『逆行。』

篠崎俊樹

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第3話。

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     3
「殺したぞ、あいつを。これからどうする?」
「いいか?俺たちの仕事は、まだ終わっちゃいない。ゲームは続行だ」
 逃亡してきた青年は、さっき、タクシーを降りて、待ち合わせ場所に辿り着いた。ここが、共犯関係にある人間とのアジトだ。
 元々この青年には、ほとんど友達がいない。孤独なのだった。おまけに、精神病を長く患っていて、医者から病名も付いており、彼を知る人間は、単なる病人だと扱っていた。中学、高校と有名私立の一貫校に行き、熾烈な受験勉強を経て入った都内の某私大でも、同級だった連中は、彼のことを全く相手しなかった。
 青年はまさに、謎に満ちている。適当な呼び名がないので、ジミーとでもしておこう。精神病らしく、目が落ちくぼんでいる。体は細く、健康そうだ。
 彼は目の前の体格のいい男に、次なる指示を聞いていた。相方は、多分、病気持ちなどじゃないだろう。互いに、会話を交わし始める。
「な?一思いに殺すときは、憎さが募るものだろ?」
「ああ」
「当然だよ。君島重三は、お前のことを、自分の可愛い子供だとは思ってなかったし、お前だって、やつを憎み切っていた。お互い様さ」
「ああ」
 ジミーは、単に頷くだけだった。どうやら、統合失調症のようだ。無感情で無反応、おまけに、毒親からの長年の虐待歴が、そうさせていた。親を絞め殺して、死体を損壊させても、何ら情が湧かないらしい。
「俺たちの次の標的は、こいつだ 」
 ジミーの相手をする男は、小石川隆弘という名前だ。通称タカ。闇社会で生きてきた、裏堅気だ。そのタカがおもむろに、次の予定殺人の計画リストを彼に手渡す。
「こいつはとても殺せやしない。俺には無理だ」
「なあに、親殺しをやってのけたお前さんならできるさ。何でもないことじゃん」
 タカにとって、殺人など、虫けらを殺すより容易く、単に、仇敵の存在をリセットしてやるだけにすぎないようだった。この男も、特定の病気の既往歴などがないにしても、精神は完全に壊れている。
 書類のターゲットデータ欄には、こうあった。
 ――甘利健吾 五十六歳 衆院議員 民慈党幹事長。
 ジョーカーだ。紛れもなく。ジミーは、ババを引かされたのである。
「なあ、ジミー。極悪人の甘利を葬ってやるのは、正義だ。こいつは生かしておけねえ。リセットしてやれ。お前の手でな」
 タカの言葉は、その精神が完全に壊れて、壊死してしまっていることを暗示するに足るものだった。実際、崩壊している。一瞬、躊躇ったジミーが、やがて決心したらしく、言った。
「分かった。甘利は俺が殺す。それでいいんだな?」
「ああ。それでこそ、お前さんだ。お前さんは、統合失調症だから、無感情で、無反応なんだろうな」
 タカが冷笑する。
 待ち合わせしていたアルタ近くの喫茶店で、二人はさっきから、一杯のコーヒーで三十分以上、粘っている。他の席の客にも、会話は筒抜けだ。そろそろ、この異常な会話を聞いて、この二人の若者がおかしな存在だと気付き始めても、不思議じゃなかった。
「頼んだぞ、ジミー。方法や日時なんかは、追って連絡する。じゃあな」
 席を立ったタカが、テーブル上の伝票を手に取り、
「今日は、俺の奢り」
 と言って、レジへと歩いていった。店内は、客で溢れ返っている。都内の喫茶店は、お洒落で、床や窓ガラスも綺麗に掃除されている。きっと、清掃業者が定期的に来ているのだろう。
 ジミーの体のあちこちが、緊張で痙攣している。当然と言えば、当然か?殺した相手は、親で、その親は、長年、レビー小体型認知症を患っており、殺さなくても、余命いくばくもなかった。どうせ、老衰などで死ななくても、老人施設送りなどが決定していた人間だ。ジミーも、精神病の既往歴持ちだが、実の親は、もっと悪い病気に犯されていて、取り返しがつかなかった。
 これから、第二の殺人を請け負う。これは、ジョーカーだ。実に手ひどい。また、やるには、相当なリスクがある。それを、ヘッジする方法はない。
 ジミーは、統合失調症の頭脳があってか、物を書くことが好きだった。在籍していた都内の私大でも、文学部にいて、歴史学を専攻していた。当然、作家志望だった。また、彼の担当医も、その方がいいと言っていた。ジミーの心の傷を理解できなかったのは、毒親だった重三その人だ。もっとも、重三は、レビー小体型認知症で、余命など、ほとんどないに等しかったが……。
 男女の出会いは、突如としてある。ジミーの脇に、若い女性店員の一人が駆け寄ってきた 胸のネームプレートには、大島亜季とある。二人の出会いは、唐突だった。また、これが転機でもあった。
 亜季は、ジミーの手元にある、冷めたコーヒーを淹れ直し、テーブルの上も拭いてくれた。きちんとした女性だ。身なりも正しい。
「仕事ですから」
 彼女は何も言わずに、テーブルの上を片付けてしまってから、ゆっくりと、厨房に行き、コーヒーを淹れ直して、テーブルに戻ってきた。
「どうぞ」
「ありがとう。……名前、亜季ちゃんだっけ?」
「そうですけど」
「スマホの番号、交換しない?」
「いいですけど。……あなた、お名前は?」
「名前は言えない。……とりあえず、ジミーって呼んで」
「何で、名前言えないの?」
「それは……」
 返答に窮した。精神病の患者は、時として、そうなる。また、統合失調症というのは、難しい人格なのだった。実際、精神病の闇というのは、深い。
「平気、平気。ジミー、あたしの言った番号に掛けて」
 事情を察した亜季がそう言って、ポケットからスマホを取り出し、ジミーが掛けてきた番号を受信して、電話帳へ登録する。ジミーも追って、彼女の番号を自分の電話帳に登録した。
 交換が終わると、彼女は、他テーブルへと回った。店内は、相変わらず、ざわついている。新宿の街は、いろんな人でごった返していた。実際、ジミーは、この街に行くと、憂鬱になる。持病が悪化しかねないからだ。元々、静かな場所が好きなのだった。
 新しく淹れてもらったコーヒーをブラックのまま飲み、以前よりも、苦味が増していることに気付いて、角砂糖の大きな塊を二個と、ミルクを少しだけ多めに入れて、手元のスプーンでゆっくりと掻き回す。ミルクが完全に溶け切って、ベージュに近い色へと変わった後、口に運んだ。砂糖の甘さとミルクの脂っぽさが、ともに、そのときのジミーには、不快にはならなかった。コーヒーには、個人で味わい方がある。
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