Joker

海子

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12.愛しい時間

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 フィリップは、ベッドに仰向けになったまま、深い憂いを含んだ青い瞳で、天井を見つめていた。 
「アンジェラ」 
そう呟いてみた。 
お兄様、お兄様・・・。 
フィリップを呼ぶ、アンジェラの、澄んだ声。
フィリップを、じっとみつめる灰色の瞳。 
陽に当たって光る、柔らかな明るい茶色の巻き毛。 
ふわふわとした、心溶かす、甘い砂糖菓子のような、微笑み。 
フィリップは、胸を締め付けられるような、深くえぐられるような痛みを覚えて、ぎゅっと、眼を瞑った。
助けてやれなかった。 
守ってやれなかった。 
フィリップは、自分を責めた。 
どうしたところで、忘れられるはずなどなかった。
昼間、気が紛れている間は、どうにか自分を持ちこたえることができた。 
けれども、夜になって、部屋で一人になると、どうしようもない寂寥感がこみ上げて来て、心がずたずたに引き裂かれそうだった。
フィリップは、ベッドに起き上がって、手にしていた、金の繊細な細工が施された、円形の淡い緑色のペンダントを眼の前に近づけた。 
亡くなったアンジェラの首にかけられていた、遺品だった。 
それは、半年ほど前、フィリップが、街で見つけて、アンジェラに贈ったものだった。 
「とっても素敵だわ。本当に、ありがとう、お兄様」 
そういうアンジェラの表情は、それまでフィリップが眼にしたことのないほど、輝いていた。
アンジェラに、会いたかった。 
たまらなく、会いたいと思った。
けれども、それは、どうあっても叶わない望みだった。
フィリップは、枕元に置いてあった新聞が眼に入って、手に取った。 
先ほど、タヴァンの一階から、借りて来たものだった。 
新聞は、ユースティティアとグラディウスの、一進一退の攻防を伝えていた。
アルカンスィエルが落ちたからと言って、ユースティティアという国が、無くなったわけではない。 
ジャン王が無残に殺されたからといって、ユースティティア軍が、戦いを止めたわけではなかった。 
それなのに、自分は一体、ここで何をしているんだ? 
フィリップは、歯がゆかった。 
ユースティティアの危機に、何の力にもなっていない自分が。 
軍人の卵である自分が、戦いに背を向けていることが。 
ウッドフィールドを目指したのは、アンジェラのためだった。
そもそも、ウッドフィールドにアンジェラを送り届けたなら、フィリップは、ユースティティアに戻るつもりだった。
それは、アンジェラには言えなかったが、リックには伝えてあった。 
けれども、アンジェラが亡くなった今、何のためにウッドフィールドへ向かうのか。 
フィリップは、目的を見失っていた。
アンヌのため、といえば、それはそうかもしれなかった。 
ウッドフィールドにつけば、アンヌはリヴィングストン伯爵に保護されて、自分の屋敷ではない肩身の狭さはあるにせよ、ユースティティアにいた頃と変わらない貴族の生活が、待っているだろう。 
ウッドフィールドは、レティシアにとっても、働きやすい環境であるに違いなかった。 
アンジェラは、フィリップがウッドフィールで、穏やかに暮らすことを望んでいた。
もしもアンジェラが生きていれば、断ち難いユースティティアに対する思いはあったとしても、アンジェラのために、ウッドフィールド暮らすという選択は、ありえたかもしれない。 
けれども、アンジェラが亡くなり、自分は、一体ウッドフィールで何をするのか。
そう考えた時に、いくら考えても、答えが出で来なかった。 
けれども、今ここで、自分ひとりだけユースティティアに戻るとは、言い出しにくかった。
言い出したところで、みんなに止められただろう。 
フィリップ、ここまで来たんだ、今はともかくウッドフィールドへ向かおうと、言われて。 
だから、自分の正直な気持ちを誰にも言わずに、黙っていた。 
けれども、ユースティティアから離れれば離れるほど、祖国への思慕は募った。 
祖国を忘れて、ウッドフィールドでリヴィングストン伯爵に守られて、ぬくぬく暮らすことなど、到底できるはずがない。
先日、十七歳の誕生日を迎えたフィリップ・・・、デュヴィラール伯爵には、強い意思が芽生え始めていた。



 レティシアが、その日の用事を全て片付け終えた時、夜は更けていた。 
それでも、タヴァンの階下から、時折賑やかな声が、漏れ聞こえたので、酒場は遅くまでやっているようだった。
レティシアは、リックの部屋の前の薄暗い廊下で、じっとたたずんでいた。
どうしたらいいのかしら。 
リックは、後で部屋に来い、と言った。 
この扉の向こうで、リックは私を待っているのかしら。
そう思えば、早くノックをした方がいいように思えた。 
けれども、それはまるで、レティシアが今夜も、抱かれることを期待しているようで、なんだかとても恥ずかしいことのように思えた。 
その一方で、昨夜のように、もう一度リックに狂おしく抱かれたいという欲求を、どうしてもかき消すことが出来なかった。 
本当に、どうしてしまったのかしら、私。
レティシアは、やはりぎゅうっと、両手で頬を押さえた。
たった一度、抱かれただけのこと。 
たった一晩、委ねただけのこと。
それだけのことで、こうまでレティシアの身体に、リックの痕跡が刻まれて、心奪われてしまったことが、不思議で、信じられなかった。 
リックと肌を重ねる前には、もう戻れない。 
レティシアは、リックの部屋をノックしようと、手を振り上げた。 
でも、結局止めた。 
そっと、ため息をついた。
何をやっているのかしら、私。 
首を振って、自分の部屋に戻ろうと、振り返った。 
そして、驚いた。
階段のところで、リックが、笑いながら立っていた。
「お前が、真面目な女だということがよく分かった」 
可笑しそうに笑いながら、レティシアに近づいてくる。
レティシアは、急いで、その傍をすり抜けようとした。
「待てよ」 
リックは、軽々レティシアの身体を持ち上げると、自分の部屋に入った。
「ずっと見てらしたのね。嫌な方」 
レティシアは、リックを突き放そうと試みたが、無駄だった。 
リックは、ますます可笑しそうに笑いだした。
「これでも、褒めてるんだぜ。大方、自分から俺の部屋へ行くのが、照れくさかったんだろう?お前が自分の部屋に帰ってしまう前に、戻って来て良かった」 
リックは、ごく当然のようにレティシアを抱いたまま、ベッドに座った。 
レティシアは、顔を伏せたままだった。 
「こっちを向けよ」 
レティシアの顎に手をかけようとしたリックを、レティシアは振り払った。 
「レティシア」 
けれども、レティシアは、顔を背けた。
「怒ったのか?」 
レティシアは、反対を向いて、顔を見せなかった。 
なあ、と半ば強引にレティシアの顔を、自分の方へ向けて、リックは戸惑った。
リックを虜にする、その美しいヘーゼルの瞳が、涙を含んでいて、まばたきと共に、頬に伝った。
「俺が、悪かった。笑いすぎた」 
リックは、神妙な面持ちになった。 
「なあ、どうすれば、機嫌を直す?もう一度、シードケーキを持ってくるか?」 
リックは、レティシアの機嫌を伺うように、瞳を覗きこんだ。
レティシアは、答えなかった。 
「機嫌を直せよ」 
大抵の男がそうであるように、リックも女の涙は、苦手だった。 
ましてや、レティシアを泣かせた原因は、自分にあるのだから、少なからず罪悪感があった。
「私の、気持ちなんて・・・」 
「何?」 
「私の気持ちなんて、あなたにはわかりませんわ」 
「何の話だ?」
「今朝から、好きなように振舞って、私がどんなに困っているか、考えてはもらえませんもの」 
リックは、何のことかピンとこなかった。
「あんな風にされて、どうしたらいいかなんて、わかりませんもの」 
レティシアの瞳から、大粒の涙が伝った。 
そう言われて、ようやく、リックは思い当った。 
レティシアは、男に慣れてない。
それは、身体だけではないということか。 
要するに、心も、慣れてない。 
初めての経験に、気持ちが、追いついてないわけだ。
ようやく、リックは気付いた。
繊細な乙女心というものに。 
なんてこった。 
リックは、ふっと、ため息をついた。 
「俺が悪かった」 
リックは膝の上の、レティシアの手を取って、雑用で荒れたその指先を、見つめながら言った。
「男は、好きな女が傍にいると、すぐ手を出したくなる。好きな女が魅力的なら、尚更そうだ。ずっと触れていたくなる」 
レティシアの頬の涙を、リックは指で拭ってやった。 
「だけど、お前が困るなら、これからは、ちゃんとお前に触れていいか、聞いてからにする。お前が嫌なら、触れない。それでいいか?」
返事を促す様に、リックはレティシアの身体を揺すった。
レティシアは、小さくうなずいた。 
「早速聞く。今から、お前に触れていいか?昨夜みたいに、お前を抱きたい」 
黒い瞳を真っ直ぐに向け、単刀直入に聞かれて、レティシアは、答えに詰まった。 
けれども、素直に、リックの胸に頬を寄せて、小さくうなずいた。 
今、リックに抱かれたいという想いに、嘘を付く必要はないのだと、思えた。 
リックは、すぐに、レティシアの服のボタンをはずしにかかった。 
レティシアが裸になり、肌にリックの愛撫を受け始めるまでに、時間はかからなかった。
昨日とは、まるで違う。 
乳房に優しく触れるリックの指と、唇に、吐息をもらしながら、レティシアはそう思った。
こうして、肌を重ねることに、戸惑いと羞恥はまだ消えなかったけれど、昨夜のように、怖いとは思わなかった。
乳房に触れながら、喉元に、背中に、腰に這うリックの唇が、レティシアを甘やかに攻め立てる。 
レティシア、愛している。 
愛している、レティシア・・・。
耳元で、何度も囁かれて、言葉にならない想いが、レティシアの胸に溢れた。 
そっと指で秘所をなぞられて、レティシアは声を上げた。 
疼きに耐えるように、リックのたくましい身体にすがりついた。
少しずつ、リックが入って来て、レティシアは、まだ少し痛みを覚えた。 
けれども、昨日に比べると、随分痛みは和らいでいた。
リックの動きに合わせて、身体に走る疼きが次第に強くなっていき、喘ぎが抑えられなくなる。
レティシアが昇り詰めるのは、昨日よりも早かった。
レティシアが達した後、すぐにリックも低いうめき声を上げて、射った。 
余韻の中、リックの抱擁を受けながら、レティシアは、一層、愛が深まっていることに気付いた。
愛しさは、昨日よりも、ずっと募っていた。
レティシアは、眼を閉じて、リックの温もりを忘れないよう、心に刻んでいた。



 夜が、明け始めていた。
そろそろ出発の用意を始めなければならなかった。
レティシアよりも先に目覚めたリックは、ズボンを身に着けて、ベッドの端に座った。
レティシアは、まだ眠っていた。 
昨夜は、もう一度愛し合った後、ふたりとも、そのまま眠ってしまっていた。
レティシアの穏やかな寝顔を見つめながら、本当なら、このまま寝かしておいてやりたかった。
リックがそう思いながら、髪に触れても、起きる気配はなかった。
ブリストンに連れて帰ったら、好きなだけ愛し合った後、好きなだけ眠らせてやる。 
無垢な寝顔を見つめながら、そう思った。 
リックの指が、何度かレティシアの頬を撫でて、その瞳が、ゆっくりと開く。 
レティシアは、裸のまま、うつ伏せで、毛布が背中から下を隠しているものの、しなやかな肩と腕が、あらわになっていた。 
リックは、その肩に口づけずにはいられなかった。
「私、あのまま、眠って・・・」 
「疲れていたんだろう」 
リックは、レティシアの肩に、唇を当てながら答えた。
そこへ、突如、部屋をノックする音が高く響いた。
「リック、おはよう。ちょっといいかな」 
フィリップの声だった。
その時になって、部屋の鍵をかけていなかったことに気付いた二人だったが、もう遅すぎた。 
ふたりが、はっと、ドアの方へ眼を遣った瞬間、ドアが開いた。 
一瞬、フィリップと、レティシアの眼が合った。 
「ごめん!」 
フィリップは、蒼くなって、開きかけたドアを、そのままばたんと閉めた。 
リックがレティシアを見ると・・・、恥ずかしさで一杯だったのだろう、両手で顔を覆ったまま、動かなかった。
「まあ・・・、フィリップもお前も、免疫がついていいんじゃないか」 
リックはそれ以外に、慰めの言葉を知らなかった。 
 
 
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