Joker

海子

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9.One coin toy

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 話は、尽きなかった。 
マクファーレン商会のこと、駅馬車のこと、ブリストンの街のこと・・・。 
時間は飛ぶように過ぎ、もう帰らなくてはいけない時間だと、リックも、レティシアも分かっていた。 
でも、どちらからもそれを言い出せなかった。 
後から入って来た客も帰り、店の客は、リックとレティシア以外いなくなった。 
店の主人が、店の前の灯を落とした。 
もう閉店という意味だったのだろう。 
「もう、帰らないと・・・」 
レティシアは、小さく呟いた。 
「ああ、そうだな」
リックは、椅子から立ち上がった。 



 表に出ると、もう真っ暗だった。
ところどころ、建物の前に灯がともってあるのは、遅くまでやっている酒場なのだろう。 
レティシアは、来た時と同じように、リックの少し後ろを歩いた。 
楽しい夜だった。 
本当に、心から楽しいと思える夜だった。 
楽しかったはずなのに、レティシアは、胸が苦しかった。
前を歩く、リックの背中を見て思った。 
もしも、当たり前の二十歳の女だったら、リックの腕を取って歩けたのだろうか。 
もしも、汚れた身体でなければ、リックに寄り添って、歩くことができたのだろうか。 
けれどもそれは、レティシアにとって、ありえない夢、幻想だった。 
そっと、眼を伏せた。 



 その時、曲がり角の少し手前で、露天商らしい見すぼらしい初老の男が、酒瓶を手にしたまま、ある店の灯りの下で寝入ってしまっているのが、眼に入った。 
どうやら荷を広げたまま夕刻から飲み始めて、そのまま眠ってしまったようだ。
夜でも、さほど寒さはなかったが、風邪でも引いてはいけないと、レティシアは自分の羽織っていた肩掛けを、男に掛けてやった。 
つと、眼に入って来たものがあって、レティシアは思わず、息を呑んだ。
後ろの気配を訝しげに思ったリックが振り返ると、酒瓶を抱えて寝入ってしまった露天商の前で、レティシアが座り込んでいた。 
ひそやかな灯に照らされるその横顔は、凍りついたように白く、思いつめたような表情をしていた。
「どうした?」 
リックの問いに、レティシアは答えなかった。
真剣な眼差しのその先には、露天商が広げた薄汚れた敷物の上に、親指の大きさほどの、ブリキのバッジが並んでいた。 
硬貨一枚で買うことのできる、安価で粗悪な子どものおもちゃだった。 
寝入ってしまった露天商の前から、とうに泥棒が持ち逃げしてしまっていても、おかしくなかったが、この酒飲みは、少しばかり運が良かった。
あれは、いつの頃だったのだろう…。 
レティシアの眼を引きつける、子猫の絵柄のバッジは、遠い昔、レティシアがまだダニエルと共にいた頃、やはり街で露天商が売っていたのと同じものだった。 
それを眼にした途端、幼いレティシアは、惹きつけられて、どうしても欲しくなった。 
それが、安価だとか、持ち物として相応しくないとか、そういったことは関係なく、その愛らしい絵柄に惹かれた。
でも、どうしても、言い出せなかった。
 買ってほしいという一言が、言い出せなかった。 
ダニエルが、不快な表情を浮かべるのがわかっていたから。 
リックは、不思議に思いながらも、硬貨を一枚、寝入った露天商の前に置くと、レティシアの視線の先にある、子猫の絵柄のバッジを手に取り、これか、と尋ねるようにレティシアに見せて、手の平に乗せた。
子猫のバッジ・・・。 
あの時、欲しくてたまらなかった。 
でも、決して言いだすことが、できなかった・・・。 
レティシアは、ぎゅっと、そのバッジを握りしめた。
胸が痛くなるほど苦しくなって、溢れそうになる涙をこらえるのが、精一杯だった。
「リック」
涙を溜めた瞳に微笑みを浮かべ、真っ直ぐにリックを見つめると、レティシアは努めて明るい声で言った。 
「今夜は、どうもありがとう。本当に楽しかった。おやすみなさい」 
そうして、顔を伏せると、リックの傍をすり抜けた。 
畜生、これが芝居なら、こいつは稀代の悪女だ! 
次の瞬間、リックはレティシアの腕を掴み、路地へ引き込むと、驚いた表情のレティシアの唇に、素早く唇を重ねた。 
レティシアは、一瞬、身を硬くして、やがて、そっと目を閉じた。
リックは、押さえていた想いを、全て伝え教えるかのように、レティシアの身体を強く抱きしめて、深く唇を重ねた。 
レティシアは、拒まなかった。
拒みたいとは、思わなかった。
「レティシア」 
リックは、激しく重ねた唇を離すと、レティシアの耳に、低い声で囁く。
「行くな」 
はっとした表情でレティシアが見上げると、灯の届かない暗闇のなかで、リックの深く黒い瞳が、レティシアを捕らえていた。 
レティシアは、眼を閉じて、リックの胸に頬を寄せた。 
行かなければならないのよ、リック。 
私は、あなたとは、一緒に行けないの。
私は、あなたと一緒に行けるような女ではないの。
レティシアは、心の中でそう叫んだ。 
けれども、それは言葉にはならなかった。 

 
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