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第四章 続・十一月の受難

過ち2

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 ***


 「違う、違うよ」

 絞り出した声が掠れた。

 悲しいのか悔しいのか。
 いつの間にか、涙が自分の頬を伝っていた。

 「それは捨てたんじゃないよ!」

 冴子さんは、ゆっくりと首を振った。

 「一度だけ、あの子を見に行ったのよ。
 ランドセルを背負って歩いてた。
 嬉しかったぁ」

 冴子さんの目は夢見るみたいに光った後、「でもね」とすぐに影を落とす。

 「運悪く鉢合わせた元夫の様子は……苦労が目に見えるようだったわ」

 冴子さんは、しんみりと続けた。

 自分に冷たく当たった元夫や義母の心は今も分からない。
 それでも、多くのハンデを背負った娘が小学校に通えるまでに成長したのは、彼らの力があったからこそなのだと。

 「あの人たちの言う通り、私は逃げたの」

 冴子さんの声は、幼い少女のようにか細かった。

 「あの子と向き合わなかったのは私。
 そういうの全部、見透かされてたのかなぁ」

 仰向きで天井を見つめたまま、冴子さんは瞬きを繰り返す。


 「周りの人が冴子さんを追い詰めたんじゃない!」

 私は彼女の過去を知らない。
 だが、彼女の明るさはどれだけ私の救いになっているだろう。

 そんな彼女の、たった一度の過ち。
 周囲の人々の行為は、彼女が“間違う”のを待っていたようでもある。

 「土下座してでも謝り続ければ許してくれたかもしれない。
 娘に会えたかもしれない。でも」

 冴子さんの目から、ついに大粒の涙がこぼれた。



 「私、何もしなかった──」



 狭い空間に静寂が横たわる。
 彼女の涙が、幾筋もシーツに染み込んでいく音まで聞こえそうだった。

 娘には、実の母は死んだと伝えてあるらしい。
 長い沈黙の後、彼女は小さな声でそう言った。

 「結局私は、自由が欲しかっただけ。
 酷い母親でしょ」
 
 冴子さんは、涙まじりの声で「へへっ」と笑った。
 そんなことないと伝えたところで、彼女にどう響くだろう。

 「ルナちゃんが来て……初めは何なのって思ったのよ。
 せっかく忘れて生活してんのにさぁ」

 彼女は私を困らせまいと、わざとふざけているように見えた。

 九月の終わり、怖い顔で文句を言いにきた彼女を思い出す。
 あの時、彼女はどんな思いでいたのだろう。


 「ねえ、冴子さん。
 どうして、そんなに頑張って悪い女になろうとするの?」


 冴子さんがハッと目を見開いた。

 ずっと違和感があった。
 仕事用に完全武装した冴子さんと、素顔の冴子さん。

 ルナがうるさいと怒鳴り込んできたのは結局一度だけ。
 そういうことに関しては、佐山の方が厳しいくらいだ。

 「私、ずるいんだよ。
 絵美ちゃんが思ってるよりずっと」

 本当にそうだろうか。
 冴子さんの顔には、仕事で客をもてなす時のような艶やかな笑みが戻っている。
 
 彼女が言いたいことをハッキリ言う女性であることは確かだ。
 派手なメイクと巻き髪、赤い爪。大きな態度。

 しかし。

 それらは強気な彼女にしっくり来ているようでいて、今思うと演じているようでもあった。

 「私、上階うえにいたのが冴子さんで本当に良かったと思ってるよ」

 私が言うと、冴子さんは曖昧に笑う。

 「少なくとも、私が出会った冴子さんは酷い人なんかじゃない」

 ずっと仰向けでいた冴子さんが身体の向きを変えた。
 無言だが目が合う。

 「いい加減にしなよ、絵美ちゃん」

 彼女はついに気色ばんだ。
 まるで、軽蔑されてなくちゃ困るみたいに。
 切れ長の目が私を睨む。

 「そういうさ、気休めっぽいの嫌い」

 彼女の整った顔が辛そうに歪んだ。



 「どうして、サイテーだって言ってくれないの……」
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