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第八章 クリスタルレイクの戦い
8-2 暴走する狂信者 ……アンダース
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白銀の甲冑をまとう少女の表情に、最も真摯なる者と称された微笑みは、微塵もなかった。
第六聖女セレンは、明らかに怯えていた。そこかしこで開かれた戦端にではない。目の前で狂信的に戦意を煽る、月盾の長に対して──。
白煙に覆われた北の地平線から、砲火の灰が流れ降る。
クリスタルレイクの南岸、王の回廊とクリスタルレイクの氷雪を一望できる地に、第六聖女の天使の錦旗が翻る。
名目上は、教会遠征軍の本陣になる。しかし、総指揮官であるヴァレンシュタインは王の回廊の前線におり、ここにはいない。いるのは、遠征軍の旗印を擁する四千の第六聖女親衛隊、落伍兵集団と後方支援部隊、そして月盾騎士団だけになる。
そして、第六聖女の天使の錦旗の前で、月盾の騎士が神を讃える。
「十字架を奉る天使を讃えよ! 我らが第六聖女様と共に、偉大なる〈神の奇跡〉を今ここに! 〈東からの災厄〉さえも退けた大魔法をもって、悪しき〈帝國〉に鉄槌を下し、〈第六聖女遠征〉に勝利をもたらすのだ!」
古めかしい直剣を振りかざし、兄ミカエルが勇ましい祈りを唱える。
「「神のご加護を!!」」
拳を振り上げながら、三千名の月盾騎士団それに歓呼する。
気持ち悪い──アンダースは騎兵帽を目深に被り、極力それらを見ぬようにした。
兄が何か口にするたび、月盾の騎士たちが吼える。そのたびに、輿の上に座るセレンが震え、助けを求めるように、親衛隊長のレアを見る。
いちいち見せる不安な表情は滑稽だったが、それは当たり前でもあった。遠征軍の旗印と祭り上げられてはいるが、実態は戦いを知らぬ、十五歳の小娘である。戦に明け暮れてきた男たちとは、そもそも住む世界が違う。
そんな憐れな女の前で、兄が古めかしい直剣を地に添え、跪く。
「我ら、ロートリンゲン家の月盾の騎士! 貴女様と共にあるこの月盾の紋章は、必ずや〈帝国〉を討ち滅ぼし、父の無念を晴らし、北部に真の信仰を施します! いざ、共に大義を果たしましょう! そして不滅の栄光を故郷へと届けましょうぞ!」
力強いその言葉に、騎士たちが咆哮する。
「「我らこそが月盾の騎士!! 『高貴なる道、高貴なる勝利者』、その意志と誇りをもって〈教会〉に勝利を!!」」
そして、困惑するセレンをよそにひとしきり勇ましい言葉を吐いたあと、兄はその手を取り、誓いのキスをした。
どんだけ大義があるんだよ──アンダースは呆れたが、何も言わなかった。反攻に反対し、全体軍議から外されたときから、口を挟むのは諦めていた。
兄ミカエルは、あらゆる面で自分よりも優秀だった。だが、それだけだった。家のため、国家のため、民衆のためと、馬鹿の一つ覚えのように粉骨砕身しようとする様は、模範たる高貴な騎士そのものではあったが、しかし愚かしかった。
それでも、尊敬はしていた。その姿は、アンダースには決して届かない、〈教会〉の、ロートリンゲン家の、模範たる騎士だった。しかし、かつては憧れていた月盾の長の面影は、もはやなかった。
同じロートリンゲンの血を分け合った兄弟だが、二人は何もかもが違う。
アンダースは、意識的に混乱を煽る。死に際の父ヨハンを憤死に追いやったのも、父の死後、残った将官らを無責任に煽動したのも、悪いことだと自覚している。
〈教会五大家〉、ロートリンゲン家、月盾の騎士……。そんな肩書きをちらつかせるだけで、人は簡単に耳を貸す。肩書きを使った瞬間に、誰も、アンダースの本質など気にしなくなる。そんな愚かな人々を見ているのは面白かったし、父のように勝手に踊り狂って死ぬ奴を見るのは、本当に愉快だった。
ただ、兄ミカエルは自分と違い、そのような邪悪な人間ではない。兄は、生まれながらに騎士の道を修め進む、真の月盾の騎士である。アンダースのように、泥沼の混沌を楽しみ、意味もなく人をけしかけ笑うことなど、絶対にない。
つまり、アンダースの見立てが正しければ、兄の言動は全て無自覚に行われている。それは、己の行いが絶対の正義だと妄信する、狂信者の所業である。
初戦の大会戦で大敗を喫し、遠征軍の総司令官だった父が死んだ以上、圧しかかる全ての責務を果たせるわけはない。それでも兄は、何もかもを抱え込み、自分勝手な責任感で貫こうとしている。
そして、そんな意志に簡単に煽動される、月盾の騎士たちや、教会遠征軍の将兵たち。本来なら、副官のディーツが諫める場面ではあるが、その副官が異を唱えないせいで、なし崩し的に主戦派の声が大きくなってしまった。アンダースやウィッチャーズのような現実論者は、今は口を噤まざる得ない。そうでなければ、命が危ない。
やがて、騎士たちの勇ましい祈りが終わる。別れのときまで、第六聖女セレンは震えていた。
月盾の騎士たちが隊伍を組む。旗手のヴィルヘルムが、騎士団旗を掲げる。騎士団長の兄を先頭に、月盾騎士団の人馬が動き出す。
クリスタルレイク西岸、ハベルハイムの軍勢と帝国軍第三軍団が干戈を交える戦場に向かって、月盾騎士団が駆け出す。形としては、後詰である。
ヴァレンシュタイン元帥にはもちろん行動を伝達しているが、兄は返答を待たなかった。
ヨハン元帥存命時から、騎士団は独立遊撃部隊として、ある程度独自の裁量で部隊を動かす権限が与えられている。とはいえ、現在の総指揮官はヴァレンシュタインである。ヨハン元帥配下で生き残った五千名の将兵も、現在はその指揮下に入っており、王の回廊の最前線で当て馬にされている。
親が上官だったときとは、状況が違う。いくらヴァレンシュタインが本隊の残存戦力を当てにしてなくとも、気分はよくないだろう。
灰が降る。空まで立ち昇る白煙が、その圧を増していく。
どこからか吹く風に、月盾の軍旗が揺れる。降り始めた粉雪は、騎士の甲冑を白ませ、遠くから鳴り響く戦火の音は、馬群の足歩を軋ませる。
「何でハベルハイムのいる左翼なんですかね?」
小汚い革鎧の着付けを直しながら、部下のルクレールがとぼける。
「右翼戦線は湿地で騎兵戦に向かない。王の回廊はヴァレンシュタイン自身が守ってるし、行っても後ろで順番待ちだ。クリスタルレイクの西岸は、側道とはいえそれなりの広さもある。一番手近な場所を選んだんだろ?」
アンダースはもっともらしい言葉を選んで返事をしたが、お互いに理由はわかっている。
目的は、帝国軍第三軍団である。
帝国軍第三軍団には、ボルボ平原で本隊に止めを刺した黒騎兵と、月盾騎士団や第六聖女親衛隊を散々翻弄してきた極彩色の馬賊がいる──再三、煮え湯を飲まされた相手──要するに、私怨である。
「ハベルハイムとの共同戦線とはいえ、本当に黒騎兵と極彩色の馬賊を倒せるもんですかねぇ?」
ルクレールが、どこか神妙な面持ちで呟く。普段は何をしてもどこ吹く風のルクレールですら、この異様な空気を読んでいる。
「倒したうえ、さらにそこを突破し、帝国軍の本陣すらも突こうというのだぞ? こんな壮大な仇討ち、父上も草葉の陰で泣いてるだろうよ」
「相変わらずな閣下と違って、何か雰囲気変わりましたよね、兄君。妙にやる気というか」
「ふん。あのやる気が暴走しなければいいがな」
実際には、もう暴走している。しかし、それを口には出さなかった。狂信者に自重を促すのは、禁句である。
だがそもそも兄は、信仰心は厚くても、現実の見えぬ狂信者ではない。早く目を覚まし、かつての模範たる騎士の姿を取り戻してもらわねばならない。
アンダースは鼻を鳴らすと、騎兵帽を被り直し、麾下の兵たちに振り返った。
「いいか、俺たちは月盾の騎士だ! 何があろうと、どんな状況でも、騎士団のために戦え! それを忘れるな!」
何もかもが、若き月盾の長の身の丈には合っていない──背負うものが多過ぎる。掲げる大義が多過ぎる。進むべき道筋が多過ぎる。
もっと単純に考えるべきなのだ。
人が争うのに理由などない。唱えられる正義も悪も──国家の威信、神の教義、騎士の誇り──自らの闘争を正当化するための言い訳に過ぎない。そもそも、人の死に善いも悪いもない。
戦争など、所詮はただの殺し合いである。それなのに、この〈北部再教化戦争〉には、煩わしいことが多過ぎる。
しかしだからこそ、最も大切なことを覚えていればそれでいい──アンダースはまた騎兵帽の被りを直すと、白煙に向かって馬腹を蹴った。
第六聖女セレンは、明らかに怯えていた。そこかしこで開かれた戦端にではない。目の前で狂信的に戦意を煽る、月盾の長に対して──。
白煙に覆われた北の地平線から、砲火の灰が流れ降る。
クリスタルレイクの南岸、王の回廊とクリスタルレイクの氷雪を一望できる地に、第六聖女の天使の錦旗が翻る。
名目上は、教会遠征軍の本陣になる。しかし、総指揮官であるヴァレンシュタインは王の回廊の前線におり、ここにはいない。いるのは、遠征軍の旗印を擁する四千の第六聖女親衛隊、落伍兵集団と後方支援部隊、そして月盾騎士団だけになる。
そして、第六聖女の天使の錦旗の前で、月盾の騎士が神を讃える。
「十字架を奉る天使を讃えよ! 我らが第六聖女様と共に、偉大なる〈神の奇跡〉を今ここに! 〈東からの災厄〉さえも退けた大魔法をもって、悪しき〈帝國〉に鉄槌を下し、〈第六聖女遠征〉に勝利をもたらすのだ!」
古めかしい直剣を振りかざし、兄ミカエルが勇ましい祈りを唱える。
「「神のご加護を!!」」
拳を振り上げながら、三千名の月盾騎士団それに歓呼する。
気持ち悪い──アンダースは騎兵帽を目深に被り、極力それらを見ぬようにした。
兄が何か口にするたび、月盾の騎士たちが吼える。そのたびに、輿の上に座るセレンが震え、助けを求めるように、親衛隊長のレアを見る。
いちいち見せる不安な表情は滑稽だったが、それは当たり前でもあった。遠征軍の旗印と祭り上げられてはいるが、実態は戦いを知らぬ、十五歳の小娘である。戦に明け暮れてきた男たちとは、そもそも住む世界が違う。
そんな憐れな女の前で、兄が古めかしい直剣を地に添え、跪く。
「我ら、ロートリンゲン家の月盾の騎士! 貴女様と共にあるこの月盾の紋章は、必ずや〈帝国〉を討ち滅ぼし、父の無念を晴らし、北部に真の信仰を施します! いざ、共に大義を果たしましょう! そして不滅の栄光を故郷へと届けましょうぞ!」
力強いその言葉に、騎士たちが咆哮する。
「「我らこそが月盾の騎士!! 『高貴なる道、高貴なる勝利者』、その意志と誇りをもって〈教会〉に勝利を!!」」
そして、困惑するセレンをよそにひとしきり勇ましい言葉を吐いたあと、兄はその手を取り、誓いのキスをした。
どんだけ大義があるんだよ──アンダースは呆れたが、何も言わなかった。反攻に反対し、全体軍議から外されたときから、口を挟むのは諦めていた。
兄ミカエルは、あらゆる面で自分よりも優秀だった。だが、それだけだった。家のため、国家のため、民衆のためと、馬鹿の一つ覚えのように粉骨砕身しようとする様は、模範たる高貴な騎士そのものではあったが、しかし愚かしかった。
それでも、尊敬はしていた。その姿は、アンダースには決して届かない、〈教会〉の、ロートリンゲン家の、模範たる騎士だった。しかし、かつては憧れていた月盾の長の面影は、もはやなかった。
同じロートリンゲンの血を分け合った兄弟だが、二人は何もかもが違う。
アンダースは、意識的に混乱を煽る。死に際の父ヨハンを憤死に追いやったのも、父の死後、残った将官らを無責任に煽動したのも、悪いことだと自覚している。
〈教会五大家〉、ロートリンゲン家、月盾の騎士……。そんな肩書きをちらつかせるだけで、人は簡単に耳を貸す。肩書きを使った瞬間に、誰も、アンダースの本質など気にしなくなる。そんな愚かな人々を見ているのは面白かったし、父のように勝手に踊り狂って死ぬ奴を見るのは、本当に愉快だった。
ただ、兄ミカエルは自分と違い、そのような邪悪な人間ではない。兄は、生まれながらに騎士の道を修め進む、真の月盾の騎士である。アンダースのように、泥沼の混沌を楽しみ、意味もなく人をけしかけ笑うことなど、絶対にない。
つまり、アンダースの見立てが正しければ、兄の言動は全て無自覚に行われている。それは、己の行いが絶対の正義だと妄信する、狂信者の所業である。
初戦の大会戦で大敗を喫し、遠征軍の総司令官だった父が死んだ以上、圧しかかる全ての責務を果たせるわけはない。それでも兄は、何もかもを抱え込み、自分勝手な責任感で貫こうとしている。
そして、そんな意志に簡単に煽動される、月盾の騎士たちや、教会遠征軍の将兵たち。本来なら、副官のディーツが諫める場面ではあるが、その副官が異を唱えないせいで、なし崩し的に主戦派の声が大きくなってしまった。アンダースやウィッチャーズのような現実論者は、今は口を噤まざる得ない。そうでなければ、命が危ない。
やがて、騎士たちの勇ましい祈りが終わる。別れのときまで、第六聖女セレンは震えていた。
月盾の騎士たちが隊伍を組む。旗手のヴィルヘルムが、騎士団旗を掲げる。騎士団長の兄を先頭に、月盾騎士団の人馬が動き出す。
クリスタルレイク西岸、ハベルハイムの軍勢と帝国軍第三軍団が干戈を交える戦場に向かって、月盾騎士団が駆け出す。形としては、後詰である。
ヴァレンシュタイン元帥にはもちろん行動を伝達しているが、兄は返答を待たなかった。
ヨハン元帥存命時から、騎士団は独立遊撃部隊として、ある程度独自の裁量で部隊を動かす権限が与えられている。とはいえ、現在の総指揮官はヴァレンシュタインである。ヨハン元帥配下で生き残った五千名の将兵も、現在はその指揮下に入っており、王の回廊の最前線で当て馬にされている。
親が上官だったときとは、状況が違う。いくらヴァレンシュタインが本隊の残存戦力を当てにしてなくとも、気分はよくないだろう。
灰が降る。空まで立ち昇る白煙が、その圧を増していく。
どこからか吹く風に、月盾の軍旗が揺れる。降り始めた粉雪は、騎士の甲冑を白ませ、遠くから鳴り響く戦火の音は、馬群の足歩を軋ませる。
「何でハベルハイムのいる左翼なんですかね?」
小汚い革鎧の着付けを直しながら、部下のルクレールがとぼける。
「右翼戦線は湿地で騎兵戦に向かない。王の回廊はヴァレンシュタイン自身が守ってるし、行っても後ろで順番待ちだ。クリスタルレイクの西岸は、側道とはいえそれなりの広さもある。一番手近な場所を選んだんだろ?」
アンダースはもっともらしい言葉を選んで返事をしたが、お互いに理由はわかっている。
目的は、帝国軍第三軍団である。
帝国軍第三軍団には、ボルボ平原で本隊に止めを刺した黒騎兵と、月盾騎士団や第六聖女親衛隊を散々翻弄してきた極彩色の馬賊がいる──再三、煮え湯を飲まされた相手──要するに、私怨である。
「ハベルハイムとの共同戦線とはいえ、本当に黒騎兵と極彩色の馬賊を倒せるもんですかねぇ?」
ルクレールが、どこか神妙な面持ちで呟く。普段は何をしてもどこ吹く風のルクレールですら、この異様な空気を読んでいる。
「倒したうえ、さらにそこを突破し、帝国軍の本陣すらも突こうというのだぞ? こんな壮大な仇討ち、父上も草葉の陰で泣いてるだろうよ」
「相変わらずな閣下と違って、何か雰囲気変わりましたよね、兄君。妙にやる気というか」
「ふん。あのやる気が暴走しなければいいがな」
実際には、もう暴走している。しかし、それを口には出さなかった。狂信者に自重を促すのは、禁句である。
だがそもそも兄は、信仰心は厚くても、現実の見えぬ狂信者ではない。早く目を覚まし、かつての模範たる騎士の姿を取り戻してもらわねばならない。
アンダースは鼻を鳴らすと、騎兵帽を被り直し、麾下の兵たちに振り返った。
「いいか、俺たちは月盾の騎士だ! 何があろうと、どんな状況でも、騎士団のために戦え! それを忘れるな!」
何もかもが、若き月盾の長の身の丈には合っていない──背負うものが多過ぎる。掲げる大義が多過ぎる。進むべき道筋が多過ぎる。
もっと単純に考えるべきなのだ。
人が争うのに理由などない。唱えられる正義も悪も──国家の威信、神の教義、騎士の誇り──自らの闘争を正当化するための言い訳に過ぎない。そもそも、人の死に善いも悪いもない。
戦争など、所詮はただの殺し合いである。それなのに、この〈北部再教化戦争〉には、煩わしいことが多過ぎる。
しかしだからこそ、最も大切なことを覚えていればそれでいい──アンダースはまた騎兵帽の被りを直すと、白煙に向かって馬腹を蹴った。
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