闇がしたたる ~三千世界に怪異は嗤う

日野

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1 親しくなりたくない同僚

第3話

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 各部署が共通で使う書類は、ほとんどが手書きで記入するようになっていた。
 会議室の利用記録も同様だ。

「全部パソコンで管理したらいいのに」

 五階の廊下で紅緒はつぶやく。
 エレベーターホールに出してあるテーブルには、花の活けられた花瓶とクリップボードが置いてあった。

 クリップボードには利用記録の用紙が何枚か留めてある。
 応接室や会議室を利用するときは、用紙に使用部署などを記入しなければならない。電気代や消耗品の管理をするため、という名目らしい。わざわざ足を運び用紙を確認しなければ、目当ての時間に空室があるかわからない。とても不便だ。

 週明けの会議室確保のため、紅緒はおつかいで総務を出てきている。

 日付と用途と人数を書きこみ、三嶋のシャチハタハンコを押す。
 そのかたわらを、エレベーターが動く鈍い音が響いていた。
 上から下に降りていくのが、階数表示の明滅でわかる。

 エレベーターの不調に行き会ってから、今日で三日が経っていた。
 念のため管理部に問い合わせたが、最近エレベーターの不調は起きていないとのことだ。エレベーターに乗りこんできた女性がいたが、あの日応接室も会議室も利用記録は白紙になっている。

 ――だからなんだというのか。

 ただひたすら紅緒は納得がいかない。

 妙な時間を過ごした、と流せるならいいが、起きてほしくないことが起きている。
 紅緒のスマホが壊れてしまったのだ。

 手にしていたクリップボードを戻し、紅緒はエレベーターの横にあるドアに足を向けた。
 あの日来客があってもなくても、いまさらあのエレベーターでなにがあったのかはわからない。
 事実として残っているのは、紅緒のスマホが壊れ、修理対象外の診断が下されたこと。

 かかった費用は大きかった。

 そして現在、あの日如月が買ってきたコンビニのお菓子が、紅緒の机の引き出しにいくつか収まっている。
 菓子を目にするたびに、紅緒はあのエレベーターでおかしな事態に遭遇したのだと思い出すことになった。

 胸に残る違和感にどう対処したらいいものか、そこをつかみ損ねている。
 自分以外は、なにも起きていないというのだ。

 居合わせた如月に尋ねても、はぐらかされてしまう。
 彼の手が空いている隙を見て、部の女子社員がすぐ話しかけてくる。如月を狙っている、と公言する中川という女性だ。紅緒があれこれゆっくり尋ねる時間はなかった。

「明かり点いてても、へんに薄暗いのよね」

 足を踏み入れた階段――非常階段であるそこは、掃除もされて清潔だ。警備員もいる社用ビルのためか、外部から入りこんだ部外者が休憩していることもない。
 壁の蛍光灯が煌々と光を放っているというのに、殺風景だからかやけに薄暗く感じる。

 紅緒はあの一件があってからエレベーターを使わず、階段で上り下りをしている。
 もうあんな目に遭いたくない。

 閉じこめられ、外部と連絡が取れない――それだけなら、ただのエレベーターの不調だ。
 しかしスマホがこれまで経験のない圏外になり、遠隔監視しているエレベーターの不調は記録になく、外部の来客の記録もない。
 その上流れた時間もどこかに消えた。

 紅緒はポケットのなかでスマホをにぎりしめる。
 新品だ。

 階段に足をかける。
 おなじことが起こるとは思えないが、極力エレベーターには乗りたくなかった。
 起こったとして、今度も違和感が残るだろうか。
 誰かがおなじ目に遭ったとき、紅緒はどんな反応をするだろう。
 おかしなことがあったね妙だねでも無事でよかった、といえるだろうか。
 それのどこかおかしいの、とそんな言葉を返す可能性がある。結果として、異常はなにも残っていないからだ。

 いやな経験だったのは確かで、エレベーターを前にすると胸がもやもやしてしまう。

「いーち、にー」

 つぶやくように、紅緒は階段の段数を数えながら上ってみた。
 総務部のある六階までの上り下り運動が増えただけで、紅緒の太腿やふくらはぎは筋肉痛になっていた。
 痛みも胸のもやもやも吐き出すついでに、段数を数えていく。

「……へー」

 上り切ってみれば、そこは十三段だった。十三段というだけで、不吉だと感じてしまう。
 踊り場で身を反転させ、さらに上る。
 無意識のうちに数え、そちらも十三段。

「十三って……絞首台の段数だっけ?」

 死刑囚が刑を執行されるときに上る階段の段数――だったような気がする。
 不吉なものとおなじだから、それもこれも不吉になる。
 死者の出た家は不吉だし、事故の多い場所も不吉。穢れが残って淀んで忌まわしくなる。
 よくわからないことが起きたエレベーターも、いまでは紅緒にとって不吉だった。

「残業したくないなぁ」

 六階につながる扉を開け、紅緒はひとりごちる。
 そのうちエレベーターに対するいやな気分も薄れ、忘れていくだろう。
 紅緒は眉間を揉み、総務部のドアを開いた。
 一瞬部内の視線が紅緒に向けられ、すぐに逸らされる。

「確保できました」

 視線を逸らさなかったひとりに、紅緒は報告する。

「そう? おつかれさん」

 部長の居成いなりがうなずくのを見届け、紅緒は自分の席に戻った。
 相変わらず闇に濡れている如月の視線を感じたが、実際のところはわからない。
 彼のとなりの席に腰を下ろそうとすると、キーボードの前にお菓子が置いてあった。個別包装の菓子だ。

「中川さんからですよ」

 となりから声がかかり、離れた席の中川春子に顔を向ける。
 中川は口角を上げ紅緒を見ていた。

「ありがとうございます、いただきます」

 彼女は如月とどうにかなりたい、と公言している。
 如月のとなりの席のため、紅緒は頻繁に彼女の視線を感じていた。
 彼女は如月のとなりの席になりたいらしい。となりと離れた席、どちらのほうが如月の闇濡れを視界に入れなくて済むか。紅緒としてはそれが重要だった――となりのほうがましそうだ。

 さっそく栗饅頭の包みを解く。

 机の引き出しには、如月がくれたお菓子がしまったままだ。隙を見て、ドリンクサーバーなどがある共用スペースに置いてこようと思っていた。
 そこにはご自由にどうぞ、という茶菓子入れが置いてあり、差し入れなどを入れるようになっていた。すると食べたいひとが持っていくのだ。

 引き出しを開くたびに如月からの菓子が目に入り、どうしてもエレベーターでの出来事を思い出してしまう。
 思い出すきっかけを排除したらいい――が、共用スペースには如月も立ち寄るようで、置いてくるタイミングがつかめずにいる。

 一口サイズといいがたい栗饅頭を、モニタから目を逸らさず口に放りこんだ。
 手元の書類を片づけながら、紅緒は足下のゴミ箱に放った包み紙を確認した。石田屋という店名を目に焼きつける。

 おいしい。
 好みにあった味というのはおそろしいものだ。

 紅緒は引き出しのお菓子を見ても、エレベーターを連想しなくなっていた。
 ただ今度は頭から栗饅頭が離れてくれない。お裾分けされた栗饅頭をこんなに気に入るとは、出会いがどこにあるかわからないものだ。

 順調に仕事を終わらせた紅緒は、定時を過ぎてすぐ腰を上げた。手伝えよ、という目線を部内から感じたが、言葉にしてこないのだから帰っても問題ないだろう。
 更衣室でブラウスを脱ぎ、壁にかかっているカレンダーを見上げる。

 金曜日とあってか、周囲で着替える女子社員たちの会話は弾んだものだった。仕事に対する愚痴を語る声が、いつもよりわずかに高い。週末の解放感のためかもしれなかった。
 パンツとかかとの低いパンプスに履き替えるなり、紅緒はトートバッグをつかむようにしてロッカーを閉める。

「お先に失礼します」

 おつかれさま、といくつかの声に会釈をし、紅緒はビルから小走りに出ていく。

 帰りの電車に揺られ、紅緒はとなりと肩のぶつかりそうな混雑のなか、スマホで石田屋を検索する。
 該当する店はすぐ見つかった。
 栗饅頭が看板商品の和菓子屋で、まだ足を運んだことのないエリアにある。
 もう閉店している時間だが、定休日は火曜日だ。

 ――明日いってみようか。

 混み合った電車から降りるころには、紅緒の週末の予定は決まっていた――たらふく栗饅頭を食べるのだ。
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