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3 あらあやし どこを向いても化けもの屋敷

3-5 けもののねぐら

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 なにか気に入るところがあったのか、その小動物はデータ室のオフィスをねぐらに決めたらしい。
 犬か猫か鼠かわからず、しかしそのどれにも似ている。やけに人間くさい表情を見せるので、会話はないが相手をしていると楽しくなった。百合の手元にやってきて、撫でろと要求することもある。仕事の邪魔を続けるほど執拗でもないため、小動物への煩わしさはない。
 いまも書類整理をする百合のパソコンに寄り添うようにすわり、丸い目で指の動きを追っている。
「きみのご飯って、どうしたらいいんだろうね」
 どこかでなにか食べているのだろうか、百合にはこれまで動物と暮らした経験がなく、どのくらいこの小動物の世話を焼けばいいか悩んでしまう。百合の知るどの動物とも違う相手だ、食事やトイレはどうしたらいいのか。
 回答にたどり着くより先に、百合は人間に接するように小動物に話しかけていた。
 返事の代わりか、小動物はゴロゴロと雷のような音を出す。のどか胸か、そのあたりから音を発するが、まだ一度も百合に鳴き声を聞かせてくれていない。
 ピコン、とパソコンが鳴った。
 確認すると、功巳から新たなデータが届いている。
 最近は撮影しPDF化された書類――手書きの古い書面を撮影したものだ、それを文字に書き起こすのが主な仕事である。
 届いたデータを確認すると、ページ数にして百枚ほどだ。
 これといって納期はないのだと、データに添えられた功巳のテキストに書かれている。いまのところデータ室で百合が手がけた仕事はすべてそうで、これが現在だけかずっとなのか、そのうち功巳に訊いてみたかった。
 キーボードのとなりにすわった小動物が、百合をまっすぐ見上げている。
 指先を向けると、ふがふがと嗅いでひたいを押しつけてきた。
「きみがあのにおいの原因って、いまも不思議な感じがするね」
 その言葉をどう理解したのか、小動物はくるりと身を反転させた。尻を高く上げ、百合の顔に差し出してくる。
「えぇと、どうしようかな」
 猫を飼っている友人が、しっぽのつけ根をそっと叩くとよろこぶといっていた。この小動物もそうか、とためしてみる。
 トトトトト、と人差し指で叩いたそこは、うっとりするほどやわらかい毛質だった。
 当の小動物は、なにをしているんだ、とでもいいたげな顔で振り向いている。よろこんではいないらしい。
「……猫ちゃんではないのかな」
 しっぽのつけ根を叩くのを止めると、小動物はパソコン本体の横で身を丸めて休みはじめる。
 出自などはともかく、小動物は見た目が愛らしい。
 一度スマホで撮影しようとしたら、電源が落ちてしまったので再チャレンジはしていなかった。
 名前をつけたいが、勝手に百合がつけていいものか。百合は小動物の主は八咫のように思っていて、次に会ったら名前について訊こう――そう決めてから、まだ一度も八咫と顔を合わせていない。
「ね、八咫さんに聞いたけど、経理の鹿野さんのこと好きだったの?」
 小動物が頭を上げた。かすかにゴロゴロという音が聞こえる。
「鹿野さん、いいひとだったよね。フィナンシェ焼いてきてくれることあって、すごくおいしかった。お料理上手なのっていいよねぇ」
 ゴロゴロという音が大きくなっていく。まるで鹿野の話をよろこんでいるようで、百合の口はすべらかになっていった。
 書き起こしに取りかかる前の、ちょっとした休憩時間だ。
「仕事でミスするとね、鹿野さんって叱ったり怒ったりするんじゃなくて、ていねいに話してくれるんだよ。だから逆にミスしないようにしたいなぁって思ったんだよね。鹿野さんみたいな上司ばっかりだったらいいのにな――あ、清巳さんとか功巳さんに文句があるわけじゃなくて」
 ゴロゴロという音がうるさいほど大きくなり、小動物はしっぽを大きく左右に振る。
「誕生日に鹿野さんが――」
 しっぽがパソコンの本体にふれた瞬間、ばつんと衝撃をともなう大きな音が響いた。全身をびりっとしたものが駆け抜け、百合は呆然とする。
 同時に室内が真っ暗になっていた。
「えっ」
 闇に包まれた、と思いきや、光源はすぐそばにあった。
 小動物の身体が光を帯び、明滅する光を放っている上に、ゴロゴロと盛大な音が聞こえてきていた。
 それだけでなく、なにかが爆ぜているような衝撃が空気を震わせている。
「だ、大丈夫? きみ……光ってるよ」
 指をのばしかけたが、一周振り回された小動物のしっぽが光の円を描いた。それが空で起こる稲光を連想させ、百合は手を引っこめた。
「それ、電気? まさか、きみから……い、痛くないの? 具合は?」
 ばちりと音がする。
 どうしたらいいかと逡巡する間もなく、襖がだんだんと叩かれた。
「失礼いたします、失礼いたします!」
 ねえやさんの声だ。
「あ、開けます!」
 まだ小動物の発光は止まらず、おかげで暗闇で惑うことはなかった。
 ごとりと開いた襖の向こう、廊下はいつもとおなじ明るさを保っていた。視線を向けたが、どこにも電灯や窓はない。光源については考えないでおく。
 廊下に手を着いたねえやさんの前に、小動物が降り立った。
「異常ありとのため参りました。これの仕業ですか」
「それが、なにがなんだかわからなくて」
 手を着いたままのねえやさんの背が、ぶわりと膨れた。
 見る間にねえやさんの姿が変わっていく。その背は天井に届くほどになり、廊下をふさぎ、きれいに整えられた頭が入り口にミシミシとめりこんでくる。
「ねえやさん!?」
 後退った百合の鼻先を、鬢付け油の甘いかおりが覆い被さってきた。
 廊下の明かりがさえぎられ、データ室は暗闇で閉ざされていく。
 発光していた小動物は、そのころには明かりとして頼りにならなくなっていた。ばちりばちりと身のすくむ音が何度か立て続けに聞こえたあと、ふっとその光が消失したのだ。
「粗相、失礼いたしました」
 静かなねえやさんの声が聞こえ、部屋に光が差しこんでくる。膨らんでいた彼女の身体が、するすると縮んでいっているのだ。
 ねえやさんが着いた両手の下には、小動物がしっかりとおさえこまれていた。ばたばたと抵抗をこころみているが、自由になれそうな気配はない。
「すみません、ちょっと状況がわからなくて。その子、放してもらえませんか、私のそばでずっとおとなしくしてくれてたんです」
 もがく姿が、まるで助けて苦しいと訴えているようだ。
「いいえ、これの仕業と思われます」
「ですが、この子に停電なんて……」
「如月さま、これの仕業に相違ございません。預からせていただきます」
「いえ、あの……この子、八咫さんが連れてきた子で……停電と関係ないんじゃ」
 犬か猫か鼠か、その正体を百合は知らずにいる。
「これはぬえにございます。雷の獣でございます」
 どこかで聞いた覚えがあった。学生だったころだろうか。
「雷鳴を呼び、操り、害をなすことがあります。お怪我がなくよろしゅうございました」
 いま起きたことは、この小動物にとってはおかしなことではないようだ。
「そ……そうなんですか? どうか乱暴はしないであげてください」
 そう返しながらも、ねえやさんがなにをいっているのか、百合はいまいちわからなかった。
 ただねえやさんの手の下でもがいている小動物の姿は、傍目であっても見ていうれしいものではない。
「これは如月さまのお部屋を害しましたので、処分は功巳さまのあずかりになられるかと存じます」
「じ、じゃあ、いま功巳さんに連絡を……」
 部屋を振り向くが、明かりもなにも復旧していない。パソコンを確かめるが動作せず、廊下に戻ろうとした鼻先で襖が閉じた。
「ま、待ってっ」
 目と鼻の先だったため、暗くとも襖を開くことはできた。
「ああ……っ」
 すでにそこにねえやさんはおらず、当然小動物の姿もない。
 廊下に出たが、さわさわという気配があるだけで、ねえやさんの姿ももがく小動物もどこにも見当たらなかった。
 百合はたたらを踏んだだけだった。
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