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第六章 蠢く静寂

6-4 ある冬の日の聖女②  ……セレン

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 真昼のロウソクの灯が、白き外光に揺らめいている。

 ミカエルに案内されるまま、セレンは天幕をくぐった。

 その瞬間、空気が変わった。

 物言わぬ棺が、幕舎の奥に鎮座する。ヨハン・ロートリンゲン元帥の遺骸が納められた棺のそばで、月盾の騎士たちが顔を見合わせている。

 穏やかだった冬の日が、急に暗く、重苦しくなる。

 案内された会合用幕舎の中では、男たちが円卓を囲んでいた。
 月盾騎士団ムーンシールズの士官たちが、一同に会する。副官のディーツ、騎士団長の弟アンダース、人面甲グロテスクマスクのリンドバーグ、そして敵中から帰還したというウィッチャーズと、それぞれの部下と思しき下級将校たち。

 突然、セレンは怖くなった。
 味方である月盾の騎士たちの佇まい、どこか触れ難いその空気に、恐怖を覚える。
 咄嗟に、レアの手を掴んだ。レアはセレンの半歩前に出ると、身を守るように立ってくれた。

 案内され、卓の上座に座る。ミカエルも、用意された席に座る。
 セレンが座ると、ディーツが話の続きを始める。
 口を開く男は、限られていた。ディーツの言葉に返答するのは、向けられる諸将の視線に答えるのは、ほとんどウィッチャーズという男であった。
「まるで尋問ですね……」
 セレンの横で、レアが呟く。
 確かに、ウィッチャーズに向けられる視線、言葉は、厳しいものだった。それは国家元首である教皇猊下が、部下である司教たちに詰問する際の雰囲気に似ていた。
「おい、ディーツ。あんまり仲間を苛めるなよ」
「副官として質問をしているだけです」
 ディーツの返答に、アンダースがやれやれと溜息をつく。
 そんなディーツに向かい、ウィッチャーズが返答する。
「確かに、私は傭兵だった頃、帝国軍にも従軍していました。しかし断じて、敵に通じてはおりません。月盾の騎士に任じられたそのときから、我が身命は、鉄の修道騎士たるこの方に、この月盾の紋章に捧げています」
 ウィッチャーズの鋭い眼光が、ヨハン元帥の棺を見る。彼のことはよく知らないが、その瞳の色は、セレンから見ても揺るぎなかった。

 緊張の糸が、部外者であるセレンにも絡みつく。それは重く、苦しかった。
 そんなとき、ミカエルの声がそれをかき消す。
「ウィッチャーズ。君の忠誠心に疑いはない。だが、君は騎士団や教会遠征軍の中で、誰よりも〈帝国〉の地理や内情に詳しい。今後のためにも、なるべく多くの情報を知っておきたいのだ」
「私が従軍していた二十年前とは、何もかもが違います。それに私は、あなたたち貴族諸侯らと違い、上層部に知り合いはいません。あくまで、前線部隊で経験したことを踏まえての話しかできません」
 一度釘を刺すウィッチャーズに、ミカエルが頷く。ディーツが顔をしかめる横で、ミカエルの表情は平静としており、感情は全く読めない。
「それこそが重要だ。お前は、あの黒騎兵オールブラックスとも単独でやり合い、撤退交渉までした。奴らの情報が必要だ」
 騎兵帽の羽飾りをいじりながら、アンダースが興味深そうに訊ねる。
「奴らに対抗する術がわかれば、今後の役に立つ」
 訊ねるアンダース、その他一同の視線が、ウィッチャーズに注がれる。

 ウィッチャーズが杯の酒を一口飲み、口を開く。

「みなが思うほど、彼らは恐れるべき人物ではありません」

 ウィッチャーズに向かい、リンドバーグが身を乗り出す。その言葉を挑発と受け取ったのか、ディーツも眉間に皺を寄せる。一方でアンダースは面白がり、囃し立てる。ミカエルの表情は、相変わらず変わらない。

「私は若い頃の彼らを知っています。〈教会五大家〉の門閥である諸兄らと違い、彼らは比べるのもおこがましいほどに矮小な存在でしかありませんでした。ただ、少しだけ打たれ強く、少しだけしぶとい人間というだけです」
「敵を侮っているのか? 奴らは、我ら教会遠征軍本隊に土をつけ、ヨハン元帥を死に至らしめた相手だぞ?」
 どこか太々しいウィッチャーズに、ずっと顔をしかめているディーツが、露骨に喰ってかかる。
「あなたたちが欲していると思う言葉を、私なりに伝えているだけです」
 敵意さえ感じさせる周囲の視線に対し、ウィッチャーズがは歯に衣着せぬ物言いで受け答えする。
「一敗地には塗れましたが、黒騎兵オールブラックス隊長、マクシミリアン・ストロムブラードに関しては、私ですら戦える相手です。そして黒騎兵オールブラックスは、三兵戦術の一角を担う存在ではありますが、それはつまり、ただの騎兵ということです」
 黒騎兵オールブラックスを思い出す──教会遠征軍の本陣を穿った、黒き疾風の胸甲騎兵。
極彩色の馬賊ハッカペルに関しては、個々の武勇は並み外れたものがあります。しかし、マクシミリアン・ストロムブラードが手綱を引き締めなければ、奴らは軍隊ですらありません。〈教会〉のみなが噂するような、文字通りの蛮族です」
 極彩色の馬賊ハッカペルを思い出す──炎を背に、極彩色の風をまとった、恐ろしい獣。同じ人とは思えぬ、強き北風ノーサー
「あなたたちが恐れる、騎士殺しの黒騎士も、強き北風ノーサーも、ただの人です。人である以上、斬れば血を流し、撃たれれば死にます」
 騎士殺しの黒騎士と、強き北風ノーサーに追われた日──苦渋の表情を浮かべるヨハン元帥のそばで、〈教会〉の十字架旗は燃え落ちていった。
「そもそも、私と同じく、彼らは単なる駒に過ぎません。真に恐れるべきは、ヴァレンシュタイン元帥の好敵手とさえ言われる、グスタフ三世とその側近たちでは?」
 燃える冬の戦場を蹂躙した、無数の黒竜旗。それらを束ねる、皇帝旗たる燃える心臓の黒竜旗──そして、第六聖女の天使の錦旗は地に落ちた。

 白い闇が、セレンの脳裏を過る。
 そして、何か恐ろしい空気が、ヨハン元帥の棺を前に充満し始める。

「勝てると思うか?」

 表情を変えず、ミカエルが訊ねる。

「やり方によっては」
 ウィッチャーズが答える。
「現状、我らは退却こそしていますが、総兵力では六万と、数的優位には違いありません。そして敵は、ボルボ平原で大勝したとはいえ、後々の交渉を有利に進めるためにも、決戦による二度目の勝利を求めるでしょう。もしティリー卿が援軍を出したとなれば、〈帝国〉にとって形勢は厳しくなります。その焦燥を、逆手に取ります」
 月盾騎士団ムーンシールズの誰よりもみすぼらしいその男に、みなの視線が集まる。そして、その視線は熱を帯びていく。
「我らとヴァレンシュタイン元帥が綿密な共同戦線を張り、そしてこちらに有利な地で戦うことができれば、敗北を免れるどころか、逆襲すら可能と考えます」
 そう言って、ウィッチャーズは再び杯を煽り、そして言葉を締めた。

 話し合いの内容が、セレンには理解できなかった。
 眠りを妨げる、白い闇が頭をもたげる──あれらが大したことのない相手? あれらと再び戦う? あれらに勝つ方法がある?
 また、得体の知れない恐怖が背筋を撫でる。
 すぐ横にいるレアに目をやる。屹立する白甲冑の表情は心なしか暗く、取りつく島もなかった。

 心細さが、恐怖心を煽る。
 助けを求め、周囲を見回す。そして、ミカエルと目が合う。

 月盾の長が立ち上がる。

「もう一度、立ち上がろう。もう一度、戦おう」

 セレンを、月盾の騎士たちを見渡し、ミカエルが口を開く。

 席を立ったミカエルが、セレンに向かい一礼する。
「セレン様。我ら月盾騎士団ムーンシールズは、〈帝国〉に一矢報いるべく、父の残存部隊、そしてヴァレンシュタイン元帥と共に立ち上がる所存です。そのために、今一度、お力をお貸ししてはくれませんか?」
 ミカエルの青い瞳が、爛々と燃える。
「この〈第六聖女遠征〉を失敗で終わらせぬために! 〈北部再教化戦争〉において〈教会〉に勝利をもたらすために! 〈黒い安息日ブラック・サバス〉の報復を成し遂げるために! もう一度、御身の祈りをもって、教会遠征軍のみなに祝福を! その祝福をもって、我らは一丸となり、必ずや逆賊たる〈帝国〉に天誅を下します!」
 月盾の長が剣を抜き、深々と頭を下げる。
 幕舎を吹き飛ばすような気勢が、一気に燃え上がる。ミカエルに呼応し、月盾の騎士たちが立ち上がり、咆哮する──我らが月盾の長、と。我らが第六聖女、と。

 ミカエルの堂々たる語り口に、セレンは流されるまま頷いていた。だが、心のどこかで燻る恐怖は、消えなかった。

 かつて、セレンに一筋の光を見せてくれたその人は、今は少しだけ怖かった。
 その男の意志、月盾の長たる騎士の意志に触れることは、セレンにはできなかった。それでも、その意志に縋る他に、道は見いだせなかった。

 ふと、アンダースと視線が合い、セレンは目を逸らした。

 一瞬だけ垣間見た青い瞳──ミカエルの弟であり、ヨハン元帥の次男である、もう一人の月盾の騎士──誰よりも派手な月盾の騎士は、その目元を歪め呆れていた。
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