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第八章 クリスタルレイクの戦い

8-9 最も真摯なる者  ……セレン

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 色のない冬の陽が、白く霞む。

 天使の錦旗の下、教会遠征軍の本陣に据えられた輿に座りながら、セレンは天蓋の外に手を伸ばした。落ちる雪の結晶は、手袋越しでもわかるほど冷たかった。

 また降り始めた雪に、遠く前線から流れてくる白煙に、何もかもが霞む。
 セレンの位置からは、本陣にはためく天使の錦旗と十字架旗、そしてクリスタルレイク南岸の湖氷が僅かに見える程度で、それ以外は何もかもが白く霞み、見えなかった。数多くの絵画に描かれる風光明媚なクリスタルレイクの景色も、映ったのは夜明けから開戦までの一瞬だけだった。

 荒涼としていた。何もかもが白く霞む戦場は、酷く現実感がなかった。眠りに落ちるたびに訪れる白い闇の方が、圧倒的に重々しく、遥かに恐ろしかった。

 とはいえ、前線から最も離れていても、戦場である。直接的な戦火に晒されていないとはいえ、ボルボ平原のときと同じく、何かの拍子で危険が迫る可能性は十分にある。

 にも関わらず、セレンは自分でも意外なほど冷静でいられた。

 普段なら綺麗だと思える冬の景色も、今のセレンにとっては辛かった。
 相変わらず、不眠は続いている。体は日に日に痩せ、節々が痛んだ。陽の温もりはなく、雪は心と体を蝕んだ。周囲に篝火はあったし、白銀の儀礼用甲冑パレードアーマーの内外に防寒着を着込んでもいるが、それでも寒さは痛かった。

 侍従長のリーシュが昼食を持ってきてくれたが、パンもスープも食べる気になれなかった。白湯だけ貰い、それを飲んだが、歯茎に染みた。
 親衛隊や後方支援部隊の兵士たちが、交代で昼食を取り始める。食糧事情は芳しくなく、セレンのものよりさらに粗末ではあったが、みなの表情は和らいでいた。

 束の間、穏やかな風が流れる。

 それらを横目に、セレンは白く霞むクリスタルレイクを眺めた。

 神への祈りの傍ら、物思いに耽る時間は、無限にあるように思えた。


*****


 そもそも、この戦争はなぜ起こったのだろうか?

 教皇猊下はもちろんのこと、〈教会〉に暮らす誰もが、原因は〈帝国〉にあると言った。
 両国の対立が決定的となった一大事件、〈黒い安息日ブラック・サバス〉……。電光石火の早さで広まったその噂話は、まさに〈東からの災厄タタール〉の再来と言うべき、冒涜的殺戮そのものだった。
 神の依り代たる十字架の信徒たちの安息日に、〈帝国〉の黒竜旗はやってきた。
 帝国軍の同時多発的な攻撃により、国境沿いの多くの都市は陥落し、略奪された。その最先鋒であった漆黒の胸甲騎兵は、教会や礼拝所に人々を押し込め、生きたまま焼き殺した。
 〈帝国〉も、同じ神を信じる者同士である。少なくとも、表面的にはそう標榜している。にも関わらず、語られる惨劇には、一切の容赦がなかった。それは、ただ奪い殺す虐殺騎行どころか、異教徒相手の絶滅戦争以上の憎悪さえ感じさせた。
 〈帝国〉が犯した大罪は、許されるものではなかった。誰もが、〈帝国〉の討伐を、冒涜者グスタフへの報復を、北部に真の信仰の布教をと叫んだ。そのときから、この戦争は〈北部再教化戦争〉と呼ばれるようになった。

 そして、北部への遠征軍が組織され、〈第六聖女遠征〉が始まる。理由はわからないが、セレンはその旗印に選ばれた。

 〈教会〉が勝てば、真の平和が訪れるとみなは言う。〈第六聖女遠征〉の成功により〈帝国〉は解体され、〈教会〉の統治下に置かれる。もちろん、主戦派であるグスタフ帝は廃され、その一派は粛清される。そうすれば、長きに渡る戦乱も終わり、大陸の人々はようやく神の恩寵に与ることができるのだと……。
 実質的に遠征軍を指揮していたヨハン・ロートリンゲン元帥も、セレンの前ではそのように言っていた。だが、敬虔な信徒でもある鉄の修道騎士の横顔は、物語っていた。祈りだけでは、戦争には勝てないと──。

 ならば、この祈りは何なのか?

 祈り、祝福、福音、聖歌、天啓……。神の依り代たる十字架を讃える無数の言葉は、また偉大な英知でもある。それらの偉大さは、無力なセレンにも理解できる。
 だが、神が本当に偉大なら、なぜ戦いは終わらないのか? なぜ人々はいがみ合い、不毛とも思える殺し合いに明け暮れるのか? 人々が手を取り合って笑えるような、そんな夢物語でしかない真の平和は、なぜ訪れないのか?

 南方の異教徒と争った〈古の聖戦〉後こそ、束の間の平和があったらしいが、少なくとも〈東からの災厄タタール〉以降の二百年間は、確実に乱世だった。多くの王侯貴族は群雄と化し、互いに覇を争った。そして今、たった二つだけになってもなお、戦いは続いている。
 だがそもそも、平穏だったときなどなかったのではないか?
 〈教会〉の内部ですら、数え切れぬ対立が存在する。〈教会五大家〉による派閥争い。教皇猊下ら司祭たちと、その暗部を担う大書庫の賢人たちとの権力闘争。そして、血を分けた月盾の兄弟の喧嘩……。

 〈教会七聖女〉は、神の御名の許、国家元首たる教皇猊下の手となり、人々を正道に導く者である──五歳で〈教会七聖女〉の第六席に選ばれ、その役目を仰せつかったとき、セレンは純粋に感動した。

 だが、どれだけ祈りを重ねても、闘争が果てることはなかった。

 それでも、セレンは祈り続けた。祈ることしかできなかった。

 いつしかセレンは、最も真摯なる者と呼ばれるようになっていた。

 だが、この二つ名に意味はない──なぜなら、自分には何の力もない。

 なぜ、伝承に語られる古の〈教会七聖女〉のような力がないのか。〈教会〉の子らが生死の狭間に立たされているときに、この身を守りし騎士たちが苦しんでいるときに、信じていた月盾の長が狂気に落ちるまで戦っているときに、なぜ〈神の奇跡ソウル・ライク〉は顕在しないのか。〈帝国〉が悪だというなら、なぜ神の依り代たる十字架は、〈神の奇跡ソウル・ライク〉をもってそれを罰しないのか。
 
 任じられたからには、役目を果たしたかった。授けられたいくつもの神秘が本物ならば、命と引き換えに〈神の奇跡ソウル・ライク〉が顕在し、真の平和が訪れるのならば、使命に殉じる覚悟はあった。……でも、だとしても、死にたくなんかない! 生きていたい!

 聞きたいこと、言いたいことは山ほどある。それなのに、ずっと祈っているのに、なぜ神は何も答えてくれないのか……! 


*****


 ふと、セレンは我に返った──自分は、何を考えているのだ……!?

 深く息をし、鬱屈する邪念を振り払う。
 危うく、道を踏み外すところだった。たとえ力がなくとも、〈教会七聖女〉ともあろう者が、神への信仰に疑問を持つなど、許されない。

 深呼吸をするたび、息が白く立ち昇っては消えていく。そのたびに、答えのない問いも、消えていく気がした。

 そのときだった。立ち昇って消える先、白煙の遠景に、一瞬、黒い影が過った。

 今のは一体──……。何気なく、セレンはその方向に目をやった。

 ぼんやりと、黒が浮かぶ。その黒が、徐々にその輪郭を露わにしていく。
 クリスタル・レイクの湖氷に、黒い旗が過ぎる。

 あれは、〈帝国〉の黒竜旗だろうか……?
 確かに見たが、幻覚か何かだと思った。クリスタルレイク南岸に位置する本陣は、前線からは最も離れているし、どこかの戦線が突破されたという報せもない。後方からの奇襲ならともかく、何の前触れもなく、正面から敵が現れるわけがない。
 何より、湖の上である。いくら凍っているとはいえ、ここ数日は晴天が続いており、氷は薄くなっているだろう。そもそも、湖氷の上を人が、まして軍隊が通るなど、考えられない。

 やはり、疲れている。どうせいつもの、夢に見る白い闇の続きか何かだろう──セレンは独り自嘲したが、しかし黒竜の影は、いつまで経っても消えなかった。

 そして、風が吹く。
 凍てついた北風に、天使の錦旗が哭く。足下を震わせるその風に、親衛隊の白騎士たちが小さくざわめく。
 異変を察知したのか、親衛隊の隊列からレアが飛び出し、セレンと同じ方向に遠眼鏡を向ける。
「親衛隊、戦闘準備!」
 その一声で、本陣に緊張が走る。ラッパが、ドラムロールが、本陣に鳴り響く。十字架旗が、甲冑の群れが、無数の軍靴が、物々しい音を立て動き出す。

 物思いに耽る余裕は、もうなかった。

 目を背けたい現実に、セレンは何度も目をやった。
 空気が震え、白煙が霧散していく。白煙の中、クリスタルレイクに蠢く影──心臓に炎を宿した、燃えるような黒竜の影──近づいてくる黒竜旗が、大きく、そしてはっきりと、その姿を露わにする。
 見間違いようもなかった。それは間違いなく、〈帝国〉の皇帝旗だった。

 つい先ほどまで浮かんでいた邪念は、完全に消えていた。

 燃える心臓の黒竜旗が、無数の黒竜旗を引き連れ、クリスタルレイクの氷上を駆ける。
 風が渦巻き、吹き荒ぶ。冷たい北風に、這い上がってくる恐怖に、体が凍りついていく。
「何もモタモタしている!? 早く野戦砲を並べろ!」
 湖岸へ野戦砲を運ぶ兵たちを、レアが叱咤する。しかし、その車輪は雪と泥の深みに嵌まり、思うように動かない。
 もたついているのは、野戦砲だけではない。剣も、長槍パイクも、マスケット銃も、教会遠征軍本陣に残っていた何もかもが、慌てふためいている。
「御身と天使の錦旗は、必ずや我らが守ります! どうか、御身の祈りをもって、親衛隊のみなにご加護を!」
 巨躯の女騎士が身を屈め、セレンの前で跪く。
 しかし、返す言葉は出てこなかった。別れ際、レアは「安心して下さい」と言って微笑むと、馬に乗って湖岸へと走っていった。

 どこかで、何かが咆哮する。あらゆる音が、けたたましく交じり合い、耳元をつんざく。
 そして、思い出す──死の音色。ボルボ平原の戦いのときにも聞いた、一切の慈悲なき流血の足音。

 神への祈りは、忘れていた。
 従軍司祭らが祈りの歌を唱える傍ら、セレンは輿に座ったまま、茫然と空を見ていた。

 深々と、雪が降る。

 これから何が始まるのか、セレンにはもう想像さえできなかった。
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