弾けないピアニストの俺が天使の羽根を奪うまで

ひぽたま

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1・初対面

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 最初の印象は、仔犬だった。
 茶色い毛並みの、小型の和犬といったところだろうか。
 俺たちが通っていたのは、都会とも田舎とも呼べない地方の、文科系がメインの私立大学。
 敷地だけは広いキャンバスを移動中に、友人の葉山が南米撮影旅行の計画を打ち明けてきたので、こいつはまた留年ギリギリの危険をおかすつもりだろうかと呆れながら別れて、すぐ。
「矢奈ー。――くんがあんたに用事だって」
 よく聞きとれなかったが、呼ばれたのはわかったので、引き返す。
 葉山はこうるさいやつで、無視したところで返事をするまで追い回されるのがわかっていたからだ。
「どうした、葉山。そろそろ午後の講義に――」
「こっちの森脇くんが、あんたに用事ですってよ」
「森脇?」
 葉山が親指を向けてみせたのは、小柄な男子学生だった。Tシャツにジーンズのラフな格好で、小脇にブックバンドでまとめた教科書類を抱えている。
 健康的で、単純そう。あまり関わりを持ってこなかったタイプだ。
 その連れの、ひょろ長いほうは知っていた。葉山と同じ写真科で、名前は鈴木。
 趣味の情報屋を自称しており、去年、俺に迫ってきた男女の何人かは、この鈴木から俺の個人情報を買ったとか言っていた。
 ろくでもないやつだ。
 ということはこの森脇というやつの『用事』も、ろくでもないものだろう。
 こちらから声をかける気も起こらずに待っていると、森脇と目が合った。
 虹彩の色が淡いのか、光をよく弾く目をしている。
 おやつを期待する仔犬のようなキラキラした目だ。
 で、用事は?
 俺が目を眇めると、森脇は慌てた素振りで、抱えていた本の束のあいだから厚みのある紙袋を引っぱりだし、差しだしてきた。
「はい、これ。忘れ物」
「……?」
 忘れ物? それが『用事』か。つきあいたいどうこうではなく。
 拍子抜けしたものの、こんなやつに手渡される『忘れ物』の心当たりはない。
 受けとって大丈夫だろうか。
 迷う俺を安心させるつもりか、森脇が笑顔をつくった。
「ほら昨夜、三番町のジャズバーに作家の先生と来たじゃん。そんとき席に忘れてあったから届けに来たんだ」
「ああ……」
 忘れていた、というよりも、記憶の底に無理やり沈めていたことだった。
 その前夜、俺は約一年つきあった恋人と別れた。
 というか……あれを恋人と呼んでよかったのかどうか、いまとなってはわからない。
 相手の名前は、蛇体英傑。そこそこ名の知れたゲイポルノ作家だ。
 師である老ピアニストの紹介で出会った蛇体は、見た目こそ冴えない中年男だが、物腰穏やかで話はうまかったし、口下手な俺の話にも真摯に耳を傾けてくれた――ように感じたから、身も心も委ねたのだが。
 昨夜のデート(だと俺は思っていた)で、奴が自慢げに差しだしてきた最新作の単行本。さらりと目を通しただけで、俺は地獄を見せつけられている気分になった。
 なぜならその内容は――俺がやつに出会ったときからベッドインを経て、心を開くようになるまでの過程すべて。もちろんベッドでの反応、ピロートークで打ち明けたことまで、すべてを事細かに記したものだったから。
 つまり、やつの優しさに見えたこれまでの行動はすべて、この新作を書くための脚本だったというわけだ。
 そのことを理解してなお、俺は喜んで受け入れなければならなかったのだろうか?
 もう、終わったことだが。
 そういえばジャズバーを飛びだすとき、通路を塞いでいた店員にひどくぶつかってしまった。鼻血を出していたようだが……今さら謝りに行こうにも、もう、あの店の場所も名前も覚えていない。
 俺は尻尾を振る仔犬のような森脇に微笑んでみせた。
「ありがとう、わざわざ」
「いやあ、同じ大学だし、ついでだから」
「ところで、中身は読んだ?」
「いや? 人のものだし。一応持ち主の手掛かりがないかなって、表紙をめくっただけ」
「そう。どうも」
 突き放さずに礼を言ったのは、森脇の態度が俺に媚びを売ってはいなかったからだ。
 ただキラキラした目で、素直に嬉しそうに笑っているだけだ。
 きっと、周囲に恵まれて育った子供なのだろう。親にも、友人にも愛されて、人に裏切られたり汚されたりした経験などなく、まっすぐ育ったからこその眩しさ。
 俺―とは相いれないタイプだし、森脇のほうも、この用事が済めば俺などと関わりを持とうとはするまい。
 だからきつい言葉を投げかけたりせず、背中を向けて別れた。
 内心は腸が煮えくり返る思いだったが。
 蛇体の本。二度と触れたくもなかったのに、蜘蛛の糸のように俺にまとわりついてくる、まるで呪いのようだ。
 だからベンチのそばにゴミ箱を見つけたとき、迷うことなく捨てた。
 ライターを持っていたら燃やしていたかもしれないが、二十歳の誕生日に蛇体から贈られたジッポーも、昨夜のうちにガスを抜いて、燃えないゴミに出してしまった。
 どうせなら昨夜、目の前で本を燃やしてやってからにすればよかった。
 そうすれば仔犬のようなあの子供のキラキラした目に、汚れた俺を映すこともなかったのに。
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