落ちこぼれ天使の奮闘記

真乃晴花

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第三種接近遭遇 悪魔ディールの場合

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 悪魔とは、自由天使だったもの。人間を貶めた蛇と呼ばれるもの。天国戦争で堕とされた天使だったもの。かつては人間から神と崇められたもの。罪を重ね続ける悪そのもの。神を憎み、人間が天国へ行けぬように働く、知識あるもの。
 それだけ?
 それだけだろうか?
 なぜ、悪魔は生まれた?
 神は全知全能ではないのか?
 悪魔であるディールにはいつも、そんな疑問が頭にある。
 そんなことを考えながら、彼は堂々と知恵の館に足を踏み入れる。
 彼は天使と変わらぬ、いや、平均以上の容姿をしている。金に近い、ゆるくウェーブのかかった肩に届く長さの髪に、長身で能天使のような肉体を持ち、軽薄そうだが、甘い顔に、都会的だが、決して下品ではなく貴族を思わせる歩き方と仕草はとても目立って、華やかだ。
 パンツのポケットに両手をつっこんで歩く。
 好みの天使を見つけて、さりげなく近づくと、ぽんと気安く肩を叩いて、声をかける。
「ねぇ、仕事終わったらさ、どう?」
 声をかけられた天使は、驚き振り返る。
「だ、だめ」
「なんで? いいじゃん」
「だって……」
 中性のその天使は、ディールが悪魔だと知っている。ナンパをするような天使はいないから、すぐに分かる。
 でも、頬を赤らめて、ためらいがちに断る。悪魔だと知って悲鳴をあげることなどしない。
 ディールはこの知恵の館ではしょうもない悪魔として有名で、能天使が駆けつけても、捕まりはしない。もはや、誰もが彼を捕まえることをあきらめていた。こうしてナンパしに来るだけなので、躍起になって捕まえる必要もないと、放っておいている。
「じゃ、また今度ね」
 ディールは潔くその天使から離れた。
 一番の好みの天使が目に入ったからだ。急いで近づく。
「ケルビム!」
 進路を遮るようにして彼の前に立った。
 その美貌は相変わらずで、美しさもさることながら、そのゆっくりとした上品な仕草はどこか、この天使の周りの時間がそのままゆっくりと流れているのではないかと思わせる。こんな仕草を持つ天使は他にいない。人間だった時から持ち合わせているものだというから驚く。
 そして、それを鼻にかけない気安さ。
「ディール、また、こんなところをうろうろして」
 コミカルに困ったような顔をする。
 先程の天使のように、顔を赤らめるなんてことはない。
 このケルビムという天使は、どうも、美醜の区別がついてないらしい。
 実は、ケルビムには恋人がいて、ディールはその恋人の顔を知っていた。ハンサムでも美丈夫でもない、三白眼の悪人顔とディールは認識している。
 ケルビムは、そんな恋人にベタ惚れだった。
 最初は、自分の顔で美形には慣れているのだと思ったが、そうではない。自分の顔も美人だとは本人はまったく認識していないと分かった。
「ケルビム、今夜つきあってよ」
「ディール、僕はとっても忙しいの」
「夜くらい、いいじゃん」
「僕の睡眠時間、どれだけだと思ってんの?」
「それは、アレだろ? 恋人に会いたいがために仕事を詰めまくってるからだろ?」
 ケルビムは図星をつかれ、表情こそ変わらないが言葉が出てこなかった。
「ちょっとやりすぎじゃない?」
 ケルビムは、恋人に会うために、締め切りのある仕事は水曜日には終わらせ、木、金、土はほぼオフにするという、天使にあるまじき不純なスケジュールを実行している。このことを知っているのは、ごく一部で、恋人がいるということを知っているものと同じ数だけだ。
 ディールはケルビムの弱みをにぎっていると言えた。
 だが、ケルビムはにこやかに睨むと言う。
「ここに、二度と来られないようにしてもいいんだよ?」
 残念なことに、ケルビムの方が力関係では上だった。
 いや、ディールとて、天使と比較したら、能天使以上に強い。だが、この穏やかそうなケルビムは、光の剣を持つ大天使ミカエルに次ぐほどに強かった。そう、最初こそ、力で劣る中性の天使が智天使就任となってがっかりしたものだが、ふたを開けてみれば、なんてことはない。元人間のせいなのか、天界の常識は通じないわ、かなりわがままだわ、悪魔は手なづけるわ、剣技はさることながら、その速さも度肝を抜く、とんでもない天使だった。こんな週休三日が通っているのは、誰も文句が言えないからだ。
 天は彼を必要としていて、たとえ彼が罪を犯しても堕天することはないと云われている。
 彼にいなくなってもらっては、天が困るのだった。
「ケルビム!」
 ぽふっとケルビムのふくらんだスカートに飛びついてきた天使がいた。
 やけに小さい。
 その天使は、ディールに気がついて、ケルビムにしがみついたまま振り返る。
「だれ?」
「このひとは悪い人だから、マーシュは近づいてはダメですよ」
 ケルビムはにっこりと、悪びれもなく言う。
 まあ、実際そうなのだから、仕方がないとは思うが。
「誰だ?」
 今度はディールがその小さな天使を指差し、ケルビムに訊いた。
 こんな小さな天使が、この知恵の館にいるはずがない。
「僕のお気に入りだから、手を出したら消し去るからね」
 彼はそう言うと、その天使を庇うように、腕をまわして、自分に引き寄せるようにする。
「誰も、こんな小さいのに手を出したりしねぇよ」
「悪いひとなの?」
 話しを聞いてないのか、小さな天使はケルビムに訊く。
「そうなの。だから、お菓子を貰っても、ついていったりしてはダメだよ」
 小さな天使はもう一度、ディールを振り返って、じーっと上から下まで見つめる。
「どうして、悪いひとなの?」
「気に入った天使がいると、その天使を悪魔にしてしまうからなんです」
「ふううん」
 知能が明らかに足りてないとディールは感じた。
 おそらく、分かっていないだろう。
「それより、どうしたの? 僕に用事があったんじゃないの?」
「あ! うんとねぇ、コレ! 力天使長官が是非今度のお茶会にきてださいって、招待状」
 小さい天使はピンク色の封筒をケルビムに渡す。
「力天使長のお誘いを断ることはできませんね。お伺い致しますと、伝えて下さい」
「はい」
「マーシュ、ありがとうございます。気をつけてお戻りなさい」
「はーい!」
 元気に返事をすると、その小さい天使は駆けていく。
「それじゃあ、ディール、僕ももう行きますから。あまり中性の天使を困らせないようにして下さいね。僕がかばうのにも限界がありますから」
「分かってる。じゃあ、また夜に」
「来ても無駄ですよ」
 ケルビムはそう言って去っていく。
 やはり、ディールにとって、いや、悪魔にとってケルビムの存在というのは特別で、少し相手にされただけで満たされる。
 ケルビムは悪魔という存在がどういうものか、すべてではないにしても、理解している。
 彼がいるからこそ、第二次天国戦争が勃発しないのだと云っても過言ではない。
 悪魔は堕天使と同じ。好きな人には一生会うことはない。
 それが苦しいとか感じたことはないが、常に飢えているような感覚がある。
 満たされても、またすぐに乾く。
 ケルビムはそれを少なからず緩和してくれる。
 彼を頼る悪魔は多い。
 部屋に行けば別の悪魔がいるなんてこともある。ケルビムの部屋の二重の扉は、そのためだけではないが、そんな時のためにある。悪魔が部屋にいたとしても、他の天使にはバレないようにするためのものだった。
 そんなケルビムを悪魔は歓迎した。
 そこに、救いがあるのではと思わせるものが、彼にはある。
 救いなど、求めているつもりはないのだけれど、と多くの悪魔が思いながら、彼の元を訪れていた。
 だが、決して、彼はディールを受け入れようとはしない。
 だから、何かが宙に浮いているような気持ちになるのだ。
 そう思うと、少し悲しくなる。


 その日の夜、ディールはケルビムの部屋を訪ねた。
 すでに側付きの天使はいない。
 ケルビムは机に向かって、書類にペンを走らせていた。
 よくもまあ、ずっと座っていられるものだとディールは思う。
 ディールは、そんな様子をソファーの背もたれの部分に腰掛けて見ていた。
 だが、一向にこちらを見ようともしないケルビムに、ディールはしびれを切らして、机の前まで行く。
「なあ、そろそろさあ、」
「ディールこそ、そろそろ帰ってくれないかなぁ」
 ケルビムは手を休めることなく、ディールの言葉に重ねて言う。
「一回くらいいいじゃん。懺悔は得意なんだろ?」
「なんで僕が懺悔しなきゃならないの」
 そう、きっとケルビムを抱いたとしても、彼が堕天することはないだろう。
 彼がどんなタブーを犯したとしても、それが彼の道理なら、堕天することはない。罪悪感がないからだ。
 その辺が悪魔と似ている。
 悪魔には罪悪感がない。それが堕天使とは違うところだ。
 ケルビムがため息えをついて立ち上がる。
 手を伸ばして、ディールの頬にそっと触れた。
「おやすみ、ディール」
 そう言って、奥の部屋へと消えた。
 残ったのは、静寂のみ。
 ディールは長いため息をついた。
(あんたがツレないから、他のに手を出すんだからな、俺は……)
 分かって、ないんだろうなと少し凹みながら、ディールはケルビムの部屋を後にし、天使を狩りに行く。

      ***

 あれからしばらくして、ディールはまた知恵の館を訪れては、好みの天使に声をかけていた。
 だが、昼間はつかまることはない。これは、夜に会った時の伏線だ。
 また、一人フラれ、その天使を見送る。
 そして、次のターゲットを決めるために首をめぐらす。
 ふと、先日の小さな天使が目に入った。
 図書施設のカウンターで、背伸びをしている。本を借りているようだった。
 ディールはどうにもマーシュとかいう小さな天使のことが気になった。
「ねえ、あの小さい天使はなんなの?」
 近くを通りかかった中性の天使に訊いた。
 その天使は気さくで、すぐに答える。
「マーシュね。あの子は、今は大天使だけど、ケルビムの口添えで力天使になるために、毎日力天使のお部屋で勉強してるのよ。ちょっと、羨ましいわよね。恋人も能天使のルーキーだし。私なんて、恋人もいないっていうのに」
「ふーん。じゃ、俺がなってあげようか。恋人に」
「いー、やっ」
 ものすごく嫌そうな顔をされる。
「マーシュを好きな天使は多いわ。ちょっかい出したら、あなた、今度こそ、ここにいられなくなるわよ!」
 その天使はさっさとディールから離れる。
「それにしても、力天使って……あんなのがなれるわけないだろ」
 ディールは笑う。
 少し、ムカムカした。
 きっと、誰もがなれるわけがないと思っているに違いないのに、そう思うことは天使として相応しくないから、応援しているフリをしているのだ。そう思うと、とても天使というものが嫌いに思える。
 本気で思っているのは、きっと、そんなことすら考える頭のない本人だけに違いない。
 そんな天使は堕としたくなる。
「つうか、あんな天使を恋人にするやつの神経が知れねー……」
 ディールは、マーシュを目線で追う。
 本を抱えて、こちらの方へ来る。ディールの数メートル先を通り過ぎて、そのまま知恵の館から出て行った。
 ディールもその後を追う。
 小さな後ろ姿は、無駄に曲線を描く道を進んで、先にある、丸い屋根のついた小さなガゼボに入った。頭だけが見えている。
 ディールもゆっくりとそこへ向かう。
 中をのぞくと、マーシュは一所懸命本を読んでいた。
 その目は真剣で、ディールにはいささか眩しい。
 マーシュは、ディールに気がついて、視線を本から彼に移した。
「何読んでるんだ?」
 挨拶がなさそうなので、ディールから話しかける。
「魔法の本」
「……魔法?」
 どう見たって、魔法が使えるとは思えない。
 肩に届かない短いボブスタイルの髪では、例え、魔法の理論が正しかろうと、モノにならない。
(そんなことも知らないのか。んで、誰も教えてないのか?)
 その本のタイトルを見ると、回復系の魔法書だとわかる。
(よりによって、回復系? 無理にもほどがあるだろ)
「おまえ、そんなの、読んで理解できるのか?」
 そう言うと、マーシュは俯いて、悲しそうな顔をする。
(なんだ、分かってるのか……)
 かなり根性がある。
(いや、どれくらい大変なこと分かってないのか? だから、頑張れると思っているのか……)
 ディールは先の天使の言葉を思い出す。
『マーシュを好きな天使は多いわ』
 その言葉はあながち偽善ではないらしい。
 確かに、好感がもてる。
 この天使には。
「どれ、見せてみろ」
「分かるの!?」
「俺は元力天使だからな」
「ええ~!! すごーい!」
 顔を輝かせて、マーシュは身体を乗りだす。
「教えてやるから、ノート出せ」
「ノート?」
「ただ読んだだけで魔法が使えるようになるわけないだろ」
「ケルビムは読んだだけって言ってたよ?」
「あのひとは天才なんだよ!」
「そっか……ノート、取ってくる!」
「待て待て! 今日はいいから、座れ!」
「明日も教えてくれるの?」
「気がむいたらな」
「えー」
 残念そうにするも、すぐに真剣な顔をして座った。
 勉強のやり方も知らない。誰も教えない。だから、天使は頭の悪いのが圧倒的に多い。少数階級の力天使はもともとその才に恵まれたものしかいない。主天使は勉強法を知っている、数少ない天使だ。
 力天使の部屋で教わっているとは言うものの、きっと、本を読んだり、講義しているだけだろう。
 それだけでは、とうてい、このおバカな頭に刻みつけることなど不可能だ。
「そもそも、お前、なんで力天使になりたいんだ?」
「んっとね、セージが怪我したら、僕が治してあげたいの」
「そのセージっていうのが恋人なのか?」
「えへへ」
 とろけたような顔をマーシュは見せる。
「ふうん」
 うなずいたものの、どうしても恋人がいるようには見えない。
「セックスはしたのか?」
「? せっくす?」
 これは、明らかにしていない。
「じゃあ、キスは?」
「きすって?」
 ディールは絶句する。
(おいおい。キスもまだかよ。それで恋人?)
 目の前の天使は首をかしげて、ディールを見ている。
「キスもしてないなんて、そりゃ、恋人じゃねえな」
「え?」
 一瞬でマーシュの表情が曇る。
「キスもしない、セックスもしてないなんて、おかしい! ありえない! ホントに恋人か?」
「ほ、ホントだもん! セージは、僕のこと、好きだもん……」
 今にも泣き出しそうだった。
「俺が、恋人になって、キスも、セックスも教えてやるよ……」
 甘くささやく。
 ディールはマーシュに手を伸ばして、触れる。
 曇った瞳は、彼にとっては最上のごちそうだった。


 フェンネルは、見ていた。
 マーシュが本を抱えて外に出て行く様子を。そして、その後をつける悪魔が、マーシュに接触する様子を。
「ケルビム! 大変です!」
 そう言って乱暴に扉を開けて、ケルビムの執務室に飛び込んだ。飛び込むなり、叫ぶ。
「マーシュが、あの、あの悪魔と、一緒にいるんです!」
 フェンネルの報告にケルビムは青くなる。
 今まで、何人もの天使が彼の餌食になろうと黙ってきたケルビムだが、対象がマーシュとあっては無視できない。
「どこ!?」
「案内します!」
 急いで部屋を出て、ケルビムはフェンネルの後を追う。
 階段を降りて、ホールを走る。知恵の館を飛び出して、少ししたところで、フェンネルが指差す。
「あそこです!」
 彼が指した丸屋根の休憩所の中には悪魔ディールとマーシュの姿があった。
 顔が近づきつつある。
 だが、この距離、いくらケルビムといえど、間に合わない。
「こんっのっ……」
 ケルビムは棒を腕輪から取り出すと、思いっきりそれを槍のように投げた。
 そのコントロールは見事なもので、ディールの頭を直撃するのが見えた。
「いっっ……!」
 ディールが、頭を抑えるその頃には、ケルビムはすっかりその中にいた。
「な」と言ったところで、ディールは声を発せなくなる。
 凍てつくような冷めた怒気がケルビムからゆらりと毒の煙のようににじんでいたからだ。
「マーシュに手を出したら、消し去るよって、言ったよね」
「ま、まだ、出してないじゃん!」
 ケルビムは裁決を下す算段をつけているようで、その間が恐ろしい。
「はあ、もう、しょうがないな……」
 ケルビムは困ったような顔を見せる。
「さっきので、許してあげるよ」
 さっきのというのは、棒を投げつけたことだろう。
「ええ!? 許しちゃうんですか?」
 フェンネルが声を上げる。
「君も許してあげたってことを忘れないように」
 言われて、フェンネルも肩をゆらす。
 彼も、ディールと似たようなものだった。
 ケルビムはマーシュに向き直る。
「マーシュ? 大丈夫でしたか?」
 ケルビムは声をかけるが、マーシュは何も見えていないようで、あきらかに、様子がおかしかった。
「マーシュ?」
 何度声をかけても、同じで、反応がない。
「マーシュに何を言ったの」
 それは、恐ろしい、問いだった。
「……恋人がいるのに、セックスもしてないなんて、おかしい…って……」
 顔を見なくても、ケルビムがどれだけ怒っているのか分かった。
 だが、許すと言った手前なのか、殴るのをこらえているかのようで、ケルビムはきつく両手を握り締めるにとどまった。
 いっそ、殴ってくれればいいのに、とディールは思う。
 同情されるのはごめんだ。
 悪魔だから、好きな人には一生会えない。
 ケルビムはそのことを自分のことのように、悲しんでいた。
 はあ、とため息をついて、ケルビムはその場に座りこんでしまう。 
「困ったね」
 重い空気がその場を支配する。
「フェンネル、セージを僕の部屋に連れてきて」
「はい」
 フェンネルはその場から逃れることができた。
 でも、安堵することはできず、セージを呼ぶのになんて言ったらいいのかを悩みながら知恵の館へ向かった。
「マーシュは、自分に自信がない。ディールと違って、優秀じゃない。アカデミーじゃ天使達の悪い口に心をすっかり閉ざしていたって聞いた。なんとか、大天使になって、今はマーシュを救ってくれた恋人のために力天使になろうとして頑張って勉強してる。でも、自信がないから、いつか嫌われるかもしれないって、不安でいっぱいなのを隠して、健気に笑ってるような子なんだよ。まあ、マーシュはダメで、他の子ならいいっていうわけじゃないけど……それで、ディールが少しでも癒されるならって、思って黙認してきた。でも、もっと違うことがあるんじゃないの?」
「……キレイごとばっかりだな」
「キレイごとを忘れたから、あなたは堕ちたんでしょう」
 ケルビムは立ち上がると、未だ虚空を見つめるマーシュを抱える。
「ディールは……、後でちゃんとマーシュに謝ってよね」
 それは、今日はもう帰れということだ。
 そして、また顔を見せてよね、というケルビムの想いでもあった。
 ディールは返事に迷う。
 こんなに泣きたくなったことはこれまでなかった。
「あ、セージはマーシュの不安をよそにメロメロに溺愛してるから、怖いからね」
 にっこりと笑って、ケルビムは出ていった。
 ディールはつられて吹き出してしまう。
「面白い。その恋人とやらに言ってやるよ」
 独り言を残して、ディールは天を後にした。


 セージは第六天のゲート前にいた。
 警備の仕事だった。
 ふいに、聞いたことのある、ちょっと間延びした声が後ろから聞こえた。
「おーい。セージくーん」
 ゲートを振り駆れば、金に似た色の長髪の男性がいた。
 フェンネルだ。
 彼は、やたらキラキラしいオーラを放っていて、明るい。ちょっと前まで堕天使だったいうのに、それを知らないせいなのか、妙な明るさのせいなのか、能天使でもないのに、あっという間に人気者になった。
 のだが、今日はなんだか、困ったような顔をしている。
 嫌な予感がする。
 彼が来るということは、マーシュがらみに違いないからだ。
「どうした?」
「いや、あの、とっても言いにくいんだけど……」
「さっさと言え!」
 穏やかそうに見えるセージだが、彼はかなり短気だった。
「いや、あのさ、君とマーシュってどこまでススんでるの? って痛っ!!」
 フェンネルがそう聞いた瞬間、彼は思いっきり殴られる。
「そんなこと訊くために俺を呼んだのか!?」
「いや、違うよ!」
 フェンネルは慌てて手を振って、また殴りかかりそうな彼を牽制する。
「だったらなんだ」
 低い声音でセージは訊き返す。
「マーシュがさ、その、つきあってるのに君が何もしないもんだから、実は、まあ、好きじゃないんじゃないかって考えちゃったみたいでさ……その、ショックでお人形さんみたいになっちゃったんだよね……」
 セージはまたかと思う。
 こんなことは前にもあった。
 だが、それを聞いて、冷静でいられるほどセージは気長ではない。
「なんでそれを早く言わないんだ! つうか、なんでそんな話しになるんだ!! お前か!?」
「違う違う!! いつもこの辺うろうろしてるディールって悪魔だよ!」
 その悪魔のことはセージも知っていた。
 捕まえようと思っても、駆けつければ逃げた後で、追跡命令が出なければ、天から出た悪魔を追うことはできない。追跡命令が出ないのは、傷害等の被害がないからだった。彼によって堕天した天使がいたとしても、堕天はそもそも、その堕天した者の責任だからだと、軍の最高司令官であるケルビムが考えているから、まず命令が出ない。
「ケルビム様が、部屋に来いだってさ」
 セージは我に返る。
 なんで手を出さないのかという説教が待っているのではないかと、不安になる。
(出せるわけないだろ。あんな、何も知らないのに……)
 セージだって男だ。キスくらいならしようと思ったことはたくさんある。あるのだが、キスすら知らないマーシュは、顔を近づけても目を瞑らない。でっかい目が不思議そうに見つめているのだ。いくらなんでも、気が咎めるというもの。
 セージは盛大なため息をつくと、持ち場を離れることを上官に告げにいく。
 ケルビムからの呼び出しと言えばすんなりと了承が得られた。
 セージはフェンネルと二人で知恵の館まで行く。
 ケルビムの部屋に行くのは、もう一体何度目なのか。
 いいかげん、広場に流れ落ちるようにある階段ものぼり慣れる。
 ケルビムの部屋の奇妙な二重の扉にも驚くことはもうない。
 失礼します。と声をかけて入室する。
 マーシュはソファに座っていた。
 ローテーブルには、ティーセットとマナが置いてある。
 セージが来たことを知ったマーシュは彼に対して、背を向けるようにななめに座りなおした。
 だが、手は口もとにあり、明らかに、もぐもぐと好物のマナを食べている。
 元気がなくても、お菓子を目の前にすれば、目を輝かせる。それがマーシュだった。
 セージは少しほっとする。
「いらっしゃい。セージさん」
 にこやかにケルビムが迎える。
「マーシュの様子がちょっとおかしかったので、セージさんを呼んだ方がいいかしらと思ったのですけれど」
 お菓子を与えたら、もとに戻ったらしい。
 顔を見るために、ソファーの方へ行くと、恥ずかしいのか、まだもぐもぐさせながら、そっと上目使いでセージを見た。
「マーシュ、あの悪魔になんかされなかったか?」
「……ん、だいじょうぶ」
 実害はなかったようで、ほっとする。
「ねえセージ、せっくすってなに?」
 マーシュのその質問に、その場の空気は一瞬で凍り砕けたようになる。
「な、なにって、」
 簡単に答えられるものではない。
 辞書に載っているようなことを言ったって分かるはずもない。
 保健体育のような講義をするには抵抗があった。
「恋人同士なのに、せっくすをしないのはおかしいんだって……そうなの?」
「おかしいかといわれれば、おかしいかもしれないけどっ、おかしくないといえば、おかしくない!」
 セージはそんな風にしか答えられなかった。
「……おかしいの?」
 今度はケルビムに向かってきく。
 問いかけられたケルビムは今まで見たこともない、微笑みながらも、焦っているかのような、表現しがたい顔をしていた。
 ケルビムは元人間でありながら天使になった。つまり、人間だった時は聖人のはずだ。そんな人間が、性行為を体験しているとは思えない。天使になってから、恋人ができたとかの話しも聞かない。
 彼が、なんと答えるのか、セージは注目する。
「そうですね……えっと、人や僕たち天使っていうのは神様の一部から創られたものだから、神様とひとつになりたいっていう想いがあるのだけど、でも、それは、意識の表面には出にくいもので、無意識下のうちにあるものなの。惹かれあって繋がるということはそれに起因しているのだけど、つまり、それは、好きあっているからこその衝動というか、想いなんです」
 ケルビムは赤面しながら答える。
 これは、体験済みなのだ。
 セージは驚く。
 でも、そう、元人間ということは、彼は元は男性だったはずである。女性は天使にはなりえないからだ。だというのに、現在、男性ではなく、中性ということは、分化の際に男と交わった可能性がある。ということ。
(だとすると……)
 セージはそこまで考えて、思考を遮断した。
 それは、ありえないことだからだ。
 それにしても、マーシュにはいささか難しい説明だった。
 そして、精神論であり、やり方ではない。
 まあ、やり方を説明されても困るものはあるが、とセージは思う。
「よ、よくわかりません……えっと……じゃあ、セージと僕は好きあってないってことなの?」
 マーシュがぐずるように涙を浮かべるとケルビムは慌てて否定する。
「そ、そうではなくてですね、えっと、天使と人の違うところは、人には子孫を残す使命があるから、その欲望っていうのが強く備わっているの。でも、天使っていうのは、かつての自由天使とか、地上で働く権天使がいい例で、神様から遠い天使は神様から離れていってしまうように、ひとつになろうとする意識がとても薄いの。逆に一番神様に近い熾天使は生まれてすぐに神様のもとへ帰ってしまう。つまりそれは、ついこの間まで最下級天使だったマーシュにもいえることなの。マーシュはセージさんとひとつになりたいと思ったことがある?」
「だっこしてくれると嬉しい……」
 顔を赤らめながらマーシュは言う。
「たぶん、セージさんはもっと、その気持ちが強いのだと思うのだけど、マーシュがセージさんと同じくらいその気持ちが強くならないと、その、ひとつになるっていうことは、できないの」
 できなくもないが、あながち間違ってもいない。
「……おんなじくらいだもん」
 マーシュはぷくっとほほをふくらませて、セージをにらむように見る。
(いやいや、同じじゃねえし……)
 セージの他もそう思ったようで、誰もマーシュの言葉を肯定することはできなかった。
「わかった。してやるから……」
 セージはとりあえずそう言う。
「ほんと!?」
「ああ」
 そのうちな、というセリフは口に出さずに、セージはうなずく。
 マーシュはふくれっ面を一瞬にして晴れやかな笑顔にすると、セージに飛びついた。
 セージはそのままマーシュを抱える。
「どうも、お騒がわせして、すみませんでした」
 セージはケルビムに頭を下げる。
「いえ、この件は、僕の、ディールに対する監督不行届きでしたので、マーシュには不快な思いをさせてしまって申し訳ありませんでした」
 ケルビムはどことなくホッとしたような顔をして言った。
「ディールには後ほど謝罪させますから」
「いえ、いいですよ……」
 正直、あんな性質の悪い悪魔には二度とマーシュに近寄ってもらいたくはない。
「ディールは、そんなに悪い悪魔ではありませんよ」
 少し、悲しそうな顔をして言うケルビムに、セージは何も言えなかった。
 悪魔に良いも悪いもあるわけがないと、そう思ったからだ。
 セージはそのまま「失礼します」と言ってケルビムの部屋を後にした。
「本当に悪い悪魔がいるなんて、僕は思わない」
 ケルビムは、セージが出て行った扉に向かって言った。


 ケルビムの部屋を出たところで、セージは抱えていたマーシュを下ろす。
「目ぇ閉じろ」
「目ぇ?」
 マーシュは首をかしげて聞き返す。
 マーシュは何をするにも理由が必要だった。
 そんなマーシュにセージは少しイラっとする。
「早くしろ」
「なんで?」
「いいから」
 流石にキツくなったセージの口調に、マーシュは目を瞑る。
 それを確認して、セージはマーシュにくちづけた。
 唇を離すと、マーシュはすぐにその瞳を開く。
「なに? 今の、なに?」
 マーシュにはムードもへったくれもない。
 普通なら、赤面するところだというのに。
「今のがキスだ」
「キスって? 目、瞑ってたからわかんないよ」
 それもそうだ。
 だが、セージも天使の端くれ。ただのキスだが、それさえも説明するのはかなり恥ずかしかった。
 第一、どうしてそんなことをするのかと訊かれたら、答えることができない。
 この、どうしてどうして魔をあなどってはならない。
「あとで、教えてやるから……」
「せっくすは?」
「それは、マーシュが俺のパートナーになってからな」
「どうして?」
「マーシュは何も知らないから」
 セージは微かなため息をつく。
「色んな人と出会って、色んなこと思って、考えて、俺のパートナーになった時も、マーシュが俺のことを好きだった、その時はしよう」
「好きだよ。そんなの、分かるもん」
「俺は、能天使だから……」
「能天使だから?」
 能天使は悪魔と戦う。悪魔にやられたら、死ぬこともある。
 自分の好き勝手にマーシュを愛して、それで死んだ時は、マーシュはどうなる?
 能天使のパートナーになる天使はそれを覚悟する。
 だが、それでも、愛する人を失った悲しみで精神を病んで、後を追うことが多い。
 セージは、マーシュにそんな思いはさせたくなかった。
 それは違うんじゃないかとも思うが、セージは、マーシュにちゃんと知ってもらいたかった。それで、選んでもらいたい。俺でもいいのかと。抱いてしまえば、お互い裏切ることはできない。マーシュは不満かもしれないが、まだ、選択するまでにも至らない、この、小さな天使を抱くことは避けたかった。
「大丈夫だ、マーシュなら」
 きっと、自分を選んでくれると、セージは思う。
「すぐに力天使になって、俺のパートナーになれるさ」
 セージは話をごまかす。
「大丈夫だ」
 そう言って、マーシュを優しく引き寄せて、キスをする。
 唇を離した時、マーシュは驚いていて、瞳をキラキラさせていた。

     ***

 ディールは天にきたものの、知恵の館には入りにくく、日陰で休んでいた。
 人影が、ゆっくりと近づいてくる。
 その影の歩き方で、誰か分かった。
「ディール、マーシュに謝罪に来たのでしょう? 僕もついて行ってあげるから、一緒に行きましょう?」
 にっこりと、まるで、子供に言うようにケルビムは言った。
 この人には敵わない。
 ディールは無言でうなずくと、ケルビムの後ろを歩いて知恵の館に入って行った。
 ケルビムは指をさす。
 その先にマーシュがいた。
 ディールはそこへ向かって真っ直ぐ歩き出す。
 男と一緒だった。
 仲良さげに、なにやら会話をしている。
「あんたがセージ?」
 後ろから、その男に向かって声をかけた。
「そうだけどって、てめーわっ!」
 振り向き、ディールの顔を確認すると、彼は眉をつり上げた。
 優しそうな顔をしていているが、そこは能天使らしい。
「あんた、そうとうヘタレだよね」
「なっ!」
「マーシュ、こんなの、やっぱやめた方がいいぜ? 俺なら満足さしてあげられるよ?」
 マーシュはきょとんとした表情で、ディールを見つめる。が、すぐに、そのアホっぽくも可愛らしい顔はセージが間に割り込んで見えなくなる。
「マーシュに変なこと言うな! 何しにきたんだ!」
 そう言われて、本来の目的をディールは思い出した。
「あー、えーと、謝罪?」
「どこが謝罪なんだよ! 二度とマーシュに近づかないって言え!」
「なんだそりゃ、そんなこと言わせないと、あんた安心できないわけ? ちっせー男だな」
「なにお!」
「マーシュ、今日はノート持ってるか?」
 セージのことは無視して、マーシュに訊く。
「うん!」
 酷いことを言って傷つけたのにもかかわらず、屈託なくみせる輝いた表情はディールをほっとさせた。
「セージサン、今度っからマーシュの勉強は元力天使の俺が見るから」
「なっ、そんなの間に合ってる!!」
「なんだよ、ひとが親切に言ってるのに、無碍にするのか?」
「親切って、おまえ、悪魔じゃねえか!」
「悪魔を馬鹿にすんなよ?」
 わあわあ言い合っていると、ケルビムが間に入る。
「ディールは力天使の中でも群をぬいての天才だから、彼に教えてもらったら、マーシュも早く力天使になれるかもしれませんよ?」
「ほれみろ!」
「ケルビム!!」
「僕も反対ですね。せめて、誰かが一緒にいないと」
 ケルビムの側ににいた、フェンネルとかいう天使も会話に入ってくる。
「マーシュはこいつのことが好きなんだろ?」
 マーシュに訊くと、すぐに「うん!」と返事が返ってくる。
「だったらいいじゃねえか。何が問題なんだよ」
「お前が教えると、マーシュに変なことまで教えそうだ!」
「変なことって?」
「……っ」
 言葉を返せないセージのことは放っておいて、ディールはマーシュに向き直る。
「マーシュ、この間はごめんな」
「ううん。いいよ!」
 最高の笑みで、マーシュは言った。
 初めて、受け入れられたような気がした。
 何も知らないからこそ、純粋な好意を見せるマーシュは、ディールの新たな泉だと、そう確信する。
 ディールはマーシュを抱き上げる。
 セージとフェンネルの「あ!」という声が後ろで聞こえた。
「じゃあ、ふたりっきりにになれるところへ行こうか」
 マーシュは言葉の意味が分からなくてきょとんとしている。
「おまえ! それ、変態の言うセリフだからな!」
「あいつらおかしいよな。勉強するって言ってんのに、どんなこと考えてるんだろうな?」
「うーん?」
 マーシュは首をかしげる。
「一番の問題は、マーシュだね……」
 ケルビムがこそっと小さく言う。
 セージとフェンネルも、その意見にただうなずくしかなかった。


 力天使とは、傷ついたものを癒す力をもち、その性格は慈しみに満ちている。受胎告知、つまり「あなたのおなかには愛の結晶が授けられましたよ」と知らせる天使として有名。シンボルは清純さを表す百合の花。別名「愛の天使」とも呼ばれる。

   おわり
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