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序章

戦いの果ての雪道

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 雪が降っている。

 静かに舞い落ちる雪が、果てなき北の大地を冬の色に染める。どこまでも広がる暗雲は、遠く北限の峰の稜線をも滲ませている。

 雪の中を、男が独り歩いている。

 力ない足取りが雪原に揺らめくたび、目深に被るフードの隙間から、白い息が漏れる。くすんだ青い瞳、萎びた金色の長髪、あどけない薄ひげの頬……。まだ少年の面影残るその横顔は、雪に蝕まれている。
 ボロ切れ同然の外套と、雑兵の背負う背嚢はいのうが、降り続く雪に白む。首から下げる月盾の徽章、腰に佩く古めかしい直剣、杖代わりに抱える軍旗も、拭いきれぬ戦塵に傷み、ほとんど朽ちかけている。
 〈教会五大家〉筆頭貴族、ロートリンゲン家の家紋であり、その私設騎士団たる月盾騎士団ムーンシールズを示す月盾の紋章は、敗北に塗れ、今はただ雪の中を彷徨うのみ。その月の盾の色に、栄華を誇った在りし日の面影は、何一つ残っていない。

 月盾の騎士が、雪原を落ちていく。

 点々と転がる亡骸が、落ちる月盾の騎士を導くように、南へと続く。
 凍てついた鉄兜と甲冑が道となり、散乱する武器が墓標となる。折れた直剣、埋もれた長槍パイク、火種の消えたマスケット銃……。そして、打ち捨てられた〈教会〉の十字架旗……。戦いの果て、かつて戦場を彩った物たちも、今は終幕にその身を任せ、ただ雪に沈むのみ。

 時折、風が吹き、冬が哭く。
 戦場となった北の〈帝国〉の地を、強き北風ノーサーが吹き抜ける。思い出したように吹き荒れる北風は、ただ独り残った騎士を煽り、嘲笑っては、どこかへと消えていく。
 この地には誰もいなかった。〈教会〉から派兵された第六聖女遠征軍の生き残りも、それに従軍した月盾騎士団ムーンシールズの騎士たちも、教会遠征軍を打ち破った帝国軍の追討部隊さえもいない。この地に住まう〈帝国〉の領民はおろか、敗残兵を狩る野盗や追い剥ぎすらもいない。味方も敵もいない。ただ独り落ちゆく月盾騎士団ムーンシールズの生き残り、最後の月盾の騎士以外には……。

 かつて、月盾の騎士たちは唱えた──『高貴なる道、高貴なる勝利者』と。

 その成れの果てがこれだった。〈神の依り代たる十字架〉への祈りはついに届かず、そして神は誰も救いはしなかった。吟遊詩人や劇作家が語る都合のいい魔法、古き伝承に語られる〈神の奇跡ソウル・ライク〉も、当然のように戦場には顕在しなかった。
 銃火が支配する戦場はもはや騎士を必要としてはいなかった。かつて確かに騎士だった男、故郷に帰ろうとその命を燃やす最後の月盾の騎士の生死も、落ちる月盾の軍旗の行方も、今となっては大した問題ではない。

 最後の月盾の騎士が、落ちていく。

 大地は死で満たされている。その先に広がるのは、ただ遥かなる地平線のみ。騎士の前に広がる冬の色は、どこまでも白く、どこまでも静かである。
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