Joker

海子

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12.愛しい時間

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 夜、一行はケインズフォードに到着した。 
リックとハリー、それにフィリップも一緒に、ケインズフォードのタヴァンの食堂で、遅い夕食を取っていた。
「明日が勝負だな」 
ハリーが、言った。 
明日の夕刻、フォレストバーグに、伯爵が来ているかどうか。 
それが、明暗を左右する。 



 レティシアは、タヴァンの自炊場の隅の小さなテーブルに座って、質素な夕飯を食べていた。 
時間が遅いせいか、自炊場には、もう誰もいなかった。
今夜のように、着くのが遅くなる時は、自炊ができず、食堂の料理をアンヌの部屋に持って上がり、給仕をした。 
そして、アンヌの食事が終わってから、自分の夕飯になるのだったが、リックやハリーが一緒ならともかく、女が食堂でひとり食べると言うのは、やはり目立った。
それに、アンヌやフィリップは、レティシアが食堂の料理を注文して、自分の部屋に持ち帰り、食べていたとしても、何も言わないことはよくわかっていたが、レティシアの方に遠慮があった。 
さほど、金銭的に余裕があるとは思えない、旅の途中だった。 
少しでも、切り詰めた方がいいだろうと、レティシアは思った。
それで、仕舞いがけの調理場で、残り物を安くゆずってもらって、自炊場の片隅で、簡単に済ませてしまうことが多かった。 
今夜も、残り物のパンとスープをもらい、自炊場の片隅で、急いで口に運んでいた。
仕事は、まだたくさんあった。 
荷物の整理、衣類の手入れ、アンヌの就寝の手伝い・・・。 
けれども、忙しい方が、アンジェラのことを忘れられてよかった。 
目一杯疲れて、ベッドに入れば、アンジェラを思い出す前に、眠れた。
昨夜も、ほとんど眠れなかったし・・・。 
そこまで考えて、レティシアは頬を抑えた。 
頬が赤くなっていくのが、わかった。 
今日一日中、昨夜の出来事が、ことあるごとに甦って、レティシアを慌てさせた。
リックが、何気なく手綱を取る姿を見ただけで、昨夜、この腕に素肌を抱かれたのだと、名前を呼ばれて振り返れば、この唇が、自分の身体のあらゆる場所に口づけたのだと甦って、鼓動が速くなった。 
そして、レティシアを見つめるリックの瞳が、これまでにないほど優しく、レティシアは嬉しいよりも、戸惑いを覚えた。
あんな風に、見つめられると、どうしたらいいのか、わからなくなる。 
微笑み返せばいいのだろうけれど、恥かしくて、俯いてしまった。
きっと、またリックに不愉快な思いをさせた・・・。
困ったわ。
どうしてしまったのかしら、私。
レティシアは、ぎゅうっと、自分の頬を抑えた。 
「こんなところにいたのか」 
そんなことを考えていたものだから、当の相手が、突然姿を現わして、レティシアは飛び上がりそうなほど、驚いた。
「何か、御用でしょうか?」 
実際、弾かれたように椅子から立ち上がった。 
「何か御用、だと」 
リックは、心外だ、という面持ちで、レティシアに近づいてくる。 
「俺たちには、親密さが足りない。そう思わないか?」 
リックが、すぐ傍まで来て、触れてきそうだったので、それを避けるかのように、今度は思わず、すとんと、椅子に座り落ちた。 



 今朝、アンヌの荷物を取りにタヴァンに戻った際、強引に部屋に引き込まれて、抱き寄せられて、口づけを交わした。 
時間が無いから急がないと、というレティシアの主張は、唇を塞がれて、無視された。
今朝の口づけは、これまでに比べると、随分と濃厚で、口づけながらリックの手が、服の上から、レティシアの身体のいたるところに触れて来た。
そして、リックの左腕は、レティシアをリックの腰に強く引き寄せた。
最初は、リックを押し戻そうとしたものの、段々抵抗したいのか、抵抗したくないのかわからなくなって、そうなるともう、されるがままになった。 
リックに、翻弄されているとは思うものの、どうしようもなかった。
その後、落ち着きを取り戻すのに、誰にも気取られないようにするのに、レティシアはどれほど気を使ったことだろう。
けれども、少し遅れて、タヴァンを出たレティシアを見て、ハリーが、ふっ、と、あきれた様なため息をついたので、昨夜から今しがたの出来事まで、みんな知られているのではないかと、慌てた。 



 今も、今朝と同じようなことをされるのではないかと思って、とっさに、リックを避けた。 
素直に、リックの胸に飛び込むということなど、思いつきもしなかった。 
そのレティシアの前に、リックは、皿を差し出し、テーブルに置いた。
「この時間だと、残り物だけどな」 
皿の上には、シードケーキがのっていた。
シードケーキは、甘さの中に、ほろ苦い独特の風味がある、焼き菓子だった。 
食堂から、持ってきたもののようだった。 
そういったお菓子を見るのは、久しぶりだった。
「随分、貧しいものを食っているんだな。太れないはずだ。今度から、俺たちと一緒に食えよ」
テーブルの上の、レティシアの夕食を見て、リックがそう言った。
「いいえ、私は、これくらいで、ちょうどいいの。お気遣い、ありがとう、嬉しいわ」 
レティシアは、夕飯を終えて、シードケーキにフォークを入れた。
程良い甘さが、疲れを忘れさせてくれるようだった。 
「ビールは、気に入らなかったみたいだからな。お前は、こっちの方がいいんだろう」
気付かれていた・・・。 
ラッセルで、二人で食事に出た時、注文したビールがあまり進まなかったことを、見られていたのだと、思った。
「うまいか?」 
「ええ、とても」 
「今度、ブリストンのバッカスで、アダムのシードケーキを食べるといい。アダムの作る料理は、完璧だ。きっとお前も気に入る」 
「ブリストンで・・・」 
「ああ。どうかしたか?」
「いいえ・・・。そうですね。いつか、ぜひ」 
そう言いつつ、レティシアはそっと視線を落した。
皿が空いて、レティシアは、フォークを置いた。
「リック、本当にありがとう。とても、おいしかったわ」
「礼は・・・、こっちで」 
そういうと、次の瞬間には、レティシアの唇は、塞がれていた。
リックは、口づけしながら、レティシアを椅子から立たせると、入れ替わる様に自分が座って、太腿の上にレティシアを座らせた。
レティシアに抵抗する暇など、なかった。 
リックの手が、服の上からレティシアの身体に触れる。 
誰かが来たら、一体どうするの。 
開いたままの、自炊場のドアが眼に入って、レティシアはそう思った。 
けれども、リックの唇が、ゆっくりと首筋を這い、レティシアの思考は急降下した。
服の上から優しく乳房に触れられて、昨夜の痺れるような陶酔が甦って来て、気付けば、小さな声を上げていた。
どうしたらいいのかわからなくなって、思わずリックに寄りかかって、広い胸に頬を寄せていた。 
「部屋に行こう」 
さすがに、リックもこれ以上はまずいと思って、唇を離した。
「それは・・・、無理ですわ。私、まだ仕事が残っていますもの」 
「仕事?仕事って、何の仕事だ?」 
「アンヌ様の、お休みの支度がありますの」 
「だったら、どんな手を使ってでも、早く寝かせろ」 
「そんなこと・・・」 
「大体、寝る支度くらい自分でしろよ。病人じゃあるまいし」 
「あなたは、アンヌ様を少し悪く言いすぎですわ」 
実際、レティシアにとって、アンヌは手のかからない女主人だった。 
毎日、レティシアがアンヌにするべきことは決まっていて、夕食が済み、着替えの手伝いをし、艶のある、美しい髪を丁寧にとかして、就寝の支度をすると、後は、取り立てて用を言いつけられることはなかった。
レティシアが、こうして夕食を食べている時も、気を使ってくれているのか、呼び出されることは、まずなかった。
公爵家の夕食とは比べ物にならない食事にも、アンヌが苦情を言うことはなかった。 
夕飯に何が出てきても、黙って、口に運んだ。
レティシアにしてみれば、公爵家の令嬢という立場のアンヌが、わがままひとつを言うわけでなく、アンジェラが具合の悪い時は、ほとんどそちらにかかりきりで、特段何の世話もできなかったのに、叱られるわけでもなく、本当に思いやりの深い、心優しい淑女に思えた。
そのアンヌとリックが、表面上、目立った諍いはないものの、内心では反発しあっているのが、レティシアは、とても残念だった。 
「あの女は気に入らない」
「それは、あなたが、アンヌ様のことをよく知らないからですわ」 
「あの女の話はもういい。とにかくあの女を寝かしつけたら、俺の部屋へ来い。いいな」 
リックは言い聞かせるように、レティシアの手を取った。 
「お約束はできません」 
「レティシア、俺を困らせるなよ」 
「困らせてなど、おりません。困らされているのは、私の方ですわ」 
「困らされている?へえ、どんな風に?」 
「それは・・・」
レティシアは、答えようがなくて、顔を伏せた。 
リックは、からかうような笑みを浮かべて、レティシアの瞳を覗きこみ、また強引に唇を寄せてくる。 
「レティシア」 
その声に、レティシアは、リックの太腿の上から跳ね起きた。 
慌てて、唇をぬぐって、自炊場の入口を見た。
アンヌが、立っていた。
「何か御用でしょうか?」 
顔が赤くなって、動揺で、早口になった。 
見られてしまった、アンヌ様に。 
知られてしまった、アンヌ様に。 
叱られるのではないかと、レティシアは身を固くした。 
けれども、アンヌはいつものように、表情を変えることはなかった。
「わたくしの聖書が、見当たりません」 
「すぐまいります」 
レティシアは、急いで、自炊場を後にした。 
レティシアの後から行くアンヌは、ちらりと、リックを横目で見て、立ち去った。 
それは、まるで、小馬鹿にするような目つきだった。
「ふん、洟垂れ娘のくせして」 
アンヌが立ち去った方を見つめたまま、険しい顔でリックは呟いた。 

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