落ちこぼれ天使の奮闘記

真乃晴花

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第二種接近遭遇 堕天使フェンネルの場合

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「私、今度地上に降りるのよ。綺麗なところなんですって。楽しみだわ」
 彼女はそう残して、二度と、天には帰らなかった。
 地上は空ばかりの天上とは違う。たくさんの色が溢れ、幻想的であいまいな天とは違う華やかさがあった。
 神が人のために創った大地だった。
 そこに天使が住むことは許されない。
 天使である彼女は、神の裁きを受け、堕天した。
 彼女の知人であるフェンネルはそれをきいて、ひどく衝撃を受けた。
 彼女を追いかけて、理由を訊きたかった。だが、それは叶わなかった。
 そのうち、討伐隊が編成されて、堕天した彼女らは消滅した。
 なぜ、そうなったのかを、考えざるを得なかった。
 彼女に悪意など、少しも感じられなかったからだ。
 自分が彼女を止めることができたならと後悔ばかりがうずまき、いつしか、心が淀み、真っ黒になりはてた。


 フェンネルは行き場をなくし、いつも、うろうろと知恵の館を徘徊していた。
 目深にフードをかぶり、黒い瞳と黒い髪が見えないようにして、こっそりと噂に聞き耳を立てたり、新着の図書をチェックしたりと天界の状況を把握しようとしていた。
 どうしてこんな結果になったのか、最初からすべてを調べて、真実が知りたかった。
 周りは彼のことを怪しく思うも、実害がないのでこそこそと「怪しい怪しい」と訝しがるだけだった。
 この知恵の館の広場に来ると、何もかも昔のまま時が流れているようにフェンネルは感じる。
 多くの天使が行き交う広場と、衣擦れの音、上品な話し声、かすかに聞こえる楽隊の慎ましやかな音楽は変わらない。
 今日は図書施設で資料を探していた。
 壁に造りつけてある本棚から、過去の記録を片っ端から調べ続ける。
 黙々とページをめくっていると、すぐ隣で小さな天使が一生懸命背伸びをしていた。
「あと、ちょっと……」
 そう言って、本棚の一段目に足をかけ、左手は本棚のわずかなスペースをつかみ、右手は上にのばしている。
 取ってあげようかと、考えた次の瞬間だった。
「あ!」
 小さな天使の本棚をつかんでいた左手がすべって、身体が後ろへと傾いた。
 思わず、手をのばしていた。その小さな天使の背中へと。
 だが、その天使はとっさにフェンネルのローブをつかんでいて、彼はバランスを崩し、一緒に倒れこんでしまった。
 後ろは丸い小さな机と椅子がところ狭しと並ぶ閲覧スペースで、なんとか机のはじに頭をぶつけないようにと小さな天使をかばった。
「うう…ごめんなさい……」
 腕の中で小さな天使が身体をこわばらせて言った。
 どうやら無事のようだった。
 ゆっくりと、身体を起こす。
「あ! 黒い髪!」
 小さな天使が言った時、フードが頭からとれていることに気がついた。
「あなたも元人間なんですか?」
 小さな天使は続けてそう言ったが、その時にはもう辺りは一瞬にして騒然となり、近くにいた天使はすべてすばやく遠ざかった。
「堕天使だ!」と声があがる。
 すぐに能天使が駆けつけるだろう。
 逃げ道を探そうと、首をめぐらすと、足元にはまだ小さな天使が不思議そうに見上げていた。
 フェンネルはその天使を抱える。
「道をあけろ! この子を殺すぞ!」
 そうは言ったものの、天使もそうそう馬鹿ではないし、近くには能天使の控え室もある。このまま見逃すようなことはないだろうと思う。
「マーシュ!」
 男の叫ぶような声がした。
「あ、セージ」
 脇に抱えた小さな天使がその声に反応して、能天気にもにこにこと応えた。
 状況がまるでわかっていないよう。
 どこか緊張感にかけるが、フェンネルの額には冷や汗が浮かぶ。
「攻撃魔法使えるやつを呼べ!」
 能天使から指示が飛ぶ。
 非常に良くない状況だ。
 フェンネルはじりじりと前へ進み出る。
 緊張で張り詰めた時間が流れる。
「マーシュを放して下さい」
 静かな声だった。ゆっくりとした口調で、なだめるような響きがあった。
 声を発したのは、天使を見慣れているフェンネルでも驚くような美人で、長い黒髪をたゆませた人物だった。
 声は優しかったが、表情は冷静さの中に少し怒気をふくんだように厳しい。
「マーシュを放してくれたら、あなたは見逃しましょう」
 その台詞に誰もがぎょっとした。だが、誰もそれについて反対の声をあげるものはいなかった。
「さあ。でないと、僕の炎で消し去ってしまいますよ」
 その言葉に嘘はないとフェンネルは確信する。天使の使う攻撃魔法は、天使には効果がない。フェンネルを滅するつもりなら、すでに魔法が使われているはずだからだ。
 フェンネルはそっと、小さな天使を床に下ろした。
「マーシュ、こちらへ」
 その小さな天使はやはり、不思議そうにしていて、一度、フェンネルの顔をうかがった。
「あの、たすけてくれてありがとう」
 人質になっていたのにもかかわらず、転んだ時にたすけてもらったことに対して礼を言って、マーシュという天使は、黒い天使、ケルビム長官のもとへと走っていった。
「さあ、お逃げなさい。あなたがもうこれ以上何もしないというのなら、逃げた後も追うことは致しません。
 道をあけて。これは、命令です」
 彼が、そう言うなり、外へ向かって道ができた。
 フェンネルは、フードをかぶり直し、その道を進む。
 本当に、誰も襲い掛かることはなく、フェンネルは無事に知恵の館から遠ざかることができた。


「マーシュ!」
 堕天使が去ったあと、セージは恋人であるマーシュに駆け寄る。
「セージ」
 彼の心配をよそに、マーシュはにこにことセージを迎える。
 その、まるで状況を理解していなかった様子に、セージは脱力する。
(なんだって、いつもこう騒ぎを作るんだ。こいつは)  
 周りが驚き、騒いでいる中で、マーシュだけはいつもどおりだった。
「ねえ、さっきの人も黒かったねぇ。あの人も元人間だったの?」
 セージはこの馬鹿な質問に答えることがなかなかできなかった。
 黒い天使は元人間のケルビムただ一人。その他に黒い天使はいない。
 天使を名乗ったとしたら、それは悪魔か堕天使だ。マーシュはそんな常識さえも知らない。
 黒い天使が一人いるのだから、まだ他にも存在するのではという考えはうなずけなくもないが、ケルビム長官は例外中の例外で、また別に黒い天使が生まれる可能性はほとんどない。
 それがどうしてかもマーシュは知らない。
(もしかして、堕天使が何かも知らないんじゃないか?)
 だとしたら、そこから説明しなくてはならない。
「マーシュ、怪我はない?」
 セージが悩んでいると、ケルビムがマーシュに目線を合わせて尋ねた。
 マーシュは、首を勢いよく横に振る。
「倒れそうになったところをたすけてもらったの。だから、大丈夫」
「あの、さっきのひとに?」
 マーシュはうなずく。
「そう。怪我がなくてよかった」
 ケルビムは身体を起こすと、側仕えの天使を振り返る。
「資料、集められる?」
「やってみましょう」
 それはおそらく、先ほどの堕天使に関する資料のことだと思った。
「それじゃあ、マーシュ、セージさん、僕はこれで失礼しますね。何かあったら連絡してください」 
 ケルビムは軽く会釈をして、変わらず優雅な足取りで広場を去っていった。 
 それを見送ってから、セージは深いため息をつきながらしゃがみこむ。 
「セージ、どうしたの?」 
 マーシュまで座り込んで、セージの顔を覗き込む。 
「どうしたじゃねえよ」 
 マーシュは首をかしげる。 
「いいかぁ。普通、黒髪、黒眼つったら悪魔か堕天使なんだよ。悪魔も堕天使も、神様に叛意あって天を離れた、もしくは堕とされたんだ。叛意ってわかるか?」 
 マーシュはぶんぶんと首を横に振る。 
「叛意ってのは、神様の考えとか、教えに逆らったってことだ。全部が全部そうじゃないけどな、中には天使なんかいなくなってしまえって思ってるヤツがいるんだよ」 
 うんうんとマーシュはうなずいているが、おそらく、肝心なことは分かってないだろう。 
「だから、そんなヤツに近寄ったら危ないだろう?」 
「ふうん。でも、さっきの人は、僕のことたすけてくれたよ?」 
「そうかもしんないけど、他意あってのことかもしれないだろ?」 
「たい?」 
「だから、例えばだ、マーシュをたすけておいてだな、恩を着せて、あとで脅すとかな」 
「ふうん」 
「だから、黒いヤツには近づくなよ」 
「ふうん」 
 その気のない返事を返すマーシュに、セージは不安になる。 
「ねぇ、なんで、そう、思っちゃうのかな?」 
「へ?」 
「だって、そう思うには理由があるでしょ?」 
「まあ、そうだな」 
 そこまで話していたら日が暮れてしまう。セージは能天使の仕事がまだ残っていた。 
「後で話してやるから、お前もちゃんと仕事しろよ。でないと、神様に叛意ありって思われて、真っ黒になっちゃうぞ」 
「あ、そうだ!」 
 途中の仕事を思い出したのか、マーシュは声をあげて立ち上がる。 
「セージ、高いとこの本、取って」 
 セージも立ち上がる。そのお願いに呆れてため息をつきながら。 
「ああ、わかった。どれだ?」 
「あっち」 
 マーシュは、本棚を指差してセージを導く。 
「メモ、あるんだろ? 見せてみろ」 
 そう言って、手を出す。だが、マーシュは無言で、何か考えていた。 
「……メモ、なくした……」 
 小さく、そう申告したマーシュにセージは呆れて声がでない。 
「でもでも、この本、この本で間違ってないから!」 
「わかった」 
 セージは指さされた本を本棚から引き抜く。 
「ありがと」 
 本を受け取り抱えて、マーシュは礼を言う。 
 その本を持って、貸し出しのカウンターへ持っていく。
 マーシュは追加課題をなんとかまとめあげ、なんとか大天使に昇格した。そして、ケルビムの口ぞえで力天使のもとで勉強することになったのだ。無謀にも、その力天使になることを目指して。
 おそらく、本はその勉強に使うのだろう。 
「じゃあね。セージ。またね」 
「マーシュ、分かったな。黒いヤツに会ったら逃げろよ」 
「うん」 
 うなずいてはいるが、いつものように笑顔がない。 ということは、あまり納得してないようだ。マーシュはすべて顔にでるから、分かりやすい。 
(わかってないな……) 
 小さな後姿を数秒見送って、セージも仕事に戻った。 


 マーシュはカフェテリアを横切って、力天使の集う部屋へ入る。
 そこは能天使の控え室とも大天使や主天使の事務所ともちがって、高級ホテルのロビーのような内装だ。
「マーシュ、大丈夫でしたか?」
 部屋に入るなり、そう問いかけられた。あの場に何人か力天使もいたのだろう。部屋中の力天使がマーシュに注目していた。
「はい。だいじょうぶです。遅くなってごめんなさい」
「無事でよかったわ」
 力天使の副長官がほっとしたように言った。
「それにしても、ケルビムは一体何をお考えなのか……」
 別の力天使が言う。
 マーシュにはその意味がすぐにはわからなかった。
「ケルビムなら、堕天使など一瞬で滅することができましょうに」
「そうですわよね。炎の剣ならマーシュが火傷を負うこともありませんし」
「後も追わぬとか」
「それでは、またこのような事件が起こりかねませんのに」
「ほんとうに」
 力天使は一様に首をかしげた。
 マーシュは不思議でならなかった。 
 どうしてそこまで堕天使を忌み嫌うのか。簡単に滅せよと言うのか、マーシュには、そちらの方が恐ろしかった。
「あ、マーシュ、本をとってきてくれたのね。ありがとう」
「ごめんなさい。メモをなくしちゃったの。だから……」
「大丈夫よ。これであってるわ。あと二冊、メモには書いてあったけれど、そんなにたくさんは重くてもてないものね。今度は二人で行きましょう」
 力天使は他の階級の天使よりもさらに優しい。
 それなのに、とマーシュは思う。どうしても、先の堕天使のことが気になって頭から離れなかった。
「あ、エルダのパートナーが決まったわ。辞令が」
 文書を整理していた天使がみなに聞こえるように言った。
「誰ですかっ?」
 エルダが素早く駆けよる。
「剣軍第一師団第一中隊長セージ。今注目の彼ね」
「ほんとに!?」
 エルダは歓喜の声をあげる。
 マーシュは頭の中が真っ白になる。
 周りは歓声をあげて喜んでいるというのに、マーシュは喜べなかった。
 それは、マーシュがかねてより夢をみていたこと。
 セージはマーシュの恋人だ。マーシュが力天使になりたいのは、彼のパートナーとなって、彼を助けることだった。
 セージは人気がある。能天使にしては性格も顔も優しい。だからこそ、マーシュは彼と知り合うことができたといえる。
 マーシュは沸き立つ部屋をそっと抜け出した。
 胸が苦しくて、涙が出そうだった。

     ***

「ねぇ、セージ、どうして、えっと……なんだっけ? えっと、あのひとみたいになっちゃうの?」
 マーシュは仕事が終わって部屋に戻ると早速、セージに昼間に会った黒いひとのことを聞いた。
 意味不明な質問だったが、セージはマーシュが言わんとしていることがなんとなく分かる。
「堕天使な」とひと言いっておいて、セージは説明を始める。
 この、あまり言葉を知らないマーシュに説明をするのはとても難しいことだったが。
 そもそも、こんなことはアカデミーで教わっているはずなのだが、勉強を放棄していたマーシュは覚えていないのだろう。
「堕天のパターンにはいくつかあってだな……」
 天の歴史上、最初の堕天は自由天使によるものだった。彼らはその自由意志によって次々と神の元から離れていった。
「だから、神様は運命の輪を創った。それで天使は、自分の意思では堕天することができなくなった」
 わかっているのか、わかってないのか、マーシュは「ふうん」と相槌をうつだけだ。
「だから、それ以降の堕天っていうのは、神様の罰なんだ。悪いことをしたら天から追放される」
「じゃあ、あのひとも悪いことをしたの?」
「まあ、そうなんだろうな」
「でも、悪いひとには見えなかったよ?」
「そこなんだ。有名な話だと、サリエルっていう天使は月の秘密を知っちゃたから、自分から堕天したっていわれてる。決して悪い天使じゃなかった」
「?? でも、自分の意思では堕天できないって……」
「だから、わざと悪いことをするんだ。そうしたら、神様が罰を与えて、堕天することができる」
「ええ~っ」
「他にもだ、七つの大罪っていうのがあってだな、理由はどうあれそれに該当すると堕天することになる」
「……うん?」
「例えば、失恋するだろ? 仕事が手につかなくなって、ずっと仕事をしなかったら怠惰の罪になる。相手を憎く思えば、嫉妬の罪になる」
「しっと?」
「いいなーとか、うらやましいーとかだ」
 マーシュは心をつかまれたようになる。じわりと汗がにじんでくる。服を強く握った。
「……じゃあ、ぼく、だてんしちゃうんだ……」
「は?」
 セージは驚いてマーシュを振り返る。
 マーシュは口をきつく結んで不安げな顔をしていた。
「何かあったのか?」 
 マーシュは答えない。 
 言いたくなかった。
 自分の黒い、どんよりとした気持ちを知られたくなかった。
(……大罪なんだ……きっと神様、許してくれない……) 
 その気持ちが罪だとわかって、さらに恐ろしくなる。
(きっと、消されちゃうんだ……) 
 昼間聞いた力天使の言葉がマーシュの脳裏に浮かぶ。
「マーシュ、お前が堕天するわけないだろ?」 
「わかんないもん……セージには、ぼくの気持ち、わかんないもん!」
 マーシュと違って、優秀な天使のセージは確かに、ひとを羨む気持ちなど持ち合わせてはいなかった。
 だが、彼はマーシュの言葉に少しムッとする。
 根拠もなくわからないと言われ、またそれがなんなのかも知らせてはくれないのでは、当然と言えば当然だった。
「言わなきゃ分かるものも分からないだろ」
 そう言われても、マーシュに答える気はない。 
「お前は、堕天しようとしても、堕天できない。もし、堕天することがあるなら、それは、悪魔とか堕天使から 悪いことを吹き込まれた時だけだ。だから、黒いヤツには近づくなって言ったんだ」
「あのひとは悪いひとじゃないもん……」 
「そんなこと、まだ言ってんのか」
 セージが「あのな、」と続けようとした時、マーシュは部屋から飛び出していた。


 フェンネルはあれから、知恵の館をかこむ庭園の茂みに小さくなって身をかくしていた。
 こうなってはもはや、こっそり資料を読みあさることはできない。
 だが、夜になれば、警備をかいくぐり、資料を探すのも不可能ではない。
 それにしても、あのケルビムは何を考えているのか。ケルビムなら炎の剣をもっている。それなら、天使を傷つけることなくこの自分を消し去ることができるというのにだ。
「なにをしてるんですか?」
 はっと顔を上げると、そこには奇妙に身体を横にかしげるふうにしてのぞく、あの時の小さな天使の姿があった。
 ぎょっとする。
「なっ」
 こんな茂みに来る者などないというのに。フェンネルは驚く。 
 小さな天使、マーシュは不思議そうな顔をしている。
 だが、すぐに表情を曇らせると、フェンネルのすぐ傍に腰をおろし、膝を抱える。
「あの、きいてもいいですか?」
 フェンネルはなんと答えていいのか分からなかった。
「あの、どうして……えっと、なんていうんだっけ……」 
 どうにも、なかなか言葉が出ないらしい。
「えっと、だてんしちゃったんですか?」
「それは……神のしたことが許せないからだ……!」
 マーシュは頭を膝の上にのせて訊く。
「何が?」
「仲間を殺したんだ……!」
「どうして?」
「堕天したって、決めつけて……あいつらが堕天なんかするはずないのに……!」
 マーシュは語気を荒げた彼に少し驚いて、息をのんだ。
「し、死んじゃったんだ……」
「そうだ。神のせいだ! 証拠もないのに……!」
 マーシュはどこかで神様のせいでないことは分かっていた。
 だが、神様のせいじゃないよと言ったところで彼のなぐさめにならないことを本能的に知っていた。
「かわいそうだったね」
 マーシュのその言葉にフェンネルははっとする。
 今まで、こんなことを言う天使がいただろうか。
 堕天使は幽閉される。逆らえば、地獄に堕とされて、さらに逆らえば滅せられる。 
 悪いことをしたのだから、それが当たり前だ。誰も同情などしない。
「あ、だから、しょうこを調べていたの?」
「あ、ああ、そうだ。それで、もしあいつらに非がなければ、名誉を取り戻せるだろ? だから」
「そっか。しょうこ、見つかるといいね」
 フェンネルはそこでため息をつく。
「もう、見つかりっこないさ」
「どうして?」
「そういう都合の悪いものを目の見える場所に置くはずがない。それに、もう、知恵の館には入りにくいからな」
「なら、ぼくが探そうか?」
 フェンネルはまた驚く。思わずマーシュを振り返った。
「そ、そんなことをすれば、おまえも堕天することになる」
「ん、そうなったら、仲間だねぇ」
 マーシュははにかんだように笑っていった。
 その笑顔はフェンネルに射した光のようだった。
「んー、眠くなってきた……」
 マーシュの子供のように目をこする姿に感動の余韻は打ち消される。
 フェンネルは、上着をぬいでマーシュにかけた。
 マーシュはとても薄着だったからだ。まるで、ここにいるはずのない、最下級天使のような服だ。
 上級天使になればなるほど、衣を重ねる。ケルビムの衣服はとても重そうだったが、それがみなの憧れでもある。
 マーシュは今にも閉じそうな瞳をして「ありがと」と言った。
 そして、すぐに膝を抱えたままで眠ってしまった。
(はっ、何でここで寝るんだ!?)
 フェンネルは気づくも、すでに遅かった。
 マーシュを一人にするのも忍びない。
 仕方がないので、フェンネルもそのまま一緒にいようとあきらめた時、ふと、影が落ちた。
「てめぇ……!」
 フェンネルが顔を上げると、こめかみに青筋を浮かばせて、たいそう怒っている男の天使が見下ろしていた。
 フェンネルは声もなく、びくっと肩を震わせる。
「いくらケルビムが許しても、マーシュをたぶらかそうってヤツは俺が許さねぇ!」
「なっ! ちがっ、これはっ……!」
 あわてて否定するも、彼はこぶしをつくり、いまにも殴りかかるような勢いだ。
 胸ぐらをつかまれて、引き上げられる。
「ま、待て……!」
 フェンネルはマーシュが起きてくれるのを期待して、横目で見るが、かくんかくんと船を漕いでいる。
 大きく振りかぶられたとき、フェンネルは叫んだ。
「うわあぁぁぁぁっ」
 ぱちんとマーシュが眠りから覚める。
「……セージ?」
 目が覚めても、マーシュはどうにも反応が遅く、フェンネルは悲嘆に暮れる。
 だが、胸ぐらをつかむ手が緩められ、フェンネルはそのまま数歩後ろに押されただけだった。
「黒いのに近寄るなって言っただろ!」
 大きな声に今度はマーシュが肩を揺らした。
「なんで言うことがきけないんだ!」
 一瞬にして、マーシュの顔が悲しそうにゆがむ。
 だが、マーシュは立ち上がると、彼に対峙した。
「このひと、悪いひとじゃないもん!」
「そういう問題じゃないだろ!」
「……いいんだもん。ぼくもだてんしちゃうから、いいんだもん」
 男が息を飲むのがわかった。
「なに言ってんだ。お前が堕天するわけないだろ」
「だって、このひとだって言ってたもん。あいつらがだてんするはずないって。きっと、そう思ってたって、神様がダメっていったら、そうなっちゃうんだ」
「堕天したヤツのことがなんで信じられる!」
「セージだって、どうしてぼくがだてんしないって信じられるの!  ぼくのこころがどんなか知らないのに!」 
 男の顔に朱が上った。 
「そんなに堕天したけりゃ、してみせろ!」  
 怒鳴り声にマーシュの瞳にはみるみる涙がたまっていく。 
「堕天したら、好きな人には会えないんだぞ!」 
 それは、マーシュにとってもっともつらいことだった。 
「うう……うわあぁぁぁんっ」 
 マーシュは声を上げて泣き出した。 
 そう、堕天したら、好きなひとには一生会えない。新たに出会うこともない。 
 その言葉は、フェンネルの胸にも突き刺さった。
 堕天して消されてしまった友人のことがフェンネルは好きだった。もう、二度と会うことはできない。それは、彼の言葉を裏付ける確かな証拠だった。 
 そして、小さな天使に対して抱いた好感は、恋になることはないのだと、痛感した。 
 男は盛大なため息をついてから、泣きじゃくるマーシュを抱き上げる。 
「ううっ」 
  嗚咽をもらすマーシュの背をぽんぽんとたたいてなだめる。 
「マーシュが堕天するわけないだろ」 
「ううっ わがんないもん。だって、っく」 
「わかった。話をきいてやるから」 
 しゃっくりが止まらないマーシュを、まるで赤子をあやすようにする。 
 そして、彼はフェンネルをひと睨みして、マーシュを抱えたままそこから去っていった。 

      ***

 翌朝、マーシュは目をはらして、どんよりとしていた。
 セージはため息をついて、どうしたものか考える。この顔では、仕事をさせるのも気の毒でならない。
「今日は休むか?」
 マーシュはセージの服のはしをつかんで、首を横に振る。
 堕天するとか言っているくせに、そこらへんは真面目でこんな状態でも仕事に行こうとするマーシュが可笑しかった。
 セージはマーシュを抱きあげる。
 部屋を出て、寮の廊下を進む。
 途中で同僚と会った。だっこされているマーシュを見て笑う。
「なんだ、マーシュはおむずがりか?」
 むずがっていようがふてくされていようが、その様子は微笑ましくてついつい揶揄ってしまう。マーシュはそんな存在だった。
 きっと、この先々で同じことを何度も言われるだろうことは想像するに容易い。
 知恵の館に入館し、まず力天使の詰所に行く。マーシュをだっこしたまま、ドアをノックする。すぐに、返事があって、セージは扉を開けた。
「まあまあ、どうしたの?」
 力天使の長官がおっとりと駆け寄ってくる。部屋には長官ひとりだけだった。
「あの、昨日、何かありましたか? 人質にされた後で」
 そう、昼に別れた時はなんでもなかった。
「あと……」
 力天使長官は首をかしげて考える。
 そういえば、少しおかしかった。
 セージの顔をふと見て、気づく。
「あ、」
 気づいたが、すぐ口にするには躊躇うものだった。
 まさかという思いもある。こんな幼い天使が、よもや本気で彼を想っていようとは、と。
 だが、さすがは力天使の長官で、けしてマーシュを子供扱いなどしない。
「まあ、どうしましょう。つらかったでしょうに」
「何があったんですか?」
 セージはすぐさま聞くが、長官は一瞥しただけで答えない。
「あまり眠ってないのでしょう。今日はゆっくりお休みなさいな」
 長官はマーシュに言うが、セージからしがみついて離れようとしない。これでは、セージまで仕事に行くことができない。
「あの、堕天するといってきかないんです」
 セージの言葉をきいて驚く。
「あらあら、そうなの」
 さすがに、おかしくなったのか、長官は笑う。 
「それは困りましたね」 
「堕天するはずがないと言っても、何が不安なのか、話そうとしないんです」
「そうですねぇ。あなたには話せないでしょう」
「あの、一体なにが」
 力天使長官はやはり、ちらりとセージを横目で見るだけで、なかなか答えようとしない。
「マーシュはケルビムと面識がありましたね」
「ええ」
「なら、あの方に頼むといいでしょう。マーシュのことなら快く頼まれてくれるでしょうから」
 それはなんだかとても畏れ多いような気がする。ケルビムは今の天で唯一の智天使だ。そのために、ひとりで多くの仕事をこなしていて多忙なのは言うまでもない。
「少しお待ちになって。手紙を書きますから」
 長官はそう言うと、机に向かってペンをにぎる。
 手紙が書きあがったのはすぐだった。
「お待たせしました。これを」
 長官は書いた手紙を薄いピンクの封筒に入れ、 丁寧に蝋をたらし、封印をほどこし、セージに手渡した。だが、これはあくまで私的なものだ。ケルビムは多忙で、ラブレターなどは目を通していないときく。いくら力天使長官のものだとしても、どれだけの効力があるのか不安だ。
 長官はそんなセージの心を読み取ったのか、初めて、彼に向かって微笑んだ。 
「大丈夫です。不安なのなら、主天使長に仲介してもらえばいいわ」
 それも畏れ多いとは思うが、うなずいておく。
「本当なら私が付き添えればいいのですが、なかなか難しいので、ごめんなさいね」
 力天使はいつ呼び出されるか分からない。担当している能天使が怪我をすれば急ぎ駆けつけ、魔法で治癒する。そのことはセージとて承知している。考えてみれば、力天使は能天使よりも上の階級で、その長官とて、こうして一筆書いてもらえるだけでも畏れ多い。
「い、いえ、すみません。ありがとうございます」 
「こちらこそ、マーシュをよろしくお願い致しますね」
 長官は丁寧におじぎをしてセージとマーシュを見送った。
 セージは部屋を出て、主天使のカウンターへ向かう。
 途中、広場で会った同僚に遅れることを告げる。カウンターにつくと、物腰やわらかい副長官に出迎えられた。 
「おやおや、どうしたんです?」
 マーシュは変わらず、だっこされっぱなしで、口も堅く閉ざしている。 
「あの、ケルビムに取り次いでもらいたくて……」
 そう言ってセージは手紙を渡す。 
「この印は力天使長ですね」
 副長は封印に描かれた百合の花を見て言う。そして、にっこりと微笑んだ。
「大丈夫ですよ。取次ぎなんてなくても」
 そう言われて、手紙を返された。 
「いや、あの、でもですね」
 そうなると、あの階段をマーシュを抱えたままのぼることになる。
 副長は不思議そうな顔をしている。
 どうも、今の長官、副長官はあの二階へと続く階段を特別視していない。 
「ケルビムはとても気安い方ですよ。まあ、聖人たちには厳しいようですが」
 苦笑いをまじえる副官に「はあ」とうなずくことしかできなかった。
 仕方がないので、セージはあの階段をのぼることにする。
 ケルビムの部屋へは一度、やはりマーシュとともに訪ねたことがあったので覚えている。
 白い、両開きの上品な扉をノックする。
 どうぞ、と応答があって、セージは扉を開けて中に入る。
 入るとそこは、すぐにまた扉がある、狭い空間で、左側にはたくさんの引き出しの棚がある。引き出しの中は手紙やら書類が分類されているようで、さらによく見ると、手紙は封が切られていない。つまり、未処理分の書類棚なのだ。
 驚いていると「お待たせしました」とケルビム仕えの天使が、奥の扉から顔をだした。
 セージとマーシュを見るなり、目を大きくする。 
「セージさん。どうなさったんですか?」
 もう何度目かのどうしたの問いに答える気力もない。そんな様子を見かねてか、部屋の中へとうながされる。
 部屋に入ると、ケルビムが大きな机で仕事中だった。
 だが、セージたちを確認すると、一瞬驚いた顔をして、すぐに立ち上がると「セージさん、マーシュ、いらっしゃい」とにこにこ微笑んで言う。 
「すみません。お忙しいのに」 
「気にしないで下さい。前にも言ったかもしれないけれど、僕はお仕事するよりも、マーシュとお話している方が好きなのだから」
 セージは失礼にならないように、手紙をまず側仕えの天使に渡す。
 ケルビムは手紙を受け取ると、すぐに封を切り、目を通した。 
「事情は分かりました」
 やはり、にっこり微笑むと、前に出て近くによる。 
「だいぶ疲れているようですね。マナを用意しましょう。マーシュ、大好きでしょう?」
 ケルビムが言うと、今まで頑なだったマーシュがむくりとセージの腕の中で身体を起こす。 
「ね?」
 マナはマーシュの大好物のお菓子だ。パンのようなもので、それを食べると元気が出る。
 さすがはケルビム。マーシュのご機嫌取りなど、先ほど主天使副長官が言っていた、聖人たちをいなすことに比べればなんてこともないのだろう。
 セージはマーシュを床に下ろす。
 服のはしはつかんだままだが、ケルビムの提案にマーシュはこくりとうなずいた。
 ソファーを勧められてケルビムとともにそちらに移動する。
 すぐにマナとお茶が運ばれてきた。
「マーシュはどうして、堕天するんですか?」
 ケルビムはまずそう訊いた。
 力天使長の書いた手紙にはセージが説明したことも書かれているようだった。
 だが、マーシュはケルビムにも頑なで、口は開かない。
「セージさんのパートナーになった方が羨ましかった?」
「え!?」
 ケルビムの言葉にセージが驚く。
 マーシュは答えない替わりにセージの身体に隠れるようにして抱きついてくる。
「大丈夫。その程度では堕天なんてしませんよ。それとも、妬ましかった? 憎かったですか?」
 違うと言わないマーシュはより、顔をセージの服で隠すようにする。
 セージはただただ驚くばかりだった。
「じゃあ、その方に対していなくなってしまえ、とか思いましたか?」
 マーシュはセージにくっついたまま首を横に振る。
「では、この運命を創った神様がキライになってしまいましたか?」
 首を振って否と答えるマーシュにセージはいくらかほっとした。
「なら大丈夫でしょう」
 ケルビムの言葉をきいてやっと、マーシュは顔を上げ、セージを見上げる。それから首をめぐらせてケルビムも見る。
「ばかだな。そんなことで……」
 セージはマーシュの頭をなでる。
「能天使に力天使がつくのは優秀な人材を失わないためのものです。……が、主天使長に言って、セージさんのパートナーを解任させましょうか?」
 セージはぎょっとする。
「それは、職権乱用というのでは?」
「まあ、その方はがっかりしてしまうかもしれませんが。他にもパートナーがいらっしゃらない、優秀で人気のある能天使の方もおりますし、そちらの方のパートナーになっていただければ角が立つこともないでしょう。でも、ええ、神様が認めてくださるか、どうか……」
「いや、いくら知り合いとはいえ、主天使長も許さないと思いますが」
「うーん……」
 マーシュは思いがけず、大変なことになっていると気づく。
「あのっ、あの……エルダとっても喜んでたから、だから、いいの」
 マーシュはごめんなさいと謝った。
 だが、マーシュの表情は暗く、相変わらず、セージの服はつかんだままだった。
「まだ、不安があるのですね?」
 マーシュはわずかにうなずく。
「まだ、堕天してしまいそうですか?」
 またうなずく。
 セージには一体何がそんなに不安なのか分からない。
「マーシュ、大丈夫ですよ。もし、堕天しても、僕が天使に戻しあげますから」
 マーシュとセージはケルビムを凝視する。
(そんなバカな!)
 堕天したものがまた天使に戻れるなどありえない話だ。
「ほんと!?」
 マーシュは素早くセージから離れ、興奮した様子で前のめりになって訊きかえす。
「ええ、僕はウソは……たまーについちゃいますけど……でも、これはウソじゃないですよ」
 側仕えの天使がイヤそうな顔をしている。
「信じられないというのなら、証拠を見せましょうか?」
 そう言うからにはきっと、記録か何かがあって、それを見せてくれるのだろう。このことが公になっていないのは恐らく、これを知った天使が安易に堕天すると考えられるからだ。
 だが、そう考えたセージの推測は裏切られる。
「そういえば、昨日の堕天使はまだ近くにいるかしら?」
(は?)
 セージの頭に疑問符が浮かぶ。
「夜勤明けの能天使から報告は来てますよ。庭園の茂みで寝ていたと」
 だから捕縛の許可をくれと報告書には書いてありましたが、と側仕えの天使がつけ加える。
 だが、ケルビムはそんなことは聞いておらず「じゃあ」とセージに向き直る。
「ここにつれて来てもらおうかな」
 セージは顔をしかめる。
(俺!?)
 側仕えの天使はイヤな顔を継続している。
「あ、穏便にね。そうだな……”あなたの欲しい情報をあげるから”と、そう言えばきっと素直にきてくれると思うから」
 ケルビムはにこにこしている。マーシュも期待のまなざしでセージを見つめていた。
(やっぱり俺が行くのか……)
 ケルビムの口調がくだけていることにセージは気づいた。これは、お願いという名の命令なのだ。
 セージは仕方なく立ち上がる。
「マーシュはここでマナを食べて待っていましょう」
 マーシュが大きくうなずくのを見て、セージは部屋を出た。思わず盛大なため息が吐き出される。
 側仕えの天使がイヤそうな顔をする理由が分かった気がした。


 フェンネルは寝ていた。仕事がないというのはとても贅沢なことだと、ぼんやり思う。
 心地よい芝生に寝転がり、陽光をあびる。こんなに楽なら堕天も悪くないなどと考える。
 だが、そんなに世の中は甘くない。
「いっっ」
 突然わき腹を蹴られた。
 見れば、昨夜の男の天使が不機嫌そうな顔で見下ろしていた。
「ツラ貸せ」
「は?」
「ケルビムがお呼びだ」
「なな、なんで……」
「あんたが望んでる情報をくれてやるだと!」
「へ?」
 一体何がなんなのか、フェンネルは分からない。
「いいから来いっ」
「ええ!?」
「それともアレか? 殴って気絶したところを運んでやろうか?」
「いっ、行きます、行きます!」
 フェンネルは慌てて返事をする。
 既に背を向けて歩き出していた彼を、フェンネルは飛び起きて追いかけた。
 まっすぐ知恵の館に入る。
 フェンネルはより深くフードをかぶる。
 天使の彼は広場の真ん中を突っきるようで、フェンネルに気づいた天使たちが後ずさって道をつくっていく。
 そして、二階へと続く階段の前へくる。
 フェンネルはそこで歩みを止めた。
 ここから先へは行ったことがない。前を行く彼が階段の途中で足を止めて振り返った。
「早くしろ」
 静かにそう言って、また階段を上り始める。
 フェンネルは生唾をのんで、最初の一段に足をかける。
 胸は早鐘を打ち続ける。
 とうとう滅されるのかと不安になる。
 逃げた方がいいのか、逃げられるのか、色々考えているうちに白い扉の前についた。
 天使が扉をノックする。
 はい、と声があって扉は開かれた。
 入るとそこは変わった部屋だった。すぐにまた扉がある。一体なんのためにあるのか不思議に思いながら第二の扉をくぐった。
「連れてきましたよ」
 そう言う彼の声はなげやりに聞こえた。
「ありがとうございます」
 礼を言った声の主は、昨日見た黒髪黒眼のケルビムその人だった。昨日と違って微笑を浮かべている。
 部屋には、他に昨日の小さな天使と、未分化体の天使がいた。
「お名前は確か、フェンネルさん」
 名前を当てられて胸が大きく跳ねる。
「かつて、堕天使討伐に行ったきり天に戻ってこなかったという天使団の方々のご友人で、真相を調べるために自らの仕事の放棄により堕天」
 すっかり調べ上げられている。
「堕天された方々はかわいそうでしたね」
 ケルビムは本当に悲しそうに言った。
 マーシュと同じことを言うこの天使に驚く。
「彼らは、ただ、地上で暮らしたいだけだった。なぜ、人間に与えられて、我らに与えられないのかと、そう、嘆いていたそうです」
 それは信じてもいいと思える内容だった。
 フェンネルの友人は地上に憧れていたからだ。
「もっと詳しい情報が欲しいですか?」
 フェンネルは床を見る。
 本当だった。
 彼らが堕天したのは、本当だった。いや、そんなことは知っていた。
 ただ、信じたくなかった。
 自分だけ、置いていかれたような気がして。
 涙がこぼれた。
 小さな手が、背中にふれた。
 心配そうな顔が見上げていた。
「あなたはまだ戻れる」
 フェンネルは顔をあげる。
(戻る? どこに?)
 フェンネルは目をしばたく。
「あのね、だてんしても、戻れるんだって」
 小さな天使が言う。
(戻れる? 天使に?)
 ケルビムを見る。
 彼はゆっくりとうなずいた。
「戻れますよ。あなたが、戻りたいと願うなら」
「そ、そんな、こと、」
 できるはずがない。願えば……? まさかとフェンネルは思う。けれど「戻りたい……」とフェンネルはそう言っていた。
 ケルビムは微笑む。
「分かりました」
 だが、フェンネルは早くも後悔し始める。
 どうやって戻るのか、その方法を聞いていないからだ。
 次第にケルビムの微笑が、悪代官のほくそ笑む様に思えてくる。
 嫌な汗が出てくる。
 例えば、聖水漬けとか、許してもらうために大変な仕事を押しつけられるとか、そんなことではないかと想像する。
「ではまず、あなたの堕天の記録を抹消しましょう」
 !?
 フェンネルは耳を疑う。
 見れば、男の天使も変な顔をしている。
 小さな天使は意味がわかってないのか、ぽかんとしている。が、未分化体の天使はイヤそうな顔をしていた。
(え? そんな力業?)
 みなが固まっていると、ケルビムはなんでもないように言う。
「そんな難しいことじゃないですよ? ここに記録の原本がありますから、フェンネルさんのところをそっと抜き取って……」
 どこから出したのか、記録簿と思しきファイルから一枚を取り出してしまう。そして手品のようにその一枚を消し去ってしまった。
「これで記録の抹消は終わりました。次は……これまでの期間、資料整理とか適当な理由で仕事をしていたことにします。主天使長に言って、さかのぼって命令書を作ってもらいましょう」
 たんたんと言うケルビムにフェンネルはおずおずと口をはさむ。
「ま、待って下さい、それは、偽装というのでは……?」
 一瞬、ケルビムはきょとんとするが、すぐに無敵の笑みを返す。
「大丈夫ですよ。あとでちゃんと懺悔をすれば。あ、そうそう、あなたも懺悔して下さいね。記録を書き変えることはできますけど、神様ごまかせませんからね」
「え? ええ、はい……」
 とりあえずうなずいておく。
(いや、まさか、本当にこんなことで天使に戻れる? この黒くなった髪も、目も元通りに……?)
 戸惑っていると、心を読んだように言う。
「大丈夫。全部、ちゃんと戻りますよ。その姿はあなたの心が生み出したもの。天使に戻ったあなたはそれに相応しい姿に転変します」
「あ、ありがとう、ございます」
「いえいえ。きっと、すぐに辞令も下りるでしょう」
 一体、何をもってそうきっぱりと言えるのか、不思議でならなかった。でも、彼の言葉は本当だと、そう思わせるものがある。
「マーシュも、不安はなくなりましたか?」
 小さい天使が思いっきりうなずく。
 フェンネルはその小さい天使の手を両手で包む。
「ありがとう」
 このめぐりあわせに感謝せずにはいられなかった。
「てめっ、何してんだよ! 離せっ」
 すかさずチョップがとんでくるが、フェンネルはなかなかその手を離せなかった。

       ***

 あれから最初の休日。マーシュはすっかり元気をとりもどして、セージはマーシュと二人で休日をのんびりと過ごしていた。図書施設の隣のカフェテリアでマーシュの面白かったことや、勉強したことの話を聞く。
 そこに何の前ぶれもなく、大きな声でマーシュを呼ぶものがあった。
「マーシュ!」
 声の方を見ると、腰まである金色に近い長髪をゆらして、大手を振る人物が満面の笑みで駆けていた。やたらとキラキラなオーラを放っている。
「?」
 マーシュは首をかしげている。
 マーシュは主な能天使の顔はほとんど覚えている。力天使は人数が少ない上に毎日通っているのだから、知らないものはないだろう。大天使にしても、例の追加課題の件で仲良くなったひとは覚えている。服装からしてアカデミーの生徒ではない。主天使にはあんなバカっぽい天使はいない。考えても、思い当たる人物はいないのだ。
 やがて、その怪しい人物は二人の前で足を止める。そして、いきなり話始める。
「マーシュ、元気? 僕はねぇ、大天使でね、ケルビム様の手伝いをちょっとやってるんだ。今度一緒にお茶しましょうって、ケルビム様が言ってたよ」
 セージは顔しかめる。
「マーシュ、誰だ?」
 マーシュの耳にささやくように訊く。
「んっとね、ぼくも知らないの」
 やはり、知り合いではないようだ。新手のナンパだろうかとセージは疑う。
「え、マーシュ、僕だよ。フェンネルだよ」
「誰だそりゃ」セージが言う。
 マーシュも考えこんでいる。
「あの、ほら、元堕天使の……」
「ええ!?」
 セージは声をあげる。
 マーシュも驚いて口をあけている。
「なんだそれっ」
 その変わりように驚愕する。そんなに変わるものなのかと。
「すごいよねぇ。まだあれから一週間も経ってないのに」
 フェンネルはやたらと浮かれているようで、顔ににやにやとした表情が貼りつきっぱなしだ。
「よかったね!」マーシュが言う。
「えへへ。マーシュのおかげだよ。本当にありがとう。あ、そだ。一緒にお茶していい?」
「いいよぉ」マーシュは快く了承するが、
「バカ、ふざけんな」
 セージは追い払う仕草をする。
「何飲んでるの?」
 フェンネルはセージにかまわずにマーシュの隣の椅子に座る。
「アイスココア」
「へぇ、甘いの好きなんだ」
「うんっ」
「お前、なに座ってんだよっ 邪魔すんな!」
「邪魔?」
「じゃまじゃないよ?」
「マーシュ!!」
 セージの声がカフェテリアに響く。
「俺も堕天するぞっ」
 ぼそりと言うセージにマーシュは、
「そしたら、またケルビムにお願いすればいいよ!」
 まったく心配する素振りのないマーシュにセージはがっかりする。
「ねぇ?」
「まあ、そうだな……」
 この天界一の天然天使マーシュには、能天使期待のルーキーも形無しだった。
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