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幕間
或る女の犯行計画2
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「今回は厳重注意にしときますがねぇ。
困るんですよ、こういうことは」
女は、少なくともこの店では初犯のようだった。
反抗的な様子も見られない。
いささか冷静すぎるように見えなくもないが……元々こういう女なのか。
と、彼は訝しんだ。
「迎えに来れる人はいます?
旦那は?」
まったく。
こんなに可愛い赤ん坊がいるってのに、何が満たされないんだ?
彼は、先程はチラリとしか目をくれなかった赤ん坊を覗き込んだ。
「……」
待てよ?
この子、何処かで──。
「あぁあッ!」
彼は仰天した。
椅子を蹴倒す勢いで立ち上がる。
直後、女の頰に一筋の涙が光った。
***
女は天涯孤独だった。
親しい友はいない。
それで良かった。
誰も信じない。
物心ついた頃から虐げられてきた女の心は、分厚い氷で閉ざされていた。
ある時期、恋人と呼べる男が存在したことがある。
やがて女の金が目当てであったことが露見すると、男は悪びれもせず去って行った。
これといって感情は動かなかった。
強いて言えば、事務上の不備をチェックし終えた時の感覚に似ていた。
きっかけは、一着のベビー服だった。
ある日の帰り道、駅に直結した地下街。
いつもは足早に素通りする雑踏の中で、それを見つけた。
白地に赤のパイピング。
おどけた顔で玉乗りをするゾウのイラストが、細かく散りばめられている。
女にはそれが、特別な物に思えた。
「小さい……」
女は、この小さな服に袖を通すであろう者の温もりを想像する。
弱々しい。
でも温かい。
この世でいちばん純粋で、いちばん罪のない存在。
「贈り物ですか?」
にこやかな女性店員が声をかけてくる。
「いえ。自宅用で」
女は、いつになく微笑んでいた。
それからだった。小さな服を集めることが心の安らぎになった。
服だけでは飽き足らず、玩具や食器なども探して回るようになった。
いつもひとつだけ、気に入った物を買った。
使い道はない。
それで良かった。買った物を見ていると幸せになれるのだ。
やっぱり、女の子がいいかな──。
しかし、女は気がついた。
帰っても女を待つ家族はいない。
暗い部屋に、使われないままの品物が積まれていく。
心が安らぐのは、ほんの一時だけなのだ。
あの時、あの服を手に取ったばかりに。
ほんの少し、望みを抱いてしまったばかりに。
生きているのが嫌になった。
仕事も辞めた。
この先、餓死しようとどうなろうと構わない。
自分がいなくても社会は回る。
人一人の存在など、ちっぽけなものだ。
どうしてもっと早く楽になろうとしなかったのか。
女は苦笑した。
ほどなくして、女の姿は街から消えた。
九月二十七日。
女が立ち入ったのは、とあるショッピングセンターであった。
「遅くなって悪かったって。
仕方ないじゃん、買い忘れがあったんだから」
ある女性が、せかせかと通り過ぎて行く。
彼女が押すのは、今どき珍しい旧式の乳母車だ。
カゴの部分に大きな紙袋が二つ乗っている。
赤ちゃんに語りかけるにしては、ちょっと変わっていると思った。
しかし、それはそれで懸命さが伝わるというか、微笑ましくもある。
時刻は正午近く。
売り場内の客はまばらだ。
時期的に秋冬物が出始めている。
無心に商品を見て回っていると、客も店員もいない、ちょっと寂しいスペースに行き当たった。
大人の背丈ほどの陳列棚には、小さな靴下や帽子などが所狭しと吊り下げられている。
棚の反対側に人の気配がした。
商品を選ぶ振りをしながら、さり気なく移動して様子を窺う。
女性が帽子を選んでいた。片手をベビーカーに添えている。
母親なんだ。
女は、その若い母親の満ち足りた表情に圧倒された。
幼い頃から心に秘めていた疑問を、もう一度思い起こさずにはいられない。
とっくの昔に諦めたことを。
世の中は、何故こんなに不公平なんだろう。
母親は、夢見るような目で帽子を選んでいる。
色違いやサイズの確認に熱中するあまり、周囲が見えていないようだ。
母親の手がベビーカーから離れる。
女は、嘲るように口の端を持ち上げた。
そうよね。
あなたは、そんなにたくさん幸せじゃなくて良い。
熱に浮かされたように、女は足を前に出した。
だって、幸せが流れ出てる。そこら中に。
ねえ。勿体無いじゃない。
あなたに引きかえ、この体はどうだろう。
汚れて罅割れて。
ずっと、この亀裂から零れ出る泥混じりの雨水すら惜しむような日々を送ってきた。
なのに。
あなたはそうやって、平気で幸せを振り撒いていく。
ねえ。勿体無いじゃない──。
困るんですよ、こういうことは」
女は、少なくともこの店では初犯のようだった。
反抗的な様子も見られない。
いささか冷静すぎるように見えなくもないが……元々こういう女なのか。
と、彼は訝しんだ。
「迎えに来れる人はいます?
旦那は?」
まったく。
こんなに可愛い赤ん坊がいるってのに、何が満たされないんだ?
彼は、先程はチラリとしか目をくれなかった赤ん坊を覗き込んだ。
「……」
待てよ?
この子、何処かで──。
「あぁあッ!」
彼は仰天した。
椅子を蹴倒す勢いで立ち上がる。
直後、女の頰に一筋の涙が光った。
***
女は天涯孤独だった。
親しい友はいない。
それで良かった。
誰も信じない。
物心ついた頃から虐げられてきた女の心は、分厚い氷で閉ざされていた。
ある時期、恋人と呼べる男が存在したことがある。
やがて女の金が目当てであったことが露見すると、男は悪びれもせず去って行った。
これといって感情は動かなかった。
強いて言えば、事務上の不備をチェックし終えた時の感覚に似ていた。
きっかけは、一着のベビー服だった。
ある日の帰り道、駅に直結した地下街。
いつもは足早に素通りする雑踏の中で、それを見つけた。
白地に赤のパイピング。
おどけた顔で玉乗りをするゾウのイラストが、細かく散りばめられている。
女にはそれが、特別な物に思えた。
「小さい……」
女は、この小さな服に袖を通すであろう者の温もりを想像する。
弱々しい。
でも温かい。
この世でいちばん純粋で、いちばん罪のない存在。
「贈り物ですか?」
にこやかな女性店員が声をかけてくる。
「いえ。自宅用で」
女は、いつになく微笑んでいた。
それからだった。小さな服を集めることが心の安らぎになった。
服だけでは飽き足らず、玩具や食器なども探して回るようになった。
いつもひとつだけ、気に入った物を買った。
使い道はない。
それで良かった。買った物を見ていると幸せになれるのだ。
やっぱり、女の子がいいかな──。
しかし、女は気がついた。
帰っても女を待つ家族はいない。
暗い部屋に、使われないままの品物が積まれていく。
心が安らぐのは、ほんの一時だけなのだ。
あの時、あの服を手に取ったばかりに。
ほんの少し、望みを抱いてしまったばかりに。
生きているのが嫌になった。
仕事も辞めた。
この先、餓死しようとどうなろうと構わない。
自分がいなくても社会は回る。
人一人の存在など、ちっぽけなものだ。
どうしてもっと早く楽になろうとしなかったのか。
女は苦笑した。
ほどなくして、女の姿は街から消えた。
九月二十七日。
女が立ち入ったのは、とあるショッピングセンターであった。
「遅くなって悪かったって。
仕方ないじゃん、買い忘れがあったんだから」
ある女性が、せかせかと通り過ぎて行く。
彼女が押すのは、今どき珍しい旧式の乳母車だ。
カゴの部分に大きな紙袋が二つ乗っている。
赤ちゃんに語りかけるにしては、ちょっと変わっていると思った。
しかし、それはそれで懸命さが伝わるというか、微笑ましくもある。
時刻は正午近く。
売り場内の客はまばらだ。
時期的に秋冬物が出始めている。
無心に商品を見て回っていると、客も店員もいない、ちょっと寂しいスペースに行き当たった。
大人の背丈ほどの陳列棚には、小さな靴下や帽子などが所狭しと吊り下げられている。
棚の反対側に人の気配がした。
商品を選ぶ振りをしながら、さり気なく移動して様子を窺う。
女性が帽子を選んでいた。片手をベビーカーに添えている。
母親なんだ。
女は、その若い母親の満ち足りた表情に圧倒された。
幼い頃から心に秘めていた疑問を、もう一度思い起こさずにはいられない。
とっくの昔に諦めたことを。
世の中は、何故こんなに不公平なんだろう。
母親は、夢見るような目で帽子を選んでいる。
色違いやサイズの確認に熱中するあまり、周囲が見えていないようだ。
母親の手がベビーカーから離れる。
女は、嘲るように口の端を持ち上げた。
そうよね。
あなたは、そんなにたくさん幸せじゃなくて良い。
熱に浮かされたように、女は足を前に出した。
だって、幸せが流れ出てる。そこら中に。
ねえ。勿体無いじゃない。
あなたに引きかえ、この体はどうだろう。
汚れて罅割れて。
ずっと、この亀裂から零れ出る泥混じりの雨水すら惜しむような日々を送ってきた。
なのに。
あなたはそうやって、平気で幸せを振り撒いていく。
ねえ。勿体無いじゃない──。
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