オフィスにラブは落ちてねぇ!!

櫻井音衣

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もう、待つのはいや

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朝礼を終え営業職員のオバサマたちが営業先に出掛ける準備をし始めた頃、緒川支部長は新人職員の支部研修をしていた。

「アンケートは記入してもらったら速やかに入力するように。パソコンのトップ画面から〔アンケート管理〕を選んで……」

個人情報の管理の仕方や、保険設計書の作り方、生活設計書の作り方などを、モデルケースの試算をして見せながら説明した。
それから契約手続きの際の入力方法や注意点を説明する。

「契約手続きの際には必ず約款やっかんを渡すように」
「支部長、約款ってどこにありますか?」
「約款は内勤席の横の棚に……」

不意に空っぽの内勤席が目に留まり、緒川支部長は一瞬黙り込んだ。

「支部長?」
「ああ……約款はDVD版があの棚の引き出しに、冊子はその隣に商品ごとに並べてある。DVDより冊子がいいってお客さんもいるから、一応両方用意しておくといい。くれぐれも商品名を間違えないように」

緒川支部長は大まかに説明を終えると腕時計を見た。

「そろそろペア活動の時間だな。先輩にしっかり教わって来るように」
「はい。ありがとうございました」

新人たちが席に戻ると、緒川支部長はため息をついた。
出社時間を大幅に過ぎても愛美はまだ来ていない。
緒川支部長は、ちょうど席に戻ってきた峰岸主管に声を掛けた。

「峰岸主管、菅谷から欠勤の連絡あった?」

峰岸主管が答えるより先に、その隣の席の高瀬FPがひょこっと身を乗り出した。

「菅谷さんなら熱があるのでお休みだそうですよ。さっき、営業部長から内線で連絡がありました。風邪ですかね?」
「……そうか。熱で休みか」

緒川支部長は小さく呟いて、パソコン画面に視線を移した。
キーボードを叩きながら、一人で大丈夫だろうかとか、もしかしたら熱があるというのは嘘で自分に会いたくなくて休んだのかもなどと考える。
パソコンの横に置いたスマホの画面を開いても、愛美からはなんの連絡もなかった。
やっとの思いで愛美と付き合える事になり、ようやくほんの少し笑ってくれるようにもなったのに、前よりもっと嫌われてしまったのではないかと不安になる。
今日こそは早く仕事を終わらせて愛美に会いに行こうと、緒川支部長はいつもより気合いを入れて猛スピードで仕事を進めた。



お昼前。
愛美は寝汗で濡れたパジャマを着替え、ミネラルウォーターで水分補給をした。
相変わらず熱は高く、一向に下がる気配がない。
薬を飲む前に何か胃に入れようと冷蔵庫を開けたものの、食欲も料理をする気力もなく、ヨーグルトくらいなら食べられそうだと冷蔵庫から取り出した。
愛美はスプーンを口に運びながら、ぼんやりと考える。
人間は弱ったときほど誰かの優しさを求めるものだ。
もう何年も一人暮らしをしているけれど、病気になるといつも、頼る人がいない事が少し不安になる。
こんなとき優しい恋人がいれば、甲斐甲斐しく看病してくれるとまではいかなくても、ただそばにいてくれるだけでも心強いに違いない。
これまで愛美が付き合った人たちは、与えられる事を求めるばかりで、愛美が困ったり弱ったりしているときに助けてくれた事など一度なかった。
もしかしたら緒川支部長となら、今までの恋人とはまったく違った関係を築けるとでも期待していたのかと自問自答する。
だけどよく考えたら、まだ相手の事をろくに知りもしないのに、そんな事を期待する自分の方が間違っているとも、期待して裏切られるくらいなら最初から期待なんかしない方がいいとも思う。
多くを望むほど裏切られたときのショックは大きいと言う事を、愛美は身を持って知っている。
緒川支部長はきっと今日も何食わぬ顔で仕事をしているのだろう。
電話もメッセージも無視している事に腹を立てているだろうか?
それでも、心配くらいはしてくれるだろうか?


解熱剤を飲んだ後、愛美はまたベッドに横になり眠っていた。
熱のせいで体がだるく寝たり起きたりを繰り返し、悲しかったかつての恋の記憶が浅い眠りの中で蘇る。
何も言わずいなくなってしまった恋人を、泣きながら待ち続けている夢。
約束の時間になっても待ち合わせ場所に現れない恋人を何時間も待っていると、恋人が親友とイチャつきながら楽しそうに目の前を横切って行く夢。
何度もデートの約束をドタキャンされた事について理由を尋ねると、激情した恋人に何度も殴られ乱暴に犯される夢。
目が覚めると決まって涙を流していた。
うなされながら夢から覚めるたびに、もう過去の事だと安堵する反面、信じた人にまた裏切られる事への恐怖がわき上がる。
もう眠るのも怖くなって、愛美はぼんやりとした頭で寝返りを打つ。

 (なんか疲れちゃったな……。これじゃあ全然休まらない……)

カーテンをめくってみると、窓の外はいつの間にか真っ暗だった。
暗い部屋の中、蛍光塗料で浮かび上がった壁時計の針は8時15分を指している。
起き上がるのがだるくて、部屋の明かりを灯すのも面倒だ。

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