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第二章 十月の修羅場

修羅場3

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 「ご苦労様。ユイカさんに何て言い訳して出て来たの?」

 「どうでもいいだろ」

 「その慌てようじゃ、何か勘付かれてるでしょうね」

 「……」

 「もうすぐ赤ちゃんが生まれるって時に。
 ユイカさんも可哀想」

 憐れむように言ってやると、昌也がハッと顔を上げた。
 表情がみるみる内に険しくなっていく。

 「お前まさか……わざとユイカに近づいたのか!」

 私のことをどこまで嫌な女に落とすつもりなのか。
 未練がましい女が大切な家庭を壊しに来たとでも?
 そんなパワーがあったら、どれだけ良かっただろう。

 「偶然よ。あんたにそこまで執着ないって。
 自惚れちゃって馬鹿じゃないの?」

 昌也の口元が、わなわなと歪んだ。

 怒ってる。
 どうして昌也が怒るんだろう。
 怒る権利があるのは私でしょ。

 「私に言いががりつける暇があるなら、自分のことを何とかしたら? 
 入籍、してないんでしょ」

 昌也がピクリと肩を震わす。
 険しかった目の色が、初めて迷うように揺れた。

 「知らないの? ユイカさんが悩んでるの。
 健気にあんたを信じてるみたいだけど」

 それきり沈黙が訪れる。
 悠に一分近くは経っただろうか。

 「……のせいだろうが」

 ボソッと低い音がした。
 初め、それが昌也の声だと認識できなかった。

 「お前のせいだろうが!」

 その声は怒号に変わる。
 昌也は鬼のように目を剥いていた。

 ルナが、くしゅくしゅと泣き出した。
 昌也は少し声を落としたものの、ルナには目もくれない。

 「お前、別れる時ゴネてたろ? 
 お陰で身動き取れなかったんだよ。逆恨みされても困るしな」

 私は疫病神か。
 何と身勝手な言い様だろう。言葉を失う。

 ユイカさんが来月出産予定と分かっていれば、あとは簡単な計算。
 昌也とユイカさんの間に新しい命が吹き込まれたのは、私たちがまだ付き合っていた頃である。

 ベビー・アレルギーの影響で、私が昌也を否定してしまったことは確かだ。
 でも、昌也は知らない。私がどれだけ苦しんだか。

 私が苦しんでいる間に、ベビーはすくすく育っていた。
 ユイカさんのお腹の中で。何も知らずに、ぬくぬくと。

 目の前が滲んでいく。昌也の姿も周りの景色も混ぜこぜになった。
 違う。悲しいんじゃない。これは悔し涙だ。

 乳母車の籐製のカゴに、涙がボタッと染み込んだ。
 ルナが身じろぎする気配がする。
 クリアになった視界の真ん中で、昌也はうんざりしたような顔をしていた。

 泣きたくて泣いてるんじゃない。
 昌也は、いつも何も分かっていない。

 「ホント変わらないわね、あんたは。全部人のせい……!」

 往来だからと抑えていた声は、感情の爆発とともに荒々しくアスファルトに反響する。
 気色ばむ昌也を遮って、私は続けた。

 「あんたって昔からそう。
 自分の覚悟の無さを人のせいにしてんじゃないわよ!!」
 
 図星か。昌也がグッと詰まった。
 その時──。
 
 「思ったより早く帰りましたね」

 明らかに他者が入り込む余地などない凍った空間に、異物が割り込んできた。
 常に、己のスタンスを変えることがない者。



 佐山だった。
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