ番組を観賞している。
年季の入ったベージュ色の箱、中を満たしているのは、哀愁と退屈がないまぜになったたいへん息苦しい空気だ。箱の内側にいる少年は、数年前まで愛用していた炬燵を惜しむように、座椅子に座った状態で雑巾のような毛布をかぶり、ただ根性だけで寒さから身を守っていた。
大きく浮き出した粟に全身を包みながら、廊下からの隙間風に身を震わせる少年だったが、突如玄関のほうから何かが軋む音が聞こえたため、布にくるまったまま急いで現場へ――、
「もしかして、玄関の鍵開いてた……?」
この家の住人、楠森バジルは驚いた顔で、突然の来訪者にそう訊ねる。
「いいや、頑丈なうえ厳重に閉ざされていたさ。お蔭で少々手間取ってしまったじゃないか」
「ふ、不法侵入者のくせに、俺の責任だと言わんばかりの態度だな……」
「こんなに雪が降って素敵な休日に、自宅に引き籠っているジルくんが悪いんだよ」
「お嬢さんは犬か何かですか……?」
「せめて子供と言いたまえ」
来訪者はバジルの自宅の玄関を無理やりこじ開けておきながら、不機嫌な様子の彼の額を思いきり指で弾いた。来訪者の少女の握力はゴリラ並みで、筋力に関しても人知を超えている。そのためたかがデコピンでも、一瞬で額が赤く腫れあがり、バジルは地面でもがき苦しんだ。
恵光日和、バジルと同い年且つアパートの隣の部屋に住む少女で、バジルと非常に仲がいい。
そして彼女もまた、人間ではない人間の一人だ。
「それで……その素敵な休日の朝から、俺に何か用でも?」
バジルは、なんの前触れもなく玄関扉の鍵穴を破壊し、侵入してきた茶髪の少女に、怪訝な表情で理由を訊ねる。尤も、少女の態度から悪気を感じている様子が一切うかがえないため、正直に答えてくれるとも思えないのだが、一縷の希望に賭けるしかなかった。
「ふふっ、わたしは知っているぞ。今日のジルくんは、まだ朝食を摂っていないのだろう?」
「だって俺、冬は少食だし……というか、どうしてわかったんだ?」
「まあ、隣人同士にプライバシーなど存在しないことを、肝に銘じておくことだね」
要するに日和は、午前8時を過ぎても朝食を摂らないバジルを心配して、わざわざ様子を見に来たのだ。
まるで、思春期を迎えた息子への接し方を間違えている母親のような、日和の過保護とも思われる行為に、バジルは憂鬱な表情で嘆息する。
「これ、俺の気のせいかもしれないけど……送迎といいテスト勉強といい、日和がそこまで俺の世話を焼いてくれる理由なんて、特にないと思う。別に義理でもなんでもないでしょ?」
自分のことを想って、何かと絡んでくれることは純粋に嬉しい。だがその厚意も、度が過ぎてしまえばただのお節介であり、最悪障害にさえなり得る。
「だからさ、今までどおりでいいよ。……ね?」
毎日、姉のように世話を焼いてくれる日和には申し訳ないが、バジルは彼女に自身の行為を省みるよう懇願した。
しかし、日和は口を尖らせた不満顔で、
「マイだと嬉しいが、わたしだと迷惑だって……そう言っているのかい?」
「そんなこと言うわけないでしょ。ただ、若い男女がむやみやたらに絡むのも、正直どうなのかなって。いや、うーん……他になんて言えばいいんだ……?」
「ジルくんがそうまで嫌に思うのなら、わたしはもう実家に帰らせて貰うよ」
「そういう、反応に困るような返しは勘弁してくれって……」
真面目な話をしていたというのに、日和は真顔で淡々とふざけたことを言い放つ。
恐らく、バジルの緊張を解くためでもなんでもなくて、反射的に冗談を漏らしてしまっただけなのだろうが、二人は互いの顔を見つめ合いながら苦笑するしかなかった。
微妙に面映ゆさを覚える状況に、いよいよ耐えられなくなったバジルは、
「ひ、日和の家で、朝ご飯が食べたいなっ!!」
「――そ、そうかい。折角だから、寿司でも握ってあげようかな」
「モーニング・シースーは胃袋への暴力でしょ!」
バジルのくだらない突っ込みに、日和は固く結んだ口唇を緩め柔らかい笑みを浮かべる。
そして――なぜか唐突に、上着を脱ぎ捨てた。
バジルは何事か理解できないため激しくうろたえるが、幸か不幸か日和は白色のジャンパーの下には真っ赤なセーターを着ていた。室温の高さに耐えかねたという可能性は、前述の楠森家の状態から考えられないため、バジルは徐に首をかしげる。
「日和、この部屋暑かった?」
「……いいや」
素っ気ない返事をすると、日和は先ほどまで羽織っていたジャンパーを、薄い布を纏っただけのバジルに優しくかぶせた。
「こんな寒い部屋にいたら、風邪を引いてしまうだろう? 早く着替えて、我が家に来なさい」
「――いや、うん。ありがと……」
艶っぽい笑顔でこちらを一瞥すると、足早に日和は楠森家をあとにした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
遡ること、10月30日。あの日を境に、バジルと仲間たちとの関係は大きく狂ってしまった。
数年前から、川崎市民だけを対象に連続殺人事件を起こしていた「赤い人」。その正体は、バジルの所属する派閥とは別の派閥からさらに分かれた、過激派の工作員だった。
バジルはあの日、過激派のメンバーを全員拘束して本家へ安全に返還するという任務で、過激派の人間が潜伏する千葉県の房総半島に赴いていた。
普段は任務の条件を忠実に守るバジルだが、この日だけは違った。彼自身と高難度の任務の両方を慮って、間違いを正そうとしてくれた仲間たちを裏切り、バジルは単独で敵の本拠地へ乗り込んだのだ。
類い稀な能力を有する彼なら、たとえ苦戦を強いられようとも敵を殺さずに無力化することなど実に容易い――そのはずだったが、極限まで貧血状態に陥ったバジルは暴走し、過激派をまとめていたリーダーを含む30名以上の人間を斬り殺してしまった。
幸いにも、過激派の幹部的存在だった男だけが一命をとりとめたのだが……この一件以来、本家とは一切の連絡が絶たれてしまい、そしてバジル自身も仲間たちの信頼を完全に失った。
あまりに痛ましい事件からすでに2ヵ月が経過したが、バジルは仲間たちから向けられる冷たい視線に耐えられず、拠点へ足を運ぶことができないでいる。
しかし、そんな事件があったにも関わらず、日和だけはバジルのことを見放さなかった。
「朝から揚げ物はキツイと思ったけど……うん。意外といけるよ」
「それでも、材料は全てスーパーマーケットで安売りされていた品物さ」
「俺が単に舌バカで、普通の人なら絶対食えないっていう可能性は?」
「別に、ジルくんが口にできるのなら、それで構わないだろう」
「日和は優しいなぁ……」
いまだ湯気が立つ唐揚げを頬張りながら、バジルはそう呟く。表現力の乏しい彼なりに感謝の言葉を述べようとしたのだろうが、どうしても陳腐で幼稚な言葉になってしまう。
月曜の登校日のため、リラックスして過ごすのが定石であるはずの日曜の朝、日和の自宅の食事テーブルには非常に豪華な料理が並んでいた。そのどれもが、手を抜いたとしても時間と手間のかかるものばかりで、なお且つなるべく軽いものが望ましい朝食には不向きな肉料理がメーンである。
しかし中には、蛋白質やカルシウム、鉄分の吸収を手助けする食材も多く見られ、本当にバジルのために作ったのだと理解できる。
「ところで、少し気になっていたんだけど……よく食べるよね、最近のジルくんは」
「まあ、筋トレとか有酸素運動とか頑張ってるからかなー?」
「虚勢を張らなくて結構だよ。『その力』の副作用だってことは、すでに把握している」
日和のいう『その力』とは、即ちバジルの身体に宿る異能力のことを指す。
新人類の中でも特に古い者たちの血を継ぐ者で、ごく稀に人知を超えた『血液の異能』を持って誕生する人間がいるという。内容には個人差があるようだが、バジルの場合は初期状態が液体の血液を瞬時に状態変化させる異能、そして驚異的な自然治癒力である。
しかし力を行使するには当然本人の血液を必要とする。消費された血液は、摂取された水分などから新しく作られるのだが、そうなると生成に必要な大量の養分を摂ることが必須となるため、バジルは異能力が発現してからというもの、真っ白い小軀に似合わず大食漢なのだ。
「それでも、必要以上に摂取した養分は脂肪として蓄積される。そりゃあ、多少は備蓄があるほうが生物的にはよろしいんだけど、その分だけ行動に制限がかかってしまう。そして、その行動の制限を一時的に解除するため、また必要以上の養分を摂取する……典型的な悪循環だ」
「それ、現在進行形で油分摂ってる俺に言っていいことなのか……?」
「わたしはただ心配なだけさ。尤も、その心配が杞憂で終わればいいんだけどねえ」
頬杖をついて嘆息すると、日和はシーザーサラダのレタスを一枚だけ口へ運んだ。一口程度の大きさにも関わらず、指で摘まみながらシャリシャリと頬張る姿はさながら、不思議なものを吟味する好奇心旺盛な子供のようだ。
「確かに、訓練も任務も強要されない今だったら、すぐ太っちゃうかもな……」
唐突にバジルは、孤独な現状をつくってしまった自分を皮肉るような言葉を口にする。
「何さ。折角わたしが、ジルくんを元気づけたくて、腕を振るったというのに」
「違う、違う! 俺は別に、日和の料理に文句を言いたかったんじゃなくてっ!」
自身の行為を否定されたことに腹を立てる日和。対して、狼狽しながら弁明しようとするバジルだったが、それは益々日和の不満を買うだけだった。
「結局は同じさ。わたしのお節介をダシに、ジルくんは自分をもっと貶めて、後悔させて、そして憐れな自分に酔いしれたいだけなんだよ」
「…………」
「本当、典型的すぎる行為だ。そういう誰の目にも入る自慰をひたすら続けることで、いつか誰かが不憫な自分を理解してくれると思い込んでいる、妄想に取り憑かれた変態に等しい」
「俺の後悔って、そんなふうに見えてるんだ……?」
「見えているとも。そりゃあもう迷惑さ。視界に入るたび周囲の心が荒むんだから」
日和の慰めの言葉はその実、ただの罵倒である。それを自覚しているらしく、バジルの真っ白い双眸を見つめる彼女の表情は、耐え難い苦痛に歪んでいた。
別に誰かに助けを求めることもなく、ただ起こってしまった事実を背負いながら、壊れてしまったものをどうにかして修復しようと奔走していたバジル。
彼の行動は信頼を回復するうえでは確かに必要なものだったが――日和は端から、彼の失敗と後悔をそのまま受け入れる気持ちだったのだ。それなのに、彼女の友人としての好意など知らないで、勝手に関係が破綻したと思い込んでいたバジルが、日和は許せなかった。
それでも、日和の叱責はあくまでバジルの過剰な自責の念を指摘したもので、不満や怒りをそのまま吐露したものではない。バジルに少しでも理解して貰えるよう、自身の感情を程よく加工したものを、隅々に散りばめただけなのだ。
しかし、当然ながらその事実にバジルは気付かないでいる。
容赦のない罵りの言葉を投げかけてくる日和に対して、今すぐに殴りかかってしまいそうな程の憤りを覚えていた。
「……そう、か。それなら別に、朝飯なんて作らなくて良かっただろ」
「忘れたのかい? わたしは君が朝食を摂っていないことを知っていただけで、わたしの家で朝食を共にしたいと口にしたのは、紛れもなくジルくんなんだよ」
「…………」
事実を突きつけられ、バジルは押し黙ってしまう。単純に、日和の優しさを踏みにじりたくないという気持ちから発した言葉だったが、裏を返せば少しでも孤独感を紛らわせるため、日和の厚意を利用したともいえる。彼女はその逃避行動について追及しないが、すでに知り得ていることは確かだ。
バジルは唇を結って、頭を垂れた。どうしようもなく困り果てた際、こうして困ったようなポーズを取るということを、今しがた日和から指摘されたばかりだというのに。
――しかし日和は、小さく笑ってバジルの髪の毛を乱暴に撫でまわした。
「もう。そういうのが、わたしの母性をくすぐるんだよ。本当、やめてくれないかい?」
「……いや、やめろと言われても――ぅぐっ!?」
目を伏せてブツブツ呟いているバジルの口へ、思い切り捻じ込まれた豚レバーの塊。
「君はもう少し、他人の機微というものを観察したほうがいいよ」
無論、返答などない。というか噛み砕くのが大変で、母音しか発することができないのだ。
「恐らくだけど、今までジルくんのアプローチが上手くいかないのは、そういうところが原因だ。なぜ、マイが君を避けたがるのか……なぜ、いつも君と訓練しくれる彼女がやたら君に厳しいのか……そしてなぜ、わたしが君を叱ったり頭を撫でたりするのか……」
『ジジジジジジジジッ!』
「――ぃ、今はまだわからないよ、ごめん……。でも、理解はしようと思う」
『ジジジジジジジジッ!』
「ジルくんの素直なところ、わたしは好きだよ。君みたいな人間が友人であることは、わたしの誇りだ。だから……君に早く、わたしたちを理解して欲しいのさ」
『ジジジジジジジジッ!』
「ありがとう。……ところで、電話に出なくていいのか?」
折角のいいムードの中、弁えもなく鳴り響く日和のスマートフォン。彼女は着信音から相手が誰なのかわかっているはずだが、なぜか電話に応じる素振りを見せない。
「ほら、ジルくん。今のわたしを理解してごらん?」
「え、えっとぉ…………」
「残念、時間切れだ」
次の瞬間、バジルの背後――玄関のほうから、不気味な呼吸音が聞こえてきた。
再び全身に粟を纏ったバジルは、もの凄い剣幕で後ろを振り返る、
「え、あ……どうやって入ってきたんだ?」
「すみません、説明している暇がありませんので。日和さん、悪意ある行為は慎んでいただきたいのですが……ご存じでしょうが、僕は運動神経が皆無なのですよ」
「ふんっ。今回ばかりは、君にすこぶる腹が立っただけのことさ」
「そ、それは何よりで……」
応えにならない返答をする赤い髪の少年は、息を切らしながらゆっくりと述べる。
「只今より、会議を行います。同志の方々は、エコービル1階の会議室へお越し下さいませ」
「な、なんでアブラゼミなんだ……?」
いまだ着信音の謎を引きずるバジルは、怪訝な顔で、赤髪の来訪者を徒に眺めていた。
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追放観測士の、七日間の港湾カウントダウン・サスペンス。
この作品は以下の箇所にAI(Claude Code)を利用しています。
・世界観・設定の管理補助
・プロット段階の壁打ち
・作者による執筆後の校正
三十年後に届いた白い手紙
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