闇がしたたる ~三千世界に怪異は嗤う

日野

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1 親しくなりたくない同僚

第5話

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 ――休みたい。

 足も腰もだるかった。人目がないなら、公園のベンチで羊羹でも栗饅頭でもかじってしまいたい。
 もう階段を上るのが億劫だが、そこにあるものはたった五段だ。

「……いっち、にっ、さっん、しっ」

 数えながら、意識して足を動かす。重くてだるい。

「……あれ?」

 いま上った階段は、何段目だっただろう。
 わからなくなり、爪先のかかっている石の段を凝視する。
 階段を上る前、目視で数えたときは五段だった。

 紅緒はそれを上った。
 とん、とん、とん、とん――では何段目だろう。
 紙袋の取っ手を強くにぎる。
 いーち、にー、さん、しー。
 数える。
 声が自分のものでない気がしたが、紅緒は目を閉じ耳をかたむけた。

 ――はーち、きゅーう、じゅーう。

 紅緒はひざを折っていく。
 かたい石にしゃがみこみ、きつくまぶたを閉じ、数のことを考える。
 聞かなくともわかっていた。

 この階段は十三段ある。
 視線を感じ、紅緒は目を開けた。

 まぶしい。
 いまは何時だったか。誰かが高いところからのぞきこんでいる。十三段目に立っているのだ。そこから手がのびてきて、紅緒の両肩とひたいと胸元と両膝をつかむ。

 つかみ、押してくる。

 ――じゅーいち、じゅーに。

「三嶋さん」

 背中にひどく冷たいものがふれ、紅緒ははっと我に返った。

「十三段どころか、五段からでも落ちたら死ぬことがあります。気をつけて」

 如月の声だ。
 背中にふれているのは、どうやら彼の手だ。染み入るように冷たい。凍えそうだ。
 それよりももっと冷たい色の目が、いくつもの目が、大小様々な目が、紅緒を見下ろしていた。

「落ちたら落としたくなるって、不思議なことですね」

 ちいさな子供の姿の輪郭を持ち、しかしたくさんの目とたくさんの手を持っているそれは、淀んだ声で「じゅーうさん」と囁いてきた。

 紅緒にふれるたくさんの手に力がこもる。紅緒を押している。階段から落とそうとしている。
 そうだ、ここの階段は五段であって、十三段もない。だが如月の言う通り、五段からでも打ち所が悪ければ死にかねない。

 じゅうさん。

 頭の後ろから、如月が低く笑う声がした。

「誰も落ちたりなんかしない」

 じゅうさん。

「おまえが落ちて、手本を見せてみるか」

 やぁだ。

 きりきりきりきり、と笑う声がしたかと思うと、そこにはもう紅緒を押すものはなにもいなかった。
 だが、その先に女が立っている。

「あ……」

 落ち着いた色味のワンピースを着た女がいる。
 あの女だ。
 会社のエレベーターで乗り合わせたことがある。スマホが壊れてしまったときの、時間の経過などがおかしくなってしまったときの。

「なんでここに」

 女はこちらを向いている。
 顔が見えているが、そこにある造作がわからない。目にした端から忘れる。
 紅緒は目を凝らした。
 肩と手から、荷物がすべり落ちていく。
 荷物に構わず、紅緒は女を見つめる。
 なんとしても女の顔を覚えておきたくなっていた。

 ついさっき、長い階段をあとから上ってきていた女性――いつの間にか姿を消していた。
 あのときの女性は、目の前の女と同一人物のように思えた。
 顔を覚えなければ、この先にもおなじことが起こるのではないか。

 それを防ぐためには、女がいつの間にか近くにいるなんてことが起こらないようにするには、せめて顔を覚えておかなければ。
 うっすらとした違和感を抱え首をひねる無為さに、紅緒はエレベーターでの出来事以来うんざりしていた。
 それを解消できるなら、端から忘れていく顔を覚えるくらいなんでもない。

「あ、羊羹だ。買ったんですね、羊羹もおいしいって評判で」

 明るい如月の声が水を差す。

「そうなんですか?」

 紅緒の意識は逸れ、思わずそう返していた。

 トートバッグの中身が、階段にぶちまけられている。買ったばかりの羊羹が転がり出て、そちらから視線を戻すと女は消えていた。
 女が立っていた場所の向こうが見えた。
 そこにあるのは墓地だった。

「大丈夫ですか? 立ちくらみを起こしていたみたいですが」

 落ちた荷物を拾い、如月はトートバッグに入れてくれた。
 如月に背を押され、紅緒は抵抗せずそちらに足を進める。もう彼の手は冷たくない。爪先はなにごともなく階段の五段目を通り過ぎた。

「なんで如月さんがここに?」

 肩越しに見上げた彼からは、やはり闇が滴っている。

「おなじです、目的」

 如月は石田屋の紙袋を見せてくる。紅緒のものよりずっとちいさい。もう一方の手に紅緒の荷物を持ってくれていて、慌ててそれを受け取る。

「すみません、荷物……」

「気にしないでください。昨日会社でお裾分けされたものがおいしかったので、買いにきたんですよ。そしたら目の前で三嶋さんも買い物してて驚きました」

 ――まさか店からついてきたのか。
 どう尋ねるか迷う紅緒の耳に、如月の低い笑い声が届く。

「ふらふらしてたから、ちょっと気になって」

 ゆるりとおたがいの足が動き、墓地に近づいていく。
 入り口の目印といっていいだろう石碑があり、そこに彫られた文字は風化して読めない。
 石碑を通過し墓地の敷地に入ると、簡素なベンチがあった。ちょうど木の影になっている。
 如月がそこに腰を下ろすので、紅緒も続いた。ベンチのとなりには水道設備とバケツなど、掃除道具が一式置かれている。

「あれって、いったい」

 如月の顎先らしきところから、闇がぼたりと落ちていく。墓地にしっくりくる姿だ。

「なにがです?」

 興味のなさそうな声だ。彼はどんな表情をしているだろう。
 紅緒はトートバッグから羊羹を取り出した。

「よかったら、食べますか?」

「いいんですか?」

 表情はわからないが、やけに嬉しそうな声がした。
 静かな墓地に向き合い、紅緒と如月は半分に割った羊羹をそれぞれかじる。

 おいしいが、やはり水分がほしかった。
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