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第一話
呪われた船上
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桟橋を突き放した小舟は、滑るように純白の船のもとへたどりついた。
麦藁帽子を目深にかぶった船頭に手を取られ、舷側をするすると降りてきた籠に乗り移るあいだ、琥珀はずっと夢見心地だ。
(この船がわたしを魔法の国へ運んでいってくれるんだわ)
琥珀が身にまとっているのはありとあらゆる色を織り込んだ錦織のドレスと艶やかな毛皮のマント。蜜色の髪には真珠の簪を挿している。婚約者から贈られた衣装は生まれ育った国の着物とはまったく違っているけれど、琥珀の体にあつらえたようにぴったりと添い、しかもよく似合っていた。
(虹の国の第十七王女として、魔法の国の王太子妃としても胸を張っていられる格好よね)
「どうぞ、琥珀姫」
親切な船頭が琥珀を籠からおろしてくれる。甲板に並べられた色とりどりのごちそうを見るなり、琥珀は名前通りの琥珀色の瞳をきらめかせた。
「すてき! まるで夢みたいにすてきな船だわ。ディラン様はどちらにいらっしゃるのかしら。この船で迎えにきてくださっているのでしょう?」
「さあ、私には」
返ってきた答えは曖昧だったが、琥珀は大満足だった。なにしろこれまで乗ったことがある船は、宮廷の庭園に浮かぶおもちゃのような舟のみ。それに比べてこちらの船は、甲板だけで城の広間くらいの広さがあり、舷側も帆柱も白く塗られていてまるで一つの宮殿みたいだ。
いつか大きな海を船で旅してみたいという望みがこんなにすばらしい船でかなえられ、そのうえ向かう先が憧れの魔法の国なのだから、結婚への不安なぞなにするものぞ。
(髭の書記官に嫁いだお姉様も、太っちょの将軍にめあわされたお姉様も、それなりに幸せそうに暮らしてらっしゃるもの。わたしだけが幸せになれないなんていうこと、あるはずないわ。それにしても、お腹がすいた……)
今日は夜明け頃に叩き起こされて身を清める前に軽食をとったきりで、そのまま周りのものたちは出発準備に忙しくて放っておかれたため、正午近くのいままでまともな食事をしていない。
つい先ほど船頭が迎えにきて、琥珀の婚約者、魔法の国の王太子ディランと引き合わせるために沖合の船まで連れてきてくれた。まだここには勅使も侍女も婚約者も来ていないが、いったいいつ頃まで待っていたらいいのだろう。
「……」
琥珀はきょろきょろあたりを見回した。船頭もどこかへ行ってしまったらしく、甲板には人っ子一人見えない。
目の前には、果物の大皿。苺は瑞々しく甘い香りで琥珀を誘っていた。
(ちょっとくらい……一粒だけなら、かまわないんじゃないかなあ)
なにしろこれらの果物も料理も琥珀とディラン王子のために用意されているのだし。もしもここで我慢して、はじめてディランと会うときにお腹が鳴ったりするほうが恥ずかしいし。
(うん。断然、そっちのほうが恥ずかしいわ)
一人で納得して、琥珀は苺を一粒つまんだ。十四歳の姫君の手は子供のように小ぶりなものの、竪琴を上手に弾くことだけは自慢できる。赤い実を手のひらに置き、可愛らしいかたちを愛でてからぱくっと口に放り込んだ。
じゅわっと甘い汁が口いっぱいに広がる。
(……おいしい!)
こんなに蜜のように甘い苺ははじめて食べた。口を押さえてうっとりと、香りの最後まで味わっていると、どくん、と胸が熱くなった。
とても緊張したときのように鼓動が忙しくなりだし、体の表面に炙られたような痛みが走る。琥珀は両手で体を掻き、背を屈めた。
「な……に? あつい……」
急に甘いものを食べたから体がびっくりしたのだろうか。それにしても半端ない痛みだ。水が飲みたい。手の指の全部の爪にいきなりものすごい熱さを感じ、悲鳴をあげてその場に座りこんだ。
「きゃああっ……!」
手が熱い。数千本の針を突き立てられたように……朦朧としつつも助けを求めて視線をあげると、船頭が甲板に戻ってきていた。
「助けて、苦しい……」
手を伸ばそうとするが、それが自分の手だという感覚がない。
帽子の陰にのぞく船頭の顔は、顎が細く、かすかに笑みを浮かべているようだった。
(助けて……だれか。お母様、ディラン様……)
キィ、キィ、と櫂の音が重なり、遠くのほうから人の声も聞こえてくる。船頭が長い上着を翻した。琥珀は瞼を伏せ、我が身を抱きながらその場に倒れこんだ。
「おい……おいっ、しっかりしろ!」
聞き慣れない声と、体を揺さぶる手を感じる。力強くて熱い腕。しっかりしたいのはやまやまだけれど、体が動かない……と、ぐずぐずしていたら、瓶の口のようなものが唇にあてがわれ、焼けつくような火酒をどくどくと喉の奥まで流しこんできた。
「ぷはっ……げほっ、なにを……するの!」
「生きていたか」
心からほっとしたような声。低いのに張りがあって艶がある。琥珀は瞬きして自分を抱き起こしている人の顔を見た。
二十歳は越えていない少年だ。だけど琥珀よりは年上。目も髪も炭のようにくすんだ黒色で、高い鼻筋や薔薇色の頬などの顔立ちのよさに合っていないのがもったいなかった。
(だれ……かしら。わたし、いったいどうしたの)
周りを見ると、勅使や侍女たちが甲板に集まり、琥珀と少年を遠巻きにしていた。みんな怯えたような顔をしているのは、琥珀が倒れていたせいだろうか。
いったいどうして倒れてしまったのだっけ。まだ喉が酒で焼けている感じがあり、咳払いするつもりで口を押さえたとたん、もそっとした毛皮に顔が埋まった。
唇に触れる手のひらが、やけに丸っこく湿っている。
あの痛みは夢ではなかったのか。激痛の影響で手が腫れてしまったのだろうか。おそるおそる顔から離した手に視線を落としたものの、そこにある見慣れないかたちの物体がなんなのか、すぐには飲み込めなかった。
黒褐色の毛皮に縁取られたそれは、琥珀の両手首から上にくっついており、顔くらいの大きさがあった。
中心にすべすべした楕円形の山がくっついていて、上のほうにも五つ、似たような小さな桃色の山が並んでいた。毛皮の先端から飛び出しているのは、鋭い鉤爪。
ひっくり返してみたところ、甲側は毛皮で包まれているだけだった。片手で片手の楕円形を押してみたところ、爪がにゅうっと伸びて、自分の鼻をひっかきそうになる。
「……なにかしら、これ」
「熊の手じゃねえの」
少年は吐き捨てるように答えた。琥珀は頷き、
「そうね。わたしも蒸し焼きにされているのを見たことがあるわ。ただ問題は、どうしてわたしの手に熊の手がくっついているかっていうことなの」
少年は一直線の眉をひそめて甲板を振り返った。目に留まったのは苺一つぶんだけ形の崩れた果物の皿だ。苺は相変わらず眩しいくらいに赤い……いっそ毒々しいくらいに。
「あれを食べた、なんて言わねえだろうな」
「食べたわ」
琥珀が答えると、少年はわざとらしいくらいに溜息をついた。黒髪をばりばり掻きながら、
「信じられねえ食い意地だな……城から姿をくらましてどれくらいだ。半刻? たったそれくらいのあいだも辛抱できなかったのかよ」
「失礼ね! ちょっとお腹が空いていただけなのに、そこまで言われる筋合いはないわよ」
「説教の一つもしたくなるだろうが。だいたい、なんでたった一人で船に乗ってんだよ。城の広間で儀式があるって聞かされていたんじゃないのか?」
「いたけど……場所が変更になったからって、船頭が迎えに来たのだもの。ディラン様が乗っていらした魔法の国の船って、この船のことでしょう。なんであなたに考えなしなんて言われなきゃならないのっ」
負けじと言い返すと、少年はくるりと振り向いた。
「見てろ」
と言って、手にしている瓶に残った酒を料理テーブルの上にぶちまける。
ぷしゅう……黒い煙がたって、酒が触れた部分の料理が世にもおぞましい物体に変わった。琥珀の食べた苺も、無事な部分がまだ鮮やかな色を保っているだけあって、黒く溶けたところがいっそう気味悪かった。
琥珀は口を押さえて悲鳴をあげる。
「……あなたいったい、わたしになにを飲ませたの!」
「なんでおれを責める……って、問題なのはこの酒じゃねえ! 果物だよ、毒でできた偽苺! ちゃんと調べなきゃわからねえが、こいつにはきっと魔法の薬が混ざっているぞ。あんたの手はその魔法にかかったんだ」
「まあ、すてき」
思わず手のひらを合わせて吐息を洩らしたつもりが、熊の手同士がぱふんとぶつかった。なかなか弾力のある肉球だ。
少年の眉がぴくりと動いた。
「……すてき? なにが」
「だって、魔法なのでしょう? 魔法の国の魔法のほんものを見てみたいと、ずっと願っていたのだもの。その魔法にかけられるなんて夢みたいな出来事だわ。わ。ただ……もとに戻すときもこうなるときと同じくらい苦しいのかしら。それがちょっと心配なのよね」
「戻らねえよ」
「まあ、ご冗談。人の手が熊になったままだなんてことがあるはずないじゃないの」
「だから呪いだって、なんべん言ったら理解できるんだ! 人のかたちを変えるなんていうのは上級も上級の魔法で、無事にもとに戻すなんていうのはかけたやつにしかできないことなんだよ!」
「かけたやつというのはどなたかしら。きっとディラン様だわ、いたずらのつもりで」
「おれがそんなことするか!」
唾を飛ばして怒鳴りつけられ、琥珀は目をぱちくりさせた。
この、頭ごなしに人を怒鳴りつける失礼な少年が婚約者?
琥珀は落ちつこうと試みる。
「……あなたでなければだれが、わたしの手を熊になんかするの」
「知らねえよ」
失礼な上に優しくない婚約者はぷいっと顔を背けて、琥珀を突き放すように離した。立ち上がると、背丈はずいぶん高い。魔法使いというよりも地味な戦士といった趣の格好をしており、腰には細身の剣を吊していた。
婚約者――ディランは勅使たちに向きなおり、声を張り上げた。
「残念ながら姫君はなにものかによって御手を熊に変えられてしまった! ……が、意識ははっきりしているようだしすこぶるお元気なので……引き渡しの儀は予定通り執り行わせていただく。琥珀姫は今日をもって虹の国を旅立たれ、我が魔法の国の花嫁として迎え入れられるのだ!」
「おお……」
「ようございました、琥珀姫様!」
まっぴらごめんだわ! などという琥珀の本心は、涙ながらに駆けよってきた侍女たちにもみくちゃにされているあいだに、すっかりごまかされてしまった。
麦藁帽子を目深にかぶった船頭に手を取られ、舷側をするすると降りてきた籠に乗り移るあいだ、琥珀はずっと夢見心地だ。
(この船がわたしを魔法の国へ運んでいってくれるんだわ)
琥珀が身にまとっているのはありとあらゆる色を織り込んだ錦織のドレスと艶やかな毛皮のマント。蜜色の髪には真珠の簪を挿している。婚約者から贈られた衣装は生まれ育った国の着物とはまったく違っているけれど、琥珀の体にあつらえたようにぴったりと添い、しかもよく似合っていた。
(虹の国の第十七王女として、魔法の国の王太子妃としても胸を張っていられる格好よね)
「どうぞ、琥珀姫」
親切な船頭が琥珀を籠からおろしてくれる。甲板に並べられた色とりどりのごちそうを見るなり、琥珀は名前通りの琥珀色の瞳をきらめかせた。
「すてき! まるで夢みたいにすてきな船だわ。ディラン様はどちらにいらっしゃるのかしら。この船で迎えにきてくださっているのでしょう?」
「さあ、私には」
返ってきた答えは曖昧だったが、琥珀は大満足だった。なにしろこれまで乗ったことがある船は、宮廷の庭園に浮かぶおもちゃのような舟のみ。それに比べてこちらの船は、甲板だけで城の広間くらいの広さがあり、舷側も帆柱も白く塗られていてまるで一つの宮殿みたいだ。
いつか大きな海を船で旅してみたいという望みがこんなにすばらしい船でかなえられ、そのうえ向かう先が憧れの魔法の国なのだから、結婚への不安なぞなにするものぞ。
(髭の書記官に嫁いだお姉様も、太っちょの将軍にめあわされたお姉様も、それなりに幸せそうに暮らしてらっしゃるもの。わたしだけが幸せになれないなんていうこと、あるはずないわ。それにしても、お腹がすいた……)
今日は夜明け頃に叩き起こされて身を清める前に軽食をとったきりで、そのまま周りのものたちは出発準備に忙しくて放っておかれたため、正午近くのいままでまともな食事をしていない。
つい先ほど船頭が迎えにきて、琥珀の婚約者、魔法の国の王太子ディランと引き合わせるために沖合の船まで連れてきてくれた。まだここには勅使も侍女も婚約者も来ていないが、いったいいつ頃まで待っていたらいいのだろう。
「……」
琥珀はきょろきょろあたりを見回した。船頭もどこかへ行ってしまったらしく、甲板には人っ子一人見えない。
目の前には、果物の大皿。苺は瑞々しく甘い香りで琥珀を誘っていた。
(ちょっとくらい……一粒だけなら、かまわないんじゃないかなあ)
なにしろこれらの果物も料理も琥珀とディラン王子のために用意されているのだし。もしもここで我慢して、はじめてディランと会うときにお腹が鳴ったりするほうが恥ずかしいし。
(うん。断然、そっちのほうが恥ずかしいわ)
一人で納得して、琥珀は苺を一粒つまんだ。十四歳の姫君の手は子供のように小ぶりなものの、竪琴を上手に弾くことだけは自慢できる。赤い実を手のひらに置き、可愛らしいかたちを愛でてからぱくっと口に放り込んだ。
じゅわっと甘い汁が口いっぱいに広がる。
(……おいしい!)
こんなに蜜のように甘い苺ははじめて食べた。口を押さえてうっとりと、香りの最後まで味わっていると、どくん、と胸が熱くなった。
とても緊張したときのように鼓動が忙しくなりだし、体の表面に炙られたような痛みが走る。琥珀は両手で体を掻き、背を屈めた。
「な……に? あつい……」
急に甘いものを食べたから体がびっくりしたのだろうか。それにしても半端ない痛みだ。水が飲みたい。手の指の全部の爪にいきなりものすごい熱さを感じ、悲鳴をあげてその場に座りこんだ。
「きゃああっ……!」
手が熱い。数千本の針を突き立てられたように……朦朧としつつも助けを求めて視線をあげると、船頭が甲板に戻ってきていた。
「助けて、苦しい……」
手を伸ばそうとするが、それが自分の手だという感覚がない。
帽子の陰にのぞく船頭の顔は、顎が細く、かすかに笑みを浮かべているようだった。
(助けて……だれか。お母様、ディラン様……)
キィ、キィ、と櫂の音が重なり、遠くのほうから人の声も聞こえてくる。船頭が長い上着を翻した。琥珀は瞼を伏せ、我が身を抱きながらその場に倒れこんだ。
「おい……おいっ、しっかりしろ!」
聞き慣れない声と、体を揺さぶる手を感じる。力強くて熱い腕。しっかりしたいのはやまやまだけれど、体が動かない……と、ぐずぐずしていたら、瓶の口のようなものが唇にあてがわれ、焼けつくような火酒をどくどくと喉の奥まで流しこんできた。
「ぷはっ……げほっ、なにを……するの!」
「生きていたか」
心からほっとしたような声。低いのに張りがあって艶がある。琥珀は瞬きして自分を抱き起こしている人の顔を見た。
二十歳は越えていない少年だ。だけど琥珀よりは年上。目も髪も炭のようにくすんだ黒色で、高い鼻筋や薔薇色の頬などの顔立ちのよさに合っていないのがもったいなかった。
(だれ……かしら。わたし、いったいどうしたの)
周りを見ると、勅使や侍女たちが甲板に集まり、琥珀と少年を遠巻きにしていた。みんな怯えたような顔をしているのは、琥珀が倒れていたせいだろうか。
いったいどうして倒れてしまったのだっけ。まだ喉が酒で焼けている感じがあり、咳払いするつもりで口を押さえたとたん、もそっとした毛皮に顔が埋まった。
唇に触れる手のひらが、やけに丸っこく湿っている。
あの痛みは夢ではなかったのか。激痛の影響で手が腫れてしまったのだろうか。おそるおそる顔から離した手に視線を落としたものの、そこにある見慣れないかたちの物体がなんなのか、すぐには飲み込めなかった。
黒褐色の毛皮に縁取られたそれは、琥珀の両手首から上にくっついており、顔くらいの大きさがあった。
中心にすべすべした楕円形の山がくっついていて、上のほうにも五つ、似たような小さな桃色の山が並んでいた。毛皮の先端から飛び出しているのは、鋭い鉤爪。
ひっくり返してみたところ、甲側は毛皮で包まれているだけだった。片手で片手の楕円形を押してみたところ、爪がにゅうっと伸びて、自分の鼻をひっかきそうになる。
「……なにかしら、これ」
「熊の手じゃねえの」
少年は吐き捨てるように答えた。琥珀は頷き、
「そうね。わたしも蒸し焼きにされているのを見たことがあるわ。ただ問題は、どうしてわたしの手に熊の手がくっついているかっていうことなの」
少年は一直線の眉をひそめて甲板を振り返った。目に留まったのは苺一つぶんだけ形の崩れた果物の皿だ。苺は相変わらず眩しいくらいに赤い……いっそ毒々しいくらいに。
「あれを食べた、なんて言わねえだろうな」
「食べたわ」
琥珀が答えると、少年はわざとらしいくらいに溜息をついた。黒髪をばりばり掻きながら、
「信じられねえ食い意地だな……城から姿をくらましてどれくらいだ。半刻? たったそれくらいのあいだも辛抱できなかったのかよ」
「失礼ね! ちょっとお腹が空いていただけなのに、そこまで言われる筋合いはないわよ」
「説教の一つもしたくなるだろうが。だいたい、なんでたった一人で船に乗ってんだよ。城の広間で儀式があるって聞かされていたんじゃないのか?」
「いたけど……場所が変更になったからって、船頭が迎えに来たのだもの。ディラン様が乗っていらした魔法の国の船って、この船のことでしょう。なんであなたに考えなしなんて言われなきゃならないのっ」
負けじと言い返すと、少年はくるりと振り向いた。
「見てろ」
と言って、手にしている瓶に残った酒を料理テーブルの上にぶちまける。
ぷしゅう……黒い煙がたって、酒が触れた部分の料理が世にもおぞましい物体に変わった。琥珀の食べた苺も、無事な部分がまだ鮮やかな色を保っているだけあって、黒く溶けたところがいっそう気味悪かった。
琥珀は口を押さえて悲鳴をあげる。
「……あなたいったい、わたしになにを飲ませたの!」
「なんでおれを責める……って、問題なのはこの酒じゃねえ! 果物だよ、毒でできた偽苺! ちゃんと調べなきゃわからねえが、こいつにはきっと魔法の薬が混ざっているぞ。あんたの手はその魔法にかかったんだ」
「まあ、すてき」
思わず手のひらを合わせて吐息を洩らしたつもりが、熊の手同士がぱふんとぶつかった。なかなか弾力のある肉球だ。
少年の眉がぴくりと動いた。
「……すてき? なにが」
「だって、魔法なのでしょう? 魔法の国の魔法のほんものを見てみたいと、ずっと願っていたのだもの。その魔法にかけられるなんて夢みたいな出来事だわ。わ。ただ……もとに戻すときもこうなるときと同じくらい苦しいのかしら。それがちょっと心配なのよね」
「戻らねえよ」
「まあ、ご冗談。人の手が熊になったままだなんてことがあるはずないじゃないの」
「だから呪いだって、なんべん言ったら理解できるんだ! 人のかたちを変えるなんていうのは上級も上級の魔法で、無事にもとに戻すなんていうのはかけたやつにしかできないことなんだよ!」
「かけたやつというのはどなたかしら。きっとディラン様だわ、いたずらのつもりで」
「おれがそんなことするか!」
唾を飛ばして怒鳴りつけられ、琥珀は目をぱちくりさせた。
この、頭ごなしに人を怒鳴りつける失礼な少年が婚約者?
琥珀は落ちつこうと試みる。
「……あなたでなければだれが、わたしの手を熊になんかするの」
「知らねえよ」
失礼な上に優しくない婚約者はぷいっと顔を背けて、琥珀を突き放すように離した。立ち上がると、背丈はずいぶん高い。魔法使いというよりも地味な戦士といった趣の格好をしており、腰には細身の剣を吊していた。
婚約者――ディランは勅使たちに向きなおり、声を張り上げた。
「残念ながら姫君はなにものかによって御手を熊に変えられてしまった! ……が、意識ははっきりしているようだしすこぶるお元気なので……引き渡しの儀は予定通り執り行わせていただく。琥珀姫は今日をもって虹の国を旅立たれ、我が魔法の国の花嫁として迎え入れられるのだ!」
「おお……」
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