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第一種接近遭遇 セージの場合
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これは、悠久の時が流れる高き空、天で神に仕える天使たちのお話。
天使とは、人よりも高い精神周波数をもつ、言わば精神体で、その肉体は擬似たんぱく質からなる。
その美しい姿は美しい心の現われ。
恐ろしい顔の天使は、悪を許さぬ精神が具現化したもの。
彼等の仕事は神に従事する崇高なもの。
だが、軽口を言ったり、恋をしたりと、なんら人と変わりはない。
何故ならば、人が天使の模倣だからだ。
人と違うのは、悠久の時を生きられる存在でありながら、精神体という不確かなものであること。その危うさは、他に類をみないものである。
第一種接近遭遇 セージの場合
能天使セージには、少し困った恋人がいた。
彼はその恋人のことが心配で、片時も頭から離れることがない。
今日とて、ふと騒ぎの中心を見れば、そこに恋人の姿があった。
(何やってんだ……!)
セージは焦る。
すぐにでも駆け出したかったが、躊躇う状況だった。恋人のすぐそばには、天で一等美しいといわれる智天使長官の姿があったからだ。彼は今の天で唯一の智天使で、稀有な存在だった。誰もが恐れ多くて近寄ることができない。だが、セージの恋人はその恐れを知らなかった。
セージは心うちで絶叫しながら、その一歩を踏み出した。
「すみません! こいつが何か失礼を?」
セージは小さな恋人を背後から抱えるようにして、智天使長官から少し遠ざけた。
智天使長官は少し驚いたようで、わずかな間の後、優しく微笑んで言った。
「いいえ。失礼など受けてはおりません」
その甘美ともいえる微笑にセージは目を奪われる。
何も返せずにいると、彼はゆっくりと去って行った。
セージはその後ろ姿にも見とれて、しばらく見送ってしまう。そんな惚けたセージに小さな天使は声をかける。
「セージ?」
「……マーシュ、おまえ、何やったんだ?」
「えっとね、どうしてお髪が黒いんですかって、きいたの」
セージはその答えに、マーシュを抱えたまま後ろに倒れそうになる。
智天使長官は天使でありながら、その髪はつややかな黒髪だった。最初こそ、堕天使なのではないかと噂が流れたが、今では誰もがその容姿を讃える。彼の生い立ちを知れば、それは納得のいくもので、もはや疑問に思うものなど誰もいはしなかったのだが、ここに無知の天使がいた。
「『僕は、元は人だったから黒いんです』って言ってた! 人だったんだって! すごいねぇ!」
マーシュは腕の中で、興奮したようにはしゃぐ。
「おまえ、あんまりオソロシイことしてくれるなよ……」
「? オソロシクなんかなかったよ? キレイですねって言ったら、ありがとうって」
マーシュの言葉にセージはうなだれる。
「あの人は智天使の長官で、七大天使に次ぐえらい天使なんだぞ!」
「……へえぇぇ」
この様子だと、七大天使が何たるかも、智天使長官がどれだけの地位ある天使なのかも知らなさそうだとセージは思った。
「おまえ、理解ってるのか? 智天使は上級三隊の内の熾天使に次ぐ天使で、」
「それくらい知ってるもん! でも、何でえらいの?」
「何でって……」
説明していたら、日が暮れる。
結局、マーシュは何も知らないに等しいことが分かった。
「まあいい……もう休憩だろ? どこ行く?」
「図書施設でレポートの資料、みつくろわなくちゃ……」
そこでマーシュは表情を暗くする。
図書施設はすぐそこだ。
「分かったよ……つき合うから」
「いいのに、別に」
「高いところの本、取れるのか?」
「そういう時は、飛べばいいんだよ」
「……恥ずかしいやつ」
「いいんだもん!」
セージはマーシュを腕から開放して、今度は手をつなぐ。
すぐに並ぶ本棚を前に資料をみつくろいに入った。
マーシュは落ちこぼれの天使だ。
天使は神の息吹から生まれる。その多くが熾天使という六翼の最上級天使で、神を讃える詩を歌っては消えていく。その中にまれに二翼の天使が生まれる。二翼の天使は教育を受けて最下級天使から大天使や能天使へと成長し、各々天の仕事をこなすようになる。セージやマーシュもその一天使だ。だが、マーシュは天の教育機関のアカデミーを卒業できたものの、大天使の資格すらとれなかった、前代未聞の天使だった。そういった天使は本来なら最初にはじかれ、最下級天使として、下の方の天で守護天使として働くのが常なのだが、何の間違いか、マーシュはアカデミーに入り、教育をうけたものの落ちこぼれとして卒業した。今はなんとか大天使の資格だけでも取ろうと、特別な処置としてレポートの提出を上から命じられている。
「テーマは決めたのか?」
「うんとね、お星さま」
「星ィ?」
「キレイでしょ。だから」
(だからって……)
マーシュの意思は尊重したいと思う。思うが、セージは口を出さずにはいられない。
「星はやめとけ」
「え、なんで?」
「どんだけのもん書く気なんだ? ひとつの星のこと書いたって認めてくれるわけないだろ? 宿題じゃないんだから。かといって、全部の星を調べるなんて無理だろ?」
「……うーん。じゃあ、どうしよう」
もともとあまり考えられる頭をもっていないマーシュは、あっさりと星をテーマにした課題をあきらめる。
マーシュにできるもので、合格点がもらえるような題材をセージも一緒になって考える。
ふと、視線をあげれば図書施設前の広場を行き交うたくさんの天使の姿が見えた。書類を抱えて歩く天使に、話しながら横断していく者、立ち止まっている者に、水瓶を運ぶ者。それぞれが違う仕事をしている。
セージは閃いた。
「そうだ。大天使の仕事の調査にしたらどうだ?」
「何それ」
「大天使は役割を分担して、色んな仕事をするだろ? 雑務から研究まで。大天使にどんな仕事をしてるのか聞いて回るんだ。そうしたら人脈もできるし、自分がやりたいって思う仕事も見つかるかもしれないだろ?」
「おおっ」
「本も読まなくていい! マーシュでも立派なレポートができるんじゃないか?」
「おおおっ」
マーシュは目を大きくしてセージの案に賛同する。
セージも我ながらいいアイディアだと思った。平気で智天使長官に話しかけられるあつかましさを持った、マーシュにしかできないものだ。
「それでいいか訊いてくる!」
そう言うなり、マーシュはぴゅーっと風のように走っていく。
向かうは人事を統括している主天使のカウンター。広場を挟んだ東側だ。
セージも後を追う。
そこには先ほど会った智天使長官の姿もあった。
マーシュはカウンターに手をのせて「すみませーん」と呼んでいる。
「はあい。何ですか?」
カウンターの上からマーシュを覗き込むように、主天使のひとりが声をかける。主天使は二翼の天使の中では最上級だ。頭が良くなくてはなれない主天使は、ちょっとすましたインテリっぽい天使が多い。だが、この受付担当の天使はおっとりとした男性だった。
「レポートのことで訊きたいことが」
「うん。何だろ?」
「テーマを大天使のお仕事にしてもいいですか?」
「面白そうだね。まってね。長官にきいてみよう」
その長官はすぐ隣で智天使の長官と話をしていた。
受付担当が長官を呼ぶと、彼はすぐに言う。
「かまわない。期待している」
どうやら、マーシュの話をきいていたようで、智天使長官もにこにことマーシュを見ていた。
「それでいいそうですよ。頑張って下さいね」
「はい! 頑張ります!」
マーシュはカウンターから離れると、セージを振り返った。
「いいって! セージ、ありがとう!」
満面の笑みで言う。
「言うは易し、行うは難しだから、頑張れよ」
「うんっ」
マーシュは思いっきりうなずいた。
「よーし、レポート用紙、取ってくる! じゃあね、セージ。またねっ」
マーシュは言うなり走り出す。
「ああ。転ぶなよ」
「うんっ」
セージはマーシュを見送る。
「かわいい子だね。レポートって何? 学生じゃないの?」
智天使長官が主天使の長官にきいていた。
セージと話した時とは違う、くだけた口調だった。
「あれはアカデミーを卒業したんだが、大天使の資格もとれなかったんだ」
「え、じゃあ、今フリーなの?」
「そうだな」
「じゃあ、僕んとこによこしてよ」
「お前にあれを構う時間があるのか?」
「え? いや、まあ、それは……」
二人の会話にセージは驚く。もしかして、智天使長官はマーシュに気があるのではないかと。
智天使長官はマーシュと同じ中性の天使だが、元は人間で男。好意を寄せたとしてもおかしくはない。
「あ、あのっ。マーシュがあなたの元に行くことになったら、きっとご迷惑になるかと」
急に話しに入ってきたセージに少し驚いたのか、彼は先程と同様に少し目を大きくする。リアクションがゆっくりで、優雅ともいえるようなものだ。
「迷惑なんてことはありませんよ」
彼はにっこりと微笑んで言う。
横で主天使の長官が嫌そうな顔する。
「どうして、そんなにあの子のことを問題児のように言うのですか?」
「え、っと、それは……」
あまりマーシュのことを悪く言いたくはない。おちこぼれだとか、頭が悪いとか、そんなことは思ってはいない。そのジレンマにセージは口ごもる。
「大天使になれなかったのは前代未聞のうえに、雑用を頼めば失敗ばかりだからな。そう言いたいんだろ」
セージの代わりに主天使長官が答えた。
「そうなの。でも、僕はあの子に雑用をやらせようとして言ったのではないのですよ」
彼はやはりにっこりと笑って言う。
だが、だとしたら、一体なんのために「寄こして」などと言ったのか。ますます、彼がマーシュを気に入ったとしか思えない。
「では、なぜ…?」
「あの子とお話をしたら、癒されそうな気がしたから」
智天使長官はおっとりと言う。
この優美な長官でも、疲労とかストレスがあるのだろうか。セージは少し驚く。
「ケルビム、そろそろ……」
智天使長官のそばにいた世話役の天使が言った。ケルビムとは智天使のことだ。ただ一人しかいない現在、それは長官のことを指す。
「あ、休憩中だったね。長官、ごめん。また今度」
「話、聞くだけならな」
ケルビム長官は優雅な足取りでカフェの方へと歩いていった。
「俺も休憩にする。副官、留守を頼む」
「はい。ごゆっくりどうぞ」
主天使長官も奥に消え、セージが残された。
「セージさん、でしたっけ?」
単なる受付係りだと思っていた主天使の副官が話しかける。
「マーシュさんの課題のこと、大天使の皆さんに周知した方がいいと思うんです。こちらでハンコ押しますから、申請して下さい」
確かに、いきなり何も知らされてないでマーシュが調査を始めたら訝しがる天使もいるかもしれない。
「わかりました。ありがとうございます」
「いえいえ。僕もマーシュさんのファンですから」
にっこり笑う彼に頭を下げて、セージはそこを去った。
(マーシュにファンがいたとは……)
セージは密かに驚く。
初めて会った頃のマーシュは、まるで死の天使のようにどよーんと暗く、まったくしゃべらなかった。誰もがその存在を無視し続けてきたというのに。
***
マーシュに初めて会ったのは、セージがアカデミーの授業で剣術の指導を受け持った日だった。
マーシュはどこか虚ろで、ぼけーっと一番後ろでただ突っ立っていた。
気になった。何故、指揮を執っている教官は注意しないのか。それとも、注意したのにもかかわらず、改めないのか。確かめたくて、セージはマーシュに近づいた。
「どうしたんだ? 気分が悪いのか?」
とりあえず、そう訊いた。
マーシュは鈍い動きで、こちらを向き、じっとセージの顔を見た。
返事がないので、セージはもう一度訊く。
「気分が悪いのか?」
今度は首を横に振った。言葉は無い。
(だったらなんでぼーっとしてるんだ)
少し苛立ちを感じる。
それを感じ取ってか、マーシュはふいっと視線を外し、うつむいてしまう。
見たら、マーシュの持っている剣はロングソードで、とても中性の天使が持てるものではなかった。力なく、床に刺さっている。
セージはそれを取り上げ、マーシュの手を引いた。向かうは武器庫。何故、あんな風に突っ立っていたのか分からないが、こんな自分に合っていない剣で授業を受けろと言っても無理なことは明らかだった。
武器庫の鍵を開けて、その重い扉を開く。
「お前にはもっと軽いのが……」
中に入って軽い剣を探した。ロングソードを適当に戻して、細身の剣を見繕う。
ガードの装飾が繊細なレイピアを手に取る。
「持ってみろ」
そう言って、その剣を手渡した。
その剣よりも少し重いものをもう一本選ぶ。
「こっちは?」とそれも持たせる。
「どっちがいい?」
そう訊くと、少し考えたのか数秒してから重い方の剣を示した。
「それがお前の」
そう言うと、マーシュはぼーっとセージを見た後、今度は選んだ剣を眺めた。
セージはこの時気がついた。マーシュがアカデミーの生徒には相応しくないことを。教官が注意しないのも、合わない剣を持っていたのも全部理解した。最下級天使は口が悪い。軽い悪口や噂話が好きだ。マーシュがクラスから弾かれていることは容易に想像できた。
それでも自分なりに授業を受けようと、サボることなく、いや、サボることを知らないのだろう。だからつらくても、その場にいなくてはならなかった。自分で剣を選んで、参加していたのだ。
その後もセージはマーシュを構った。
初めてマーシュの声を聞いたのは、マーシュの手に水ぶくれができた時、手当てをしたら小さい声で「ありがとう」とぽつり、こぼすように言った。はじめの頃は不思議そうな顔をしていたマーシュも少しずつ打ち解けるようになり、笑顔も見せるようになった。
マーシュはどの天使よりも純粋で、周りの無関心にも心を砕かれることなく必死に生きていた。
初めてマーシュのはにかんだような笑顔を見た時、この天使を守りたいと思った。
そして、愛しいと、想うようになった。
***
マーシュは、早速レポート用紙を手に、広場に戻ってきていた。
広場は変わらず、多くの天使が行き交っている。
マーシュは誰から声をかけたものか、逡巡した。
が、思い切って、近くを通った天使に話しかけた。
「すみませんっ」
「はい、なんですか?」
その中性の天使は足を止め、マーシュを見た。
「あの、あなたのお仕事についてお聞きしたいのですが」
「あら、なんの調査かしら?」
「えっと、大天使のお仕事をテーマにしたレポートを作ってます」
「そうなの。私のお仕事は、このシーツを上級天使様のお部屋に持っていって、ベッドメイクをすることなの。ここでの上級天使様っていうのはね、長官とか副官のことね」
マーシュはうんうんとうなずきながら、メモをとる。
「でも、このシーツ、布だから軽いと思うでしょ? でも、重いのよ。それをリネン庫からお部屋まで運ぶの。けっこうな距離なのよ。ゲートリングがあれば楽なのに……台車じゃ階段が大変でしょ? だから手で運んでるんだけど、そんなにいっぱい持てないから、一日に何往復もして、意外と大変なのに、まわりは簡単な仕事って思ってるわけ。ちょっとやるせないでしょ?」
ふんふん、とマーシュはうなずく。気分はまるで新聞記者のような感じだ。
「あっ、後半は書いちゃだめよ」
「後半は書いちゃだめっと」
丁寧にそれもメモする。
「じゃあね、頑張ってね~」
「ありがとうございましたっ」
最初の一人はすっきりしたような顔で去って行った。
マーシュはこれでいいのかなと思いつつ、次に聞く人を探す。
また、近くを通った天使に声を掛けた。
「すみませんっ」
その天使は長いウェーブ髪で、ちょっといい服を着ていた。先程の大天使よりもパニエがたくさん入ってそうで、ワンピースのスカート部分が膨らんでいた。
「はい」
その天使も立ち止まってくれた。
「あのっ、あなたのお仕事はどんなお仕事ですか?」
「わたしの?」
訊かれた天使は、やはり不思議そうな顔をする。
「何かの調査をなさっているのですね?」
「はい。だめですか?」
「いいえ、駄目ではありませんよ」
彼はふふっと笑って言う。
「私のお仕事は、傷ついた人を治すのがお仕事です」
「! 魔法が使えるんですか?」
「はい」
「わーっ、すごい。いいなぁ」
魔法が使える天使というのは、意外と少ない。
マーシュは羨望のまなざしを、その天使に向ける。
魔法が使えるというのは多くの天使の憧れだ。使える魔法にもよるが、能天使や力天使といった中級の天使になれる。それは、神に近づくという意味でもある。逆に言えば、高い精神性をもっているからこそ、魔法が使えると言える。
「できるだけたくさんの人が救えるように、私たちは日々、自分の精神性を高め、より高度な魔法が使えるように勉強しているんです」
「はあぁ、お勉強もお仕事なんですか」
「はい。そうですよ」
マーシュは返す言葉が出てこなかった。
(お勉強が、お仕事……)
そんなのはアカデミーにいる間だけだと思っていた。
「では、私はこれで。あなたもお仕事、頑張って下さいね」
にっこりと優しそうな笑みを浮かべてその天使はその場から離れていった。
(いいな……僕も、魔法が使えたらいいのに)
マーシュは髪に手をやる。
肩にも届かない、ボブスタイルの短い髪だ。
髪の長さは精神の許容量を表す。
短い髪では魔法が使えたとしても、たった一回で自分自身を削ることになる。大規模な魔法や、高エネルギーのものは当然使えない。
つまり、今のマーシュでは、到底魔法が使えないということだ。
(勉強したら、使えるようになるのかな……?)
そう考えても、自分があの天使のようになれるとは少しも思えない。
マーシュには自信が少しもない。
毎日毎日、自分はこの天に必要とされているのかと疑問に思ってばかり。神様がちょっと間違って創ってしまった、バグなのではないかと不安になる。
マーシュは手を見て、いつか自分が間違った存在だからと消されてしまうのではないかと思う。
(怖い……)
「うつむいて、どうかしたのですか? マーシュ?」
呼ばれてマーシュは慌てて頭を上げる。
そこには心配そうな顔をしたケルビム長官がいた。
驚いて、とっさに声が出ない。
「大丈夫ですか? なにか、ありましたか?」
マーシュはとにかく頭を横に振った。
「僕が、怖いですか?」
しゃべらないマーシュに、ケルビムはそう問いかけてきた。
マーシュはさらに頭を振る。
「少し休憩しませんか? さっきの休憩時間であまり休んでいないのでしょう?」
「でも……」
「じゃあ、こうしましょう。僕の世話役は大天使なんです。彼の話を聞きませんか?」
「あ……」
顔を上げると、ケルビムが微笑んでいた。
「ね?」
ケルビムはマーシュの手をとる。
逃がしませんよ、と言わんばかりに。
そのまま、手を引かれてマーシュは歩き出す。
そして、そのまま広場を横切ってゆるやかなカーブを描く階段をのぼり、ケルビムの執務室へと通された。
たくさん刺繍のほどこされた布張りのソファーに座らせられる。
世話役の天使は、持っていた書類を執務机にのせると、マーシュの向かいに座った。
彼は、マーシュよりも少し背が高い程度で、分化した天使とくらべると小さい。髪はマーシュよりも短く、どこかクールな印象だった。
「マーシュは紅茶にミルクと砂糖を入れる?」
奥でケルビムがそう訊ねた。
マーシュはこくこくと首を縦に振る。
ほどなくして、ケルビムがお茶を運んできた。
「どうぞ」
たっぷりミルクの入った紅茶がマーシュの前に置かれる。甘い香りが、マーシュの目を輝かせる。
そして、彼もマーシュの向かいに座る。
そっとカップを持って、口に運ぶ。
「おいしい」
「お口にあって、よかった」
ケルビムはにっこりと笑って、心底よかったというように言った。
「あ、いただきますを言うの、忘れた……」
「構いませんよ。マーシュは僕のお友達なのですから」
「友達、ですか?」
「違いましたか?」
マーシュは首を横に振る。
嬉しくて、赤面し、それを隠すためにうつむいた。
カップをソーサーに戻して、ごまかすようにレポート用紙とペンを手にした。
「あの、どんなお仕事なのか、教えて下さい」
「はい。僕の仕事はケルビムのスケジュールの管理と事務補佐、雑用です。ケルビムが起きられたら、着替えを手伝い、会議に間に合うように、書類をそろえます」
「お着替えを手伝んですか?」
「はい。ケルビムは放っておくと、適当な服を着るので、コーディネイトを含めて僕がお手伝いをします」
「そんな、細かくなくていいんじゃないの?」
横からケルビムが苦々しい顔をして口を挟む。
「あとは、そうですね……ケルビムはよく居留守を使うので、訪問者に言い訳をするのも僕の仕事です」
「……訪問者の取次ぎって言いなよ」
「取り次いでないですから」
「これは、書かない方がいいですか?」
「書いて下さい」と「書かなくていいよ」の声が重なる。
マーシュはどうしたらいいのかわからなくて、二人を交互に見比べた。
「ほら、マーシュが困ってるじゃない」
「じゃあ、マーシュさんに任せます」
「……僕に任せる……」
そうレポート用紙に書く。
「あとは、ケルビムの健康管理ってところでしょうか」
「健康、管理……」と書き込む。
「マーシュ、お菓子もどうぞ」
ケルビムがマドレーヌののった皿をマーシュの方へ寄せる。
「ありがとうございます」
そう言って、そろりと手をのばす。
しっとりとしたマドレーヌは、ほどよい甘さであっという間にひとつを食べ終えてしまった。
ケルビムはその様子をにこにこと微笑んで見守っていた。
マーシュはちょっと恥ずかしくなる。うつむいて、熱くなった耳が冷めるのを待った。
視界に入るのは、ケルビムの膝で組まれた細い指と、濃紺のビロードのローブ。そして、長い黒髪。
ふと思いついて、マーシュは顔を上げる。
「ケルビムは、魔法を使えますか?」
一瞬、ケルビムは不思議そうな顔をするが、すぐに目を細めて答えた。
「はい。使えますよ」
「お勉強をしたら、使えるようになりますか?」
「そうですね。たくさんお勉強をすれば、使えるようになるかもしれません」
「ケルビムは、たくさんお勉強をしたんですか?」
その質問にケルビムは答えるのを迷う。
「そう、ですね……たくさんの本を読みました」
「本を読む……」
マーシュは本を読むのが遅い。簡単な言葉しか知らないので、文章を理解するのも苦手だった。
「マーシュは、魔法が使えるようになりたいのですか?」
マーシュはうなずく。
「魔法が使えたら、僕はいらない天使じゃないって、思えるような、気が、して……」
手が震える。
「いらない天使なんて、いませんよ」
「でも! 僕は、何もできないからっ」
ケルビムは優しい視線をマーシュに送る。
「じゃあ、マーシュ。僕が、魔法を教えましょうか?」
「……え?」
「これでも、魔法学の特別講師をしているんですよ」
にっこりと笑って言うケルビムの言葉にマーシュは驚いて、口を「え」と発した形のまま閉じることができない。
「でも、マーシュ。覚えておいて。マーシュは決して、いらない天使ではないということを」
「で、でも……証拠が、ない、し……」
「証拠が欲しいですか?」
「だって、僕は、頭も、よくないし、きっと、魔法を教わっても、使えるようにはならないと、思うから……」
ケルビムは眉をわずかによせ、哀れみと憤りが混じったような目をしてマーシュを見つめる。
「魔法が使えない天使はたくさんいます。そのすべての天使が、いらない存在だと思いますか?」
「違いますっ」
「僕の世話役の彼は、マーシュよりも髪が短い。分化もしていない。力もない」
マーシュは、はっとして、彼を見た。彼も、マーシュを見ていた。
「その能力はマーシュとほとんど変わらないでしょう。仕事はできるかもしれませんが、愛想もありません」
「僕は、仕事もちゃんとできない……」
「でも、マーシュには愛想があるでしょう?」
「愛想が、あったって……」
「マーシュは、愛想があるよりも、仕事のできる方が、価値があると思っているのですね?」
「そうじゃ、ないんですか?」
「確かに、仕事ができないよりは、できた方がいい。でも、愛想だって、ないよりはあった方がいい。そういうものでしょう? 個々の能力に優劣などないのですよ」
そう、笑って言われても、マーシュはうなずくことができない。
「納得がいきませんか?」
マーシュはうなずく。
「……じゃあ、僕の世話役になりますか? マーシュが世話役だったら、きっと僕は毎日好きな服を着れて、がみがみ怒られることもなく、楽しく毎日を過ごすことができるでしょうね」
マーシュはその言葉をついつい本気でとらえる。期待と嬉しさが、こみあげてきて表情を明るくする。が「というのは、まあ、冗談ですが」の科白にがっかりする。
「例えば、僕が服もちゃんと着れて、仕事もサボらずに全部きちんとできる人だったら、世話役は必要でしょうか? ましてや、こんな無愛想な天使」
「そ、れは……」
必要ない、かもしれない。と思う。でも、かといって、愛想だけあってもその必要性のなさはぬぐえない。そんなようなことをぼんやりとマーシュは思う。
ケルビムが立ち上がって、マーシュの横に座る。
「マーシュ、笑って」
ケルビムの両手が、優しくマーシュの顔を包む。
「マーシュが笑ってる顔を見ると、僕は幸せな気分になるから。ね?」
それでも、なかなかマーシュが笑えずにいると、ケルビムはもう一押しとばかりに言う。
「お菓子も、もっと食べて」
「……お菓子……」
マーシュはにわかに頬がゆるむのを止められない。
そして、マドレーヌに手をのばした。
うっかり、お菓子の魅力に負けて、気分が良くなったマーシュに、それまでにこにこと微笑をたたえてお菓子を食べる様子を見ていたケルビムが声をかける。
「魔法はやっぱり覚えたいですか?」
「ん……」
マーシュは答えに迷う。
「お勉強することは、いいことです。たとえ、魔法が覚えられなくても、無駄ではありませんよ」
「……教えて、くれますか?」
「はい。喜んで。……と言っても、そんなにたくさん時間をつくることはできないのだけど。それでもいいですか?」
マーシュはこくこくと二回、うなずいた。
「じゃあ、土曜日は?」
マーシュはうなずく。何も予定は入っていない。
「ケルビム、土曜日は休日ですよ」
この天では、一週間のうち土曜日だけが安息日。日曜日から仕事が始まる。
「え? だめ?」
「予定は入ってませんが……」
ケルビムの場合、勉強は趣味のようなものであり、仕事のうちには入らない。
「土曜日に勉強したのでは、マーシュさんが疲れてしまうのでは?」
「あ」
そのことに気がついたケルビムは難しい顔をする。
「あー、じゃあ……水曜日の午前とかは?」
「起きていられるんですか?」
「えー……」
マーシュはこう考えた。ケルビムは火曜日がものすごく忙しくて、水曜日の午前中はいつも寝坊しているのではないかと。
他の階級の天使はシフト制の能天使を除き、毎日決まった時間で働いている。だが、ケルビムは一緒に仕事をする天使が他にいないので、会議出席や書類の提出期限さえ守っていれば、比較的自由に時間を使えた。しかし、一人しかいないということは、その仕事量は膨大といえる。
「僕、土曜日でいいです」
マーシュは言う。
その言葉にケルビムは甘えることになった。
***
金曜日の午後。太陽が十二番目の門をくぐり、月が一番目の門をくぐろうとしている時、セージはマーシュと一緒に部屋にいた。
「レポート、見せてみろよ」
ベッドの上であぐらをかいて座り、マーシュからここ五日間の成果を預かる。
マーシュもセージの前で正座をして、緊張した面持ちで評価を待つ。
「お前、これ、大天使じゃないのも混じってるじゃんか……」
どう考えても大天使の仕事とは思えぬ記述を見つけた。マーシュは「え? そう?」などと本気でとぼけているかのように言う。
「傷ついた人を治すって、力天使の仕事だろ」
「……そうなの?」
「そうだ」
階級そのものは知っていても、それぞれがどんな役割を果たすのかまでは知らないらしい。
「せっかく訊いたのに」
もったいないという意味だろう。
「最初に大天使かどうか訊いてから、教えてもらわないと……」
「うん」
「あとは、研究関係の仕事が訊けたらいいな。研究所には、文書でアンケートとった方がいいかもな」
「うん。そうする」
「あと少しだ。頑張れよ」
「うんっ」
セージはマーシュの頭をなでる。
マーシュははにかんだ笑顔で応えた。
「明日、どうする? どっか行くか?」
明日は土曜日だ。
「明日は、ケルビムとお勉強をするの」
マーシュの言葉にセージは耳を疑う。
「は? なんだって?」
「ケルビムが、お勉強を教えてくれるの」
「なんで」
「魔法を、使えるようになりたいから……」
「はぁ? 魔法?」
魔法を教わっても、マーシュが使えるようになるとは、到底思えなかった。
マーシュはもじもじしている。少し、恥ずかしいらしい。
それにしても、ケルビムとは、とんでもない先生だ。
セージははっとする。その勉強会がよもや一回かぎりなんてことがないということに気がつく。たった一回で魔法が使えるようになれば苦労しない。
「まさか、来週もか?」
「ケルビムは、平日はとっても忙しそうで、土曜日しか……」
それはそうだろう。そうだろうが、それではセージがマーシュと一緒に過ごす時間が少なくなる。
「じゃあ、何か? マーシュが魔法を覚えるまで、俺とは遊べないってことか?」
「そ、そんなこと、ないと思う。一日中ってことは……」
「それは何年続くんだ?」
発した声は、怒りとあきれが混ざったようなものだった。
「な、ん、ねん……」
マーシュはうつむいてしまう。何年たっても魔法が使えるようになるとは、マーシュ自身も思っていないからだ。
セージはため息をついてしまう。
ここは応援しなくてはならないところだと、分かってはいるものの、あまりにも、マーシュに想われていないと感じてイライラする。
「俺が土曜日に休日とるの、難しいって知ってるよな?」
「ん……」
「マーシュは、俺と過ごすより、ケルビムと一緒の方がいいのか」
「っそ、そんなことっ、ない」
マーシュは今にも泣きそうだった。
「そんなことないって、だったらなんでそんな約束してくるんだ!」
「ごめ……」
セージはベッドから降りる。
「頭、冷やしてくる」
「セージ! ごめん、明日、断ってくるから!」
マーシュの叫ぶような声を背中で聞く。
(そんなのが聞きたいんじゃねぇんだよ!)
何も分かっていないマーシュに、よけいに腹が立つ。
セージはそのまま、部屋を出て行った。
ひとり残された部屋で、マーシュは声を殺して泣いていた。
とてつもない恐怖が、マーシュを包んで、胸をしめつける。
(セージに嫌われたら、僕は……っ)
生きてなどいけないのに。
マーシュは、そろりとベッドを降りる。
セージを探すために、痛む胸をおさえて、部屋を出た。
住居棟から外へ出る。夜の空気で冷えた石畳の上をはだしで歩く。ベッドから降りたとき、靴をはかなかった。
少し先に小さな聖堂がある。神様に会うことができる天使は少ない。そのために、この天にも祈りを捧げる聖堂がいくつかある。そこも、その一つだった。半球の屋根の、丸く白い建物で、入口に扉はなく、アーチ状に切りとられているだけ。
マーシュはそこから入る。
案の定、セージはそこにいた。
入口に背を向け、立っている。
「セージ……」
呼んでも、セージは応えない。
マーシュはもう少しだけ、彼に近づいた。
ぎゅうっと、自分の服をにぎりしめて。
「セージ、ごめんなさい」
いっそう、胸が痛む。
「あの、僕……魔法が、使えるようになりたかったの……」
やはり、セージは背を向けたまま、応えることはない。
「ひとりでも、勉強はできるもんね……」
それこそ、何年かかるか分からないけれど。
「甘えちゃ、だめ、だよね……」
やはり何も言わないセージが、怖かった。
「そ、それでね、もし、僕が魔法を使えるようになった、その時は――」
「もういいっ」
セージの大きな声に、マーシュは肩をびくっと震わせる。
「もういい。どうせ、俺が勝手に恋人にしたんだ。お前が俺のこと、何にも想ってないのなんか知ってた」
「違う! セージ、僕は!」
セージが好き。
その言葉をマーシュは飲み込んだ。
そんなことは、言えなかった。
おこがましい。
ずっと一緒にいたい。ずっと、守られて安寧とした日々を過ごしたら、それは幸せだろうと思う。でも、それを神様は許してくれるだろうか。何より、自分は、セージに相応しいとは思えない。
セージを恋い慕っている天使が、たくさんいることをマーシュは知っていた。努力して、彼に振り向いてもらおうと、己を磨いている天使がいることを。
それに比べて、自分は大天使にもなれなかった。
「セージ……」
涙があふれて、頬をぬらした。そのしずくが、床に落ちる。
(神様、どうか、セージを好きでいることを許してください)
どうか、と願って、マーシュはその場に倒れた。
いくつもの羽根が、マーシュの後を追って、床に落ちていく。
「マーシュ!?」
セージの驚愕の声が、聖堂に響いた。
あたたかいものが、じんわりと広がって、胸の痛みがやわらぐ。
「マーシュ!」
大好きな人の声が、自分を呼んでいるのだと、気がついた。
「っん……」
薄く、目をあける。
「マーシュ!」
「う…ん……、セージ……?」
その名を呼ぶだけで、マーシュの心は突き刺されたように痛んだ。涙がこぼれ、眉をよせる。
みしりと、妙な音がした。
そして、また、あたたかさとともに、痛みが薄れる。
目をあけて見れば、半分以上も手折られた翼があった。
「セージ!!」
びっくりして、マーシュは飛び起きた。
すぐに抱きしめられる。
「翼が……」
恐る恐る、背中の無残な翼に手をのばす。
痛々しくて、とても触れることはできない。
「マーシュ、悪かった」
「セージが、悪いことなんて、ない……」
「ごめん。マーシュ、愛してる」
どくんと、胸がはねた。
信じられない言葉を聞いて、止まったはずの涙がこぼれる。
セージの胸で、わあわあと泣いて、マーシュはいつの間にか眠りに落ちた。
***
土曜日、マーシュとセージは少し朝寝坊をしたが、いつもと変わらずに身支度を整え、部屋を出た。
手をつないで、図書施設前の広場にくる。
休日とはいえ、多くの天使がこの広場にいた。
「マジであの階段のぼるのか?」
広場に緩やかな曲線を描いて落ちている階段がある。その階段をのぼると、会議室や上級天使、長官、副官の執務室兼居室がある。この階段はつまり、えらい天使しか使わない。下級天使はふざけてたって、この階段はのぼれない。
「そうだよ。この階段をのぼって、右に行って、」
セージは生唾を飲む。
ひとりで何気ない顔をしてのぼれば、たいして注目をあびることはないだろう。だが、マーシュとふたりでのぼれば、目立つことこの上ないし、騒ぎになるかもしれない。
「おそろしい……」
「大丈夫だよ?」
やはり、マーシュの天然は健在で、平気な顔をしている。
「よし、マッハでのぼるぞ」
「へ?」
セージはマーシュを抱えると一気に階段をのぼりきり、壁に身を隠した。
マーシュを下ろして、こっそり、下の様子をのぞき見る。
騒ぎにはなっていなかった。
セージはほっと息をつく。
「よし、行くぞ」
「うん」
そして、ケルビムの部屋の前にたどりつく。
マーシュがコンコンと二回、ドアをノックする。
ほどなくして、扉が開き、世話役の天使が出迎えた。
「おはようございます。どうぞ、中へ」
中に入ると、すぐにまたドアがあり、驚く。変わった造りだった。
ふたつ目のドアをくぐると、正面に大きな机があり、案内されたのは右側の応接セットだった。
セージはかなり緊張する。
普通ならありえないことだ。上級天使の、しかも長官の部屋に招待されるというのは。
落ち着かずに、きょろきょろと部屋の調度品なんかを見てしまう。
隣にマーシュが座り、向かいにケルビムその人が、まるで絵画のごとく、優雅に座っていた。
世話役の天使が紅茶を運んでくる。
マーシュ、セージ、ケルビムの順にカップが置かれる。
「あなたは、確かセージさん」
「あ、はい」
ケルビムは不思議そうな顔をしながらも、何故とは訊かなかった。
「あの、勝手なんですが、マーシュの勉強のこと、今日だけにしていただきたくて……」
思い切って、セージは口にする。
ケルビムはいっそう不思議そうな顔をして、無言で訳を訊ねた。
「あの、俺達は、その、つきあっていて、それで……」
土曜日は一緒にいたいから、とはなかなか言えなかった。
だが、ケルビムは「ああ」とうなずいて、にっこりと笑った。
「お二人は恋人同士だったんですね」
「ごめんなさい。せっかくお勉強を教えて下さるって言ってくれたのに……」
「かまいません。気にしないで下さい。その気持ちは僕にだってわかりますよ」
ケルビムは害した様子もなく、にこにこと笑って言った。
世話役の天使が嫌そうな顔をする。
もしかしたら、スケジュールの調整が大変だったのかもしれない。
「本当にすみません」
セージも謝る。
「いいえ、僕の方こそ、マーシュに無理をさせるところでしたから」
どうぞ、と紅茶を勧められる。
「ありがとうございます。いただきます」
マーシュが笑って言い、セージも「いただきます」と続いて言った。
緊張でのどが渇いていたので、さっそく口をつける。良い香が広がって、セージは幾分か、落ち着きを取り戻した。
「それで、マーシュはどんな魔法が使えるようになりたいのですか?」
「えっと……怪我を治せる魔法……」
「ぶほっ」
セージはお茶を吹出してしまう。
(回復魔法なんて、一番難しい魔法を……)
ケルビムも一瞬、固まっているのをセージは見た。だが、流石は上級天使。寛大な心でマーシュの発言を受け止め、答えた。
「そうですか。でも、生憎、僕は回復魔法は苦手なんです」
「そうなんですか?」
「はい。回復魔法に限ったことではありませんが、特に適性が問われますね」
「マーシュ、最初はもっと簡単なのから学べ」
「簡単なのって?」
「明かりを灯す魔法とか、せめて防御魔法とか」
「そんないっぱい覚えられるかな……」
マーシュにはそんな危惧もあったらしい。うなずけなくもない。
「でも、ちょうどいいかもしれませんね。回復魔法なら力天使に教えてもらった方がいいから、許可をとって、毎日力天使の元に通ってお勉強すれば、土曜日は二人で一緒に過ごせますよ」
ケルビムの提案に、セージはおおっと感嘆する。
マーシュが回復魔法を使えるようになるとは、やはり思えないが、それでもいいと、いささか、天使にはあるまじき不謹慎なことを考えてしまう。
「そうしろ! マーシュ!」
「うん!」
お互い向き合って、意気投合する。
「では、今日は力天使について、お勉強しましょう。回復魔法が使えれば、難しい試験がありますが、でも、必ずと言っていいほど力天使になることができます。力天使の意味するところは“高潔”――」
そうして、土曜日をふたりでケルビムの講義を聴くという有意義な時間を過ごした。
天使とは、人よりも高い精神周波数をもつ、言わば精神体で、その肉体は擬似たんぱく質からなる。
その美しい姿は美しい心の現われ。
恐ろしい顔の天使は、悪を許さぬ精神が具現化したもの。
彼等の仕事は神に従事する崇高なもの。
だが、軽口を言ったり、恋をしたりと、なんら人と変わりはない。
何故ならば、人が天使の模倣だからだ。
人と違うのは、悠久の時を生きられる存在でありながら、精神体という不確かなものであること。その危うさは、他に類をみないものである。
第一種接近遭遇 セージの場合
能天使セージには、少し困った恋人がいた。
彼はその恋人のことが心配で、片時も頭から離れることがない。
今日とて、ふと騒ぎの中心を見れば、そこに恋人の姿があった。
(何やってんだ……!)
セージは焦る。
すぐにでも駆け出したかったが、躊躇う状況だった。恋人のすぐそばには、天で一等美しいといわれる智天使長官の姿があったからだ。彼は今の天で唯一の智天使で、稀有な存在だった。誰もが恐れ多くて近寄ることができない。だが、セージの恋人はその恐れを知らなかった。
セージは心うちで絶叫しながら、その一歩を踏み出した。
「すみません! こいつが何か失礼を?」
セージは小さな恋人を背後から抱えるようにして、智天使長官から少し遠ざけた。
智天使長官は少し驚いたようで、わずかな間の後、優しく微笑んで言った。
「いいえ。失礼など受けてはおりません」
その甘美ともいえる微笑にセージは目を奪われる。
何も返せずにいると、彼はゆっくりと去って行った。
セージはその後ろ姿にも見とれて、しばらく見送ってしまう。そんな惚けたセージに小さな天使は声をかける。
「セージ?」
「……マーシュ、おまえ、何やったんだ?」
「えっとね、どうしてお髪が黒いんですかって、きいたの」
セージはその答えに、マーシュを抱えたまま後ろに倒れそうになる。
智天使長官は天使でありながら、その髪はつややかな黒髪だった。最初こそ、堕天使なのではないかと噂が流れたが、今では誰もがその容姿を讃える。彼の生い立ちを知れば、それは納得のいくもので、もはや疑問に思うものなど誰もいはしなかったのだが、ここに無知の天使がいた。
「『僕は、元は人だったから黒いんです』って言ってた! 人だったんだって! すごいねぇ!」
マーシュは腕の中で、興奮したようにはしゃぐ。
「おまえ、あんまりオソロシイことしてくれるなよ……」
「? オソロシクなんかなかったよ? キレイですねって言ったら、ありがとうって」
マーシュの言葉にセージはうなだれる。
「あの人は智天使の長官で、七大天使に次ぐえらい天使なんだぞ!」
「……へえぇぇ」
この様子だと、七大天使が何たるかも、智天使長官がどれだけの地位ある天使なのかも知らなさそうだとセージは思った。
「おまえ、理解ってるのか? 智天使は上級三隊の内の熾天使に次ぐ天使で、」
「それくらい知ってるもん! でも、何でえらいの?」
「何でって……」
説明していたら、日が暮れる。
結局、マーシュは何も知らないに等しいことが分かった。
「まあいい……もう休憩だろ? どこ行く?」
「図書施設でレポートの資料、みつくろわなくちゃ……」
そこでマーシュは表情を暗くする。
図書施設はすぐそこだ。
「分かったよ……つき合うから」
「いいのに、別に」
「高いところの本、取れるのか?」
「そういう時は、飛べばいいんだよ」
「……恥ずかしいやつ」
「いいんだもん!」
セージはマーシュを腕から開放して、今度は手をつなぐ。
すぐに並ぶ本棚を前に資料をみつくろいに入った。
マーシュは落ちこぼれの天使だ。
天使は神の息吹から生まれる。その多くが熾天使という六翼の最上級天使で、神を讃える詩を歌っては消えていく。その中にまれに二翼の天使が生まれる。二翼の天使は教育を受けて最下級天使から大天使や能天使へと成長し、各々天の仕事をこなすようになる。セージやマーシュもその一天使だ。だが、マーシュは天の教育機関のアカデミーを卒業できたものの、大天使の資格すらとれなかった、前代未聞の天使だった。そういった天使は本来なら最初にはじかれ、最下級天使として、下の方の天で守護天使として働くのが常なのだが、何の間違いか、マーシュはアカデミーに入り、教育をうけたものの落ちこぼれとして卒業した。今はなんとか大天使の資格だけでも取ろうと、特別な処置としてレポートの提出を上から命じられている。
「テーマは決めたのか?」
「うんとね、お星さま」
「星ィ?」
「キレイでしょ。だから」
(だからって……)
マーシュの意思は尊重したいと思う。思うが、セージは口を出さずにはいられない。
「星はやめとけ」
「え、なんで?」
「どんだけのもん書く気なんだ? ひとつの星のこと書いたって認めてくれるわけないだろ? 宿題じゃないんだから。かといって、全部の星を調べるなんて無理だろ?」
「……うーん。じゃあ、どうしよう」
もともとあまり考えられる頭をもっていないマーシュは、あっさりと星をテーマにした課題をあきらめる。
マーシュにできるもので、合格点がもらえるような題材をセージも一緒になって考える。
ふと、視線をあげれば図書施設前の広場を行き交うたくさんの天使の姿が見えた。書類を抱えて歩く天使に、話しながら横断していく者、立ち止まっている者に、水瓶を運ぶ者。それぞれが違う仕事をしている。
セージは閃いた。
「そうだ。大天使の仕事の調査にしたらどうだ?」
「何それ」
「大天使は役割を分担して、色んな仕事をするだろ? 雑務から研究まで。大天使にどんな仕事をしてるのか聞いて回るんだ。そうしたら人脈もできるし、自分がやりたいって思う仕事も見つかるかもしれないだろ?」
「おおっ」
「本も読まなくていい! マーシュでも立派なレポートができるんじゃないか?」
「おおおっ」
マーシュは目を大きくしてセージの案に賛同する。
セージも我ながらいいアイディアだと思った。平気で智天使長官に話しかけられるあつかましさを持った、マーシュにしかできないものだ。
「それでいいか訊いてくる!」
そう言うなり、マーシュはぴゅーっと風のように走っていく。
向かうは人事を統括している主天使のカウンター。広場を挟んだ東側だ。
セージも後を追う。
そこには先ほど会った智天使長官の姿もあった。
マーシュはカウンターに手をのせて「すみませーん」と呼んでいる。
「はあい。何ですか?」
カウンターの上からマーシュを覗き込むように、主天使のひとりが声をかける。主天使は二翼の天使の中では最上級だ。頭が良くなくてはなれない主天使は、ちょっとすましたインテリっぽい天使が多い。だが、この受付担当の天使はおっとりとした男性だった。
「レポートのことで訊きたいことが」
「うん。何だろ?」
「テーマを大天使のお仕事にしてもいいですか?」
「面白そうだね。まってね。長官にきいてみよう」
その長官はすぐ隣で智天使の長官と話をしていた。
受付担当が長官を呼ぶと、彼はすぐに言う。
「かまわない。期待している」
どうやら、マーシュの話をきいていたようで、智天使長官もにこにことマーシュを見ていた。
「それでいいそうですよ。頑張って下さいね」
「はい! 頑張ります!」
マーシュはカウンターから離れると、セージを振り返った。
「いいって! セージ、ありがとう!」
満面の笑みで言う。
「言うは易し、行うは難しだから、頑張れよ」
「うんっ」
マーシュは思いっきりうなずいた。
「よーし、レポート用紙、取ってくる! じゃあね、セージ。またねっ」
マーシュは言うなり走り出す。
「ああ。転ぶなよ」
「うんっ」
セージはマーシュを見送る。
「かわいい子だね。レポートって何? 学生じゃないの?」
智天使長官が主天使の長官にきいていた。
セージと話した時とは違う、くだけた口調だった。
「あれはアカデミーを卒業したんだが、大天使の資格もとれなかったんだ」
「え、じゃあ、今フリーなの?」
「そうだな」
「じゃあ、僕んとこによこしてよ」
「お前にあれを構う時間があるのか?」
「え? いや、まあ、それは……」
二人の会話にセージは驚く。もしかして、智天使長官はマーシュに気があるのではないかと。
智天使長官はマーシュと同じ中性の天使だが、元は人間で男。好意を寄せたとしてもおかしくはない。
「あ、あのっ。マーシュがあなたの元に行くことになったら、きっとご迷惑になるかと」
急に話しに入ってきたセージに少し驚いたのか、彼は先程と同様に少し目を大きくする。リアクションがゆっくりで、優雅ともいえるようなものだ。
「迷惑なんてことはありませんよ」
彼はにっこりと微笑んで言う。
横で主天使の長官が嫌そうな顔する。
「どうして、そんなにあの子のことを問題児のように言うのですか?」
「え、っと、それは……」
あまりマーシュのことを悪く言いたくはない。おちこぼれだとか、頭が悪いとか、そんなことは思ってはいない。そのジレンマにセージは口ごもる。
「大天使になれなかったのは前代未聞のうえに、雑用を頼めば失敗ばかりだからな。そう言いたいんだろ」
セージの代わりに主天使長官が答えた。
「そうなの。でも、僕はあの子に雑用をやらせようとして言ったのではないのですよ」
彼はやはりにっこりと笑って言う。
だが、だとしたら、一体なんのために「寄こして」などと言ったのか。ますます、彼がマーシュを気に入ったとしか思えない。
「では、なぜ…?」
「あの子とお話をしたら、癒されそうな気がしたから」
智天使長官はおっとりと言う。
この優美な長官でも、疲労とかストレスがあるのだろうか。セージは少し驚く。
「ケルビム、そろそろ……」
智天使長官のそばにいた世話役の天使が言った。ケルビムとは智天使のことだ。ただ一人しかいない現在、それは長官のことを指す。
「あ、休憩中だったね。長官、ごめん。また今度」
「話、聞くだけならな」
ケルビム長官は優雅な足取りでカフェの方へと歩いていった。
「俺も休憩にする。副官、留守を頼む」
「はい。ごゆっくりどうぞ」
主天使長官も奥に消え、セージが残された。
「セージさん、でしたっけ?」
単なる受付係りだと思っていた主天使の副官が話しかける。
「マーシュさんの課題のこと、大天使の皆さんに周知した方がいいと思うんです。こちらでハンコ押しますから、申請して下さい」
確かに、いきなり何も知らされてないでマーシュが調査を始めたら訝しがる天使もいるかもしれない。
「わかりました。ありがとうございます」
「いえいえ。僕もマーシュさんのファンですから」
にっこり笑う彼に頭を下げて、セージはそこを去った。
(マーシュにファンがいたとは……)
セージは密かに驚く。
初めて会った頃のマーシュは、まるで死の天使のようにどよーんと暗く、まったくしゃべらなかった。誰もがその存在を無視し続けてきたというのに。
***
マーシュに初めて会ったのは、セージがアカデミーの授業で剣術の指導を受け持った日だった。
マーシュはどこか虚ろで、ぼけーっと一番後ろでただ突っ立っていた。
気になった。何故、指揮を執っている教官は注意しないのか。それとも、注意したのにもかかわらず、改めないのか。確かめたくて、セージはマーシュに近づいた。
「どうしたんだ? 気分が悪いのか?」
とりあえず、そう訊いた。
マーシュは鈍い動きで、こちらを向き、じっとセージの顔を見た。
返事がないので、セージはもう一度訊く。
「気分が悪いのか?」
今度は首を横に振った。言葉は無い。
(だったらなんでぼーっとしてるんだ)
少し苛立ちを感じる。
それを感じ取ってか、マーシュはふいっと視線を外し、うつむいてしまう。
見たら、マーシュの持っている剣はロングソードで、とても中性の天使が持てるものではなかった。力なく、床に刺さっている。
セージはそれを取り上げ、マーシュの手を引いた。向かうは武器庫。何故、あんな風に突っ立っていたのか分からないが、こんな自分に合っていない剣で授業を受けろと言っても無理なことは明らかだった。
武器庫の鍵を開けて、その重い扉を開く。
「お前にはもっと軽いのが……」
中に入って軽い剣を探した。ロングソードを適当に戻して、細身の剣を見繕う。
ガードの装飾が繊細なレイピアを手に取る。
「持ってみろ」
そう言って、その剣を手渡した。
その剣よりも少し重いものをもう一本選ぶ。
「こっちは?」とそれも持たせる。
「どっちがいい?」
そう訊くと、少し考えたのか数秒してから重い方の剣を示した。
「それがお前の」
そう言うと、マーシュはぼーっとセージを見た後、今度は選んだ剣を眺めた。
セージはこの時気がついた。マーシュがアカデミーの生徒には相応しくないことを。教官が注意しないのも、合わない剣を持っていたのも全部理解した。最下級天使は口が悪い。軽い悪口や噂話が好きだ。マーシュがクラスから弾かれていることは容易に想像できた。
それでも自分なりに授業を受けようと、サボることなく、いや、サボることを知らないのだろう。だからつらくても、その場にいなくてはならなかった。自分で剣を選んで、参加していたのだ。
その後もセージはマーシュを構った。
初めてマーシュの声を聞いたのは、マーシュの手に水ぶくれができた時、手当てをしたら小さい声で「ありがとう」とぽつり、こぼすように言った。はじめの頃は不思議そうな顔をしていたマーシュも少しずつ打ち解けるようになり、笑顔も見せるようになった。
マーシュはどの天使よりも純粋で、周りの無関心にも心を砕かれることなく必死に生きていた。
初めてマーシュのはにかんだような笑顔を見た時、この天使を守りたいと思った。
そして、愛しいと、想うようになった。
***
マーシュは、早速レポート用紙を手に、広場に戻ってきていた。
広場は変わらず、多くの天使が行き交っている。
マーシュは誰から声をかけたものか、逡巡した。
が、思い切って、近くを通った天使に話しかけた。
「すみませんっ」
「はい、なんですか?」
その中性の天使は足を止め、マーシュを見た。
「あの、あなたのお仕事についてお聞きしたいのですが」
「あら、なんの調査かしら?」
「えっと、大天使のお仕事をテーマにしたレポートを作ってます」
「そうなの。私のお仕事は、このシーツを上級天使様のお部屋に持っていって、ベッドメイクをすることなの。ここでの上級天使様っていうのはね、長官とか副官のことね」
マーシュはうんうんとうなずきながら、メモをとる。
「でも、このシーツ、布だから軽いと思うでしょ? でも、重いのよ。それをリネン庫からお部屋まで運ぶの。けっこうな距離なのよ。ゲートリングがあれば楽なのに……台車じゃ階段が大変でしょ? だから手で運んでるんだけど、そんなにいっぱい持てないから、一日に何往復もして、意外と大変なのに、まわりは簡単な仕事って思ってるわけ。ちょっとやるせないでしょ?」
ふんふん、とマーシュはうなずく。気分はまるで新聞記者のような感じだ。
「あっ、後半は書いちゃだめよ」
「後半は書いちゃだめっと」
丁寧にそれもメモする。
「じゃあね、頑張ってね~」
「ありがとうございましたっ」
最初の一人はすっきりしたような顔で去って行った。
マーシュはこれでいいのかなと思いつつ、次に聞く人を探す。
また、近くを通った天使に声を掛けた。
「すみませんっ」
その天使は長いウェーブ髪で、ちょっといい服を着ていた。先程の大天使よりもパニエがたくさん入ってそうで、ワンピースのスカート部分が膨らんでいた。
「はい」
その天使も立ち止まってくれた。
「あのっ、あなたのお仕事はどんなお仕事ですか?」
「わたしの?」
訊かれた天使は、やはり不思議そうな顔をする。
「何かの調査をなさっているのですね?」
「はい。だめですか?」
「いいえ、駄目ではありませんよ」
彼はふふっと笑って言う。
「私のお仕事は、傷ついた人を治すのがお仕事です」
「! 魔法が使えるんですか?」
「はい」
「わーっ、すごい。いいなぁ」
魔法が使える天使というのは、意外と少ない。
マーシュは羨望のまなざしを、その天使に向ける。
魔法が使えるというのは多くの天使の憧れだ。使える魔法にもよるが、能天使や力天使といった中級の天使になれる。それは、神に近づくという意味でもある。逆に言えば、高い精神性をもっているからこそ、魔法が使えると言える。
「できるだけたくさんの人が救えるように、私たちは日々、自分の精神性を高め、より高度な魔法が使えるように勉強しているんです」
「はあぁ、お勉強もお仕事なんですか」
「はい。そうですよ」
マーシュは返す言葉が出てこなかった。
(お勉強が、お仕事……)
そんなのはアカデミーにいる間だけだと思っていた。
「では、私はこれで。あなたもお仕事、頑張って下さいね」
にっこりと優しそうな笑みを浮かべてその天使はその場から離れていった。
(いいな……僕も、魔法が使えたらいいのに)
マーシュは髪に手をやる。
肩にも届かない、ボブスタイルの短い髪だ。
髪の長さは精神の許容量を表す。
短い髪では魔法が使えたとしても、たった一回で自分自身を削ることになる。大規模な魔法や、高エネルギーのものは当然使えない。
つまり、今のマーシュでは、到底魔法が使えないということだ。
(勉強したら、使えるようになるのかな……?)
そう考えても、自分があの天使のようになれるとは少しも思えない。
マーシュには自信が少しもない。
毎日毎日、自分はこの天に必要とされているのかと疑問に思ってばかり。神様がちょっと間違って創ってしまった、バグなのではないかと不安になる。
マーシュは手を見て、いつか自分が間違った存在だからと消されてしまうのではないかと思う。
(怖い……)
「うつむいて、どうかしたのですか? マーシュ?」
呼ばれてマーシュは慌てて頭を上げる。
そこには心配そうな顔をしたケルビム長官がいた。
驚いて、とっさに声が出ない。
「大丈夫ですか? なにか、ありましたか?」
マーシュはとにかく頭を横に振った。
「僕が、怖いですか?」
しゃべらないマーシュに、ケルビムはそう問いかけてきた。
マーシュはさらに頭を振る。
「少し休憩しませんか? さっきの休憩時間であまり休んでいないのでしょう?」
「でも……」
「じゃあ、こうしましょう。僕の世話役は大天使なんです。彼の話を聞きませんか?」
「あ……」
顔を上げると、ケルビムが微笑んでいた。
「ね?」
ケルビムはマーシュの手をとる。
逃がしませんよ、と言わんばかりに。
そのまま、手を引かれてマーシュは歩き出す。
そして、そのまま広場を横切ってゆるやかなカーブを描く階段をのぼり、ケルビムの執務室へと通された。
たくさん刺繍のほどこされた布張りのソファーに座らせられる。
世話役の天使は、持っていた書類を執務机にのせると、マーシュの向かいに座った。
彼は、マーシュよりも少し背が高い程度で、分化した天使とくらべると小さい。髪はマーシュよりも短く、どこかクールな印象だった。
「マーシュは紅茶にミルクと砂糖を入れる?」
奥でケルビムがそう訊ねた。
マーシュはこくこくと首を縦に振る。
ほどなくして、ケルビムがお茶を運んできた。
「どうぞ」
たっぷりミルクの入った紅茶がマーシュの前に置かれる。甘い香りが、マーシュの目を輝かせる。
そして、彼もマーシュの向かいに座る。
そっとカップを持って、口に運ぶ。
「おいしい」
「お口にあって、よかった」
ケルビムはにっこりと笑って、心底よかったというように言った。
「あ、いただきますを言うの、忘れた……」
「構いませんよ。マーシュは僕のお友達なのですから」
「友達、ですか?」
「違いましたか?」
マーシュは首を横に振る。
嬉しくて、赤面し、それを隠すためにうつむいた。
カップをソーサーに戻して、ごまかすようにレポート用紙とペンを手にした。
「あの、どんなお仕事なのか、教えて下さい」
「はい。僕の仕事はケルビムのスケジュールの管理と事務補佐、雑用です。ケルビムが起きられたら、着替えを手伝い、会議に間に合うように、書類をそろえます」
「お着替えを手伝んですか?」
「はい。ケルビムは放っておくと、適当な服を着るので、コーディネイトを含めて僕がお手伝いをします」
「そんな、細かくなくていいんじゃないの?」
横からケルビムが苦々しい顔をして口を挟む。
「あとは、そうですね……ケルビムはよく居留守を使うので、訪問者に言い訳をするのも僕の仕事です」
「……訪問者の取次ぎって言いなよ」
「取り次いでないですから」
「これは、書かない方がいいですか?」
「書いて下さい」と「書かなくていいよ」の声が重なる。
マーシュはどうしたらいいのかわからなくて、二人を交互に見比べた。
「ほら、マーシュが困ってるじゃない」
「じゃあ、マーシュさんに任せます」
「……僕に任せる……」
そうレポート用紙に書く。
「あとは、ケルビムの健康管理ってところでしょうか」
「健康、管理……」と書き込む。
「マーシュ、お菓子もどうぞ」
ケルビムがマドレーヌののった皿をマーシュの方へ寄せる。
「ありがとうございます」
そう言って、そろりと手をのばす。
しっとりとしたマドレーヌは、ほどよい甘さであっという間にひとつを食べ終えてしまった。
ケルビムはその様子をにこにこと微笑んで見守っていた。
マーシュはちょっと恥ずかしくなる。うつむいて、熱くなった耳が冷めるのを待った。
視界に入るのは、ケルビムの膝で組まれた細い指と、濃紺のビロードのローブ。そして、長い黒髪。
ふと思いついて、マーシュは顔を上げる。
「ケルビムは、魔法を使えますか?」
一瞬、ケルビムは不思議そうな顔をするが、すぐに目を細めて答えた。
「はい。使えますよ」
「お勉強をしたら、使えるようになりますか?」
「そうですね。たくさんお勉強をすれば、使えるようになるかもしれません」
「ケルビムは、たくさんお勉強をしたんですか?」
その質問にケルビムは答えるのを迷う。
「そう、ですね……たくさんの本を読みました」
「本を読む……」
マーシュは本を読むのが遅い。簡単な言葉しか知らないので、文章を理解するのも苦手だった。
「マーシュは、魔法が使えるようになりたいのですか?」
マーシュはうなずく。
「魔法が使えたら、僕はいらない天使じゃないって、思えるような、気が、して……」
手が震える。
「いらない天使なんて、いませんよ」
「でも! 僕は、何もできないからっ」
ケルビムは優しい視線をマーシュに送る。
「じゃあ、マーシュ。僕が、魔法を教えましょうか?」
「……え?」
「これでも、魔法学の特別講師をしているんですよ」
にっこりと笑って言うケルビムの言葉にマーシュは驚いて、口を「え」と発した形のまま閉じることができない。
「でも、マーシュ。覚えておいて。マーシュは決して、いらない天使ではないということを」
「で、でも……証拠が、ない、し……」
「証拠が欲しいですか?」
「だって、僕は、頭も、よくないし、きっと、魔法を教わっても、使えるようにはならないと、思うから……」
ケルビムは眉をわずかによせ、哀れみと憤りが混じったような目をしてマーシュを見つめる。
「魔法が使えない天使はたくさんいます。そのすべての天使が、いらない存在だと思いますか?」
「違いますっ」
「僕の世話役の彼は、マーシュよりも髪が短い。分化もしていない。力もない」
マーシュは、はっとして、彼を見た。彼も、マーシュを見ていた。
「その能力はマーシュとほとんど変わらないでしょう。仕事はできるかもしれませんが、愛想もありません」
「僕は、仕事もちゃんとできない……」
「でも、マーシュには愛想があるでしょう?」
「愛想が、あったって……」
「マーシュは、愛想があるよりも、仕事のできる方が、価値があると思っているのですね?」
「そうじゃ、ないんですか?」
「確かに、仕事ができないよりは、できた方がいい。でも、愛想だって、ないよりはあった方がいい。そういうものでしょう? 個々の能力に優劣などないのですよ」
そう、笑って言われても、マーシュはうなずくことができない。
「納得がいきませんか?」
マーシュはうなずく。
「……じゃあ、僕の世話役になりますか? マーシュが世話役だったら、きっと僕は毎日好きな服を着れて、がみがみ怒られることもなく、楽しく毎日を過ごすことができるでしょうね」
マーシュはその言葉をついつい本気でとらえる。期待と嬉しさが、こみあげてきて表情を明るくする。が「というのは、まあ、冗談ですが」の科白にがっかりする。
「例えば、僕が服もちゃんと着れて、仕事もサボらずに全部きちんとできる人だったら、世話役は必要でしょうか? ましてや、こんな無愛想な天使」
「そ、れは……」
必要ない、かもしれない。と思う。でも、かといって、愛想だけあってもその必要性のなさはぬぐえない。そんなようなことをぼんやりとマーシュは思う。
ケルビムが立ち上がって、マーシュの横に座る。
「マーシュ、笑って」
ケルビムの両手が、優しくマーシュの顔を包む。
「マーシュが笑ってる顔を見ると、僕は幸せな気分になるから。ね?」
それでも、なかなかマーシュが笑えずにいると、ケルビムはもう一押しとばかりに言う。
「お菓子も、もっと食べて」
「……お菓子……」
マーシュはにわかに頬がゆるむのを止められない。
そして、マドレーヌに手をのばした。
うっかり、お菓子の魅力に負けて、気分が良くなったマーシュに、それまでにこにこと微笑をたたえてお菓子を食べる様子を見ていたケルビムが声をかける。
「魔法はやっぱり覚えたいですか?」
「ん……」
マーシュは答えに迷う。
「お勉強することは、いいことです。たとえ、魔法が覚えられなくても、無駄ではありませんよ」
「……教えて、くれますか?」
「はい。喜んで。……と言っても、そんなにたくさん時間をつくることはできないのだけど。それでもいいですか?」
マーシュはこくこくと二回、うなずいた。
「じゃあ、土曜日は?」
マーシュはうなずく。何も予定は入っていない。
「ケルビム、土曜日は休日ですよ」
この天では、一週間のうち土曜日だけが安息日。日曜日から仕事が始まる。
「え? だめ?」
「予定は入ってませんが……」
ケルビムの場合、勉強は趣味のようなものであり、仕事のうちには入らない。
「土曜日に勉強したのでは、マーシュさんが疲れてしまうのでは?」
「あ」
そのことに気がついたケルビムは難しい顔をする。
「あー、じゃあ……水曜日の午前とかは?」
「起きていられるんですか?」
「えー……」
マーシュはこう考えた。ケルビムは火曜日がものすごく忙しくて、水曜日の午前中はいつも寝坊しているのではないかと。
他の階級の天使はシフト制の能天使を除き、毎日決まった時間で働いている。だが、ケルビムは一緒に仕事をする天使が他にいないので、会議出席や書類の提出期限さえ守っていれば、比較的自由に時間を使えた。しかし、一人しかいないということは、その仕事量は膨大といえる。
「僕、土曜日でいいです」
マーシュは言う。
その言葉にケルビムは甘えることになった。
***
金曜日の午後。太陽が十二番目の門をくぐり、月が一番目の門をくぐろうとしている時、セージはマーシュと一緒に部屋にいた。
「レポート、見せてみろよ」
ベッドの上であぐらをかいて座り、マーシュからここ五日間の成果を預かる。
マーシュもセージの前で正座をして、緊張した面持ちで評価を待つ。
「お前、これ、大天使じゃないのも混じってるじゃんか……」
どう考えても大天使の仕事とは思えぬ記述を見つけた。マーシュは「え? そう?」などと本気でとぼけているかのように言う。
「傷ついた人を治すって、力天使の仕事だろ」
「……そうなの?」
「そうだ」
階級そのものは知っていても、それぞれがどんな役割を果たすのかまでは知らないらしい。
「せっかく訊いたのに」
もったいないという意味だろう。
「最初に大天使かどうか訊いてから、教えてもらわないと……」
「うん」
「あとは、研究関係の仕事が訊けたらいいな。研究所には、文書でアンケートとった方がいいかもな」
「うん。そうする」
「あと少しだ。頑張れよ」
「うんっ」
セージはマーシュの頭をなでる。
マーシュははにかんだ笑顔で応えた。
「明日、どうする? どっか行くか?」
明日は土曜日だ。
「明日は、ケルビムとお勉強をするの」
マーシュの言葉にセージは耳を疑う。
「は? なんだって?」
「ケルビムが、お勉強を教えてくれるの」
「なんで」
「魔法を、使えるようになりたいから……」
「はぁ? 魔法?」
魔法を教わっても、マーシュが使えるようになるとは、到底思えなかった。
マーシュはもじもじしている。少し、恥ずかしいらしい。
それにしても、ケルビムとは、とんでもない先生だ。
セージははっとする。その勉強会がよもや一回かぎりなんてことがないということに気がつく。たった一回で魔法が使えるようになれば苦労しない。
「まさか、来週もか?」
「ケルビムは、平日はとっても忙しそうで、土曜日しか……」
それはそうだろう。そうだろうが、それではセージがマーシュと一緒に過ごす時間が少なくなる。
「じゃあ、何か? マーシュが魔法を覚えるまで、俺とは遊べないってことか?」
「そ、そんなこと、ないと思う。一日中ってことは……」
「それは何年続くんだ?」
発した声は、怒りとあきれが混ざったようなものだった。
「な、ん、ねん……」
マーシュはうつむいてしまう。何年たっても魔法が使えるようになるとは、マーシュ自身も思っていないからだ。
セージはため息をついてしまう。
ここは応援しなくてはならないところだと、分かってはいるものの、あまりにも、マーシュに想われていないと感じてイライラする。
「俺が土曜日に休日とるの、難しいって知ってるよな?」
「ん……」
「マーシュは、俺と過ごすより、ケルビムと一緒の方がいいのか」
「っそ、そんなことっ、ない」
マーシュは今にも泣きそうだった。
「そんなことないって、だったらなんでそんな約束してくるんだ!」
「ごめ……」
セージはベッドから降りる。
「頭、冷やしてくる」
「セージ! ごめん、明日、断ってくるから!」
マーシュの叫ぶような声を背中で聞く。
(そんなのが聞きたいんじゃねぇんだよ!)
何も分かっていないマーシュに、よけいに腹が立つ。
セージはそのまま、部屋を出て行った。
ひとり残された部屋で、マーシュは声を殺して泣いていた。
とてつもない恐怖が、マーシュを包んで、胸をしめつける。
(セージに嫌われたら、僕は……っ)
生きてなどいけないのに。
マーシュは、そろりとベッドを降りる。
セージを探すために、痛む胸をおさえて、部屋を出た。
住居棟から外へ出る。夜の空気で冷えた石畳の上をはだしで歩く。ベッドから降りたとき、靴をはかなかった。
少し先に小さな聖堂がある。神様に会うことができる天使は少ない。そのために、この天にも祈りを捧げる聖堂がいくつかある。そこも、その一つだった。半球の屋根の、丸く白い建物で、入口に扉はなく、アーチ状に切りとられているだけ。
マーシュはそこから入る。
案の定、セージはそこにいた。
入口に背を向け、立っている。
「セージ……」
呼んでも、セージは応えない。
マーシュはもう少しだけ、彼に近づいた。
ぎゅうっと、自分の服をにぎりしめて。
「セージ、ごめんなさい」
いっそう、胸が痛む。
「あの、僕……魔法が、使えるようになりたかったの……」
やはり、セージは背を向けたまま、応えることはない。
「ひとりでも、勉強はできるもんね……」
それこそ、何年かかるか分からないけれど。
「甘えちゃ、だめ、だよね……」
やはり何も言わないセージが、怖かった。
「そ、それでね、もし、僕が魔法を使えるようになった、その時は――」
「もういいっ」
セージの大きな声に、マーシュは肩をびくっと震わせる。
「もういい。どうせ、俺が勝手に恋人にしたんだ。お前が俺のこと、何にも想ってないのなんか知ってた」
「違う! セージ、僕は!」
セージが好き。
その言葉をマーシュは飲み込んだ。
そんなことは、言えなかった。
おこがましい。
ずっと一緒にいたい。ずっと、守られて安寧とした日々を過ごしたら、それは幸せだろうと思う。でも、それを神様は許してくれるだろうか。何より、自分は、セージに相応しいとは思えない。
セージを恋い慕っている天使が、たくさんいることをマーシュは知っていた。努力して、彼に振り向いてもらおうと、己を磨いている天使がいることを。
それに比べて、自分は大天使にもなれなかった。
「セージ……」
涙があふれて、頬をぬらした。そのしずくが、床に落ちる。
(神様、どうか、セージを好きでいることを許してください)
どうか、と願って、マーシュはその場に倒れた。
いくつもの羽根が、マーシュの後を追って、床に落ちていく。
「マーシュ!?」
セージの驚愕の声が、聖堂に響いた。
あたたかいものが、じんわりと広がって、胸の痛みがやわらぐ。
「マーシュ!」
大好きな人の声が、自分を呼んでいるのだと、気がついた。
「っん……」
薄く、目をあける。
「マーシュ!」
「う…ん……、セージ……?」
その名を呼ぶだけで、マーシュの心は突き刺されたように痛んだ。涙がこぼれ、眉をよせる。
みしりと、妙な音がした。
そして、また、あたたかさとともに、痛みが薄れる。
目をあけて見れば、半分以上も手折られた翼があった。
「セージ!!」
びっくりして、マーシュは飛び起きた。
すぐに抱きしめられる。
「翼が……」
恐る恐る、背中の無残な翼に手をのばす。
痛々しくて、とても触れることはできない。
「マーシュ、悪かった」
「セージが、悪いことなんて、ない……」
「ごめん。マーシュ、愛してる」
どくんと、胸がはねた。
信じられない言葉を聞いて、止まったはずの涙がこぼれる。
セージの胸で、わあわあと泣いて、マーシュはいつの間にか眠りに落ちた。
***
土曜日、マーシュとセージは少し朝寝坊をしたが、いつもと変わらずに身支度を整え、部屋を出た。
手をつないで、図書施設前の広場にくる。
休日とはいえ、多くの天使がこの広場にいた。
「マジであの階段のぼるのか?」
広場に緩やかな曲線を描いて落ちている階段がある。その階段をのぼると、会議室や上級天使、長官、副官の執務室兼居室がある。この階段はつまり、えらい天使しか使わない。下級天使はふざけてたって、この階段はのぼれない。
「そうだよ。この階段をのぼって、右に行って、」
セージは生唾を飲む。
ひとりで何気ない顔をしてのぼれば、たいして注目をあびることはないだろう。だが、マーシュとふたりでのぼれば、目立つことこの上ないし、騒ぎになるかもしれない。
「おそろしい……」
「大丈夫だよ?」
やはり、マーシュの天然は健在で、平気な顔をしている。
「よし、マッハでのぼるぞ」
「へ?」
セージはマーシュを抱えると一気に階段をのぼりきり、壁に身を隠した。
マーシュを下ろして、こっそり、下の様子をのぞき見る。
騒ぎにはなっていなかった。
セージはほっと息をつく。
「よし、行くぞ」
「うん」
そして、ケルビムの部屋の前にたどりつく。
マーシュがコンコンと二回、ドアをノックする。
ほどなくして、扉が開き、世話役の天使が出迎えた。
「おはようございます。どうぞ、中へ」
中に入ると、すぐにまたドアがあり、驚く。変わった造りだった。
ふたつ目のドアをくぐると、正面に大きな机があり、案内されたのは右側の応接セットだった。
セージはかなり緊張する。
普通ならありえないことだ。上級天使の、しかも長官の部屋に招待されるというのは。
落ち着かずに、きょろきょろと部屋の調度品なんかを見てしまう。
隣にマーシュが座り、向かいにケルビムその人が、まるで絵画のごとく、優雅に座っていた。
世話役の天使が紅茶を運んでくる。
マーシュ、セージ、ケルビムの順にカップが置かれる。
「あなたは、確かセージさん」
「あ、はい」
ケルビムは不思議そうな顔をしながらも、何故とは訊かなかった。
「あの、勝手なんですが、マーシュの勉強のこと、今日だけにしていただきたくて……」
思い切って、セージは口にする。
ケルビムはいっそう不思議そうな顔をして、無言で訳を訊ねた。
「あの、俺達は、その、つきあっていて、それで……」
土曜日は一緒にいたいから、とはなかなか言えなかった。
だが、ケルビムは「ああ」とうなずいて、にっこりと笑った。
「お二人は恋人同士だったんですね」
「ごめんなさい。せっかくお勉強を教えて下さるって言ってくれたのに……」
「かまいません。気にしないで下さい。その気持ちは僕にだってわかりますよ」
ケルビムは害した様子もなく、にこにこと笑って言った。
世話役の天使が嫌そうな顔をする。
もしかしたら、スケジュールの調整が大変だったのかもしれない。
「本当にすみません」
セージも謝る。
「いいえ、僕の方こそ、マーシュに無理をさせるところでしたから」
どうぞ、と紅茶を勧められる。
「ありがとうございます。いただきます」
マーシュが笑って言い、セージも「いただきます」と続いて言った。
緊張でのどが渇いていたので、さっそく口をつける。良い香が広がって、セージは幾分か、落ち着きを取り戻した。
「それで、マーシュはどんな魔法が使えるようになりたいのですか?」
「えっと……怪我を治せる魔法……」
「ぶほっ」
セージはお茶を吹出してしまう。
(回復魔法なんて、一番難しい魔法を……)
ケルビムも一瞬、固まっているのをセージは見た。だが、流石は上級天使。寛大な心でマーシュの発言を受け止め、答えた。
「そうですか。でも、生憎、僕は回復魔法は苦手なんです」
「そうなんですか?」
「はい。回復魔法に限ったことではありませんが、特に適性が問われますね」
「マーシュ、最初はもっと簡単なのから学べ」
「簡単なのって?」
「明かりを灯す魔法とか、せめて防御魔法とか」
「そんないっぱい覚えられるかな……」
マーシュにはそんな危惧もあったらしい。うなずけなくもない。
「でも、ちょうどいいかもしれませんね。回復魔法なら力天使に教えてもらった方がいいから、許可をとって、毎日力天使の元に通ってお勉強すれば、土曜日は二人で一緒に過ごせますよ」
ケルビムの提案に、セージはおおっと感嘆する。
マーシュが回復魔法を使えるようになるとは、やはり思えないが、それでもいいと、いささか、天使にはあるまじき不謹慎なことを考えてしまう。
「そうしろ! マーシュ!」
「うん!」
お互い向き合って、意気投合する。
「では、今日は力天使について、お勉強しましょう。回復魔法が使えれば、難しい試験がありますが、でも、必ずと言っていいほど力天使になることができます。力天使の意味するところは“高潔”――」
そうして、土曜日をふたりでケルビムの講義を聴くという有意義な時間を過ごした。
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