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クロムウェル家
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後部に折りたたみの帆を装備した半月型の馬車に、おっとりとした白黒ぶち模様の大型馬。
その傍らに立つのは、きれいに口髭を整えた壮年の馭者だ。
馭者は朝の挨拶を口にすると、流れるような動作でドアを開いた。
馬車は2人乗り。
少しステップの高さがあるけど、ジャレッド団長の手を借りれば問題ない。
ただ、いつもの箱馬車よりも車幅が狭い。
ジャレッド団長が大きいからかもしれないけど、2人並ぶとぴたりと密着する。
なんだろう…すごく恥ずかしい…。
馭者が馭者台に座り、手綱を緩めて軽く馬の首に当てると、馬は軽快に歩き出した。
「この馬車で帰るわけじゃないですよね?」
「ああ。のんびりと朝食を食べるのも良いと思ってな」
ジャレッド団長は言って、膝に置いた籐のバスケットを軽く叩く。
今日は休みじゃない。
朝食を終えた後に第2騎士団へ帰る予定なのだけど、驚くべきことに貴族と私たちでは朝の活動時間が異なるのだという。
騎士団であれば、今は朝食の時間帯になるけど、貴族の朝は遅い。とは言え、社交シーズンの帝都のように昼夜逆転のような遅さではなく、一般に比べればのんびりとした朝なのだとか。
朝食は食堂でとるが、そこに辿り着くまでが長い。
特に女性は湯あみして化粧も施さなければならないので、侍女が起こしに来た後、ベッドの上で軽食をとる。
公爵家では果実水とビスケット、フルーツを添えたヨーグルトだ。
私も食べた。
この時も貴族の女性たちは気を抜かない。特に社交界デビューを果たしている女性たちは、軽食を食べながら1日の予定を組み立てるそうだ。夫人ともなれば、分刻みの予定を組むという。
腹ごしらえの後は湯あみだ。
バラの花弁を浮かべた湯船に浸かり、香りを肌に染み込ませる。
湯から上がれば、バスローブのまま椅子に座って、寝起きで浮腫んだ顔や手足のマッサージを受ける。次いで、髪の手入れだ。タオルで水気を切り、香油をなじませ、同時進行で手足の爪の手入れとなる。
私は緊張に冷や汗が止まらなかったけど、この間に奥様たちは予定に合わせた衣装と化粧、髪型を指示している。
それを聞くと、”のんびり”しているとは言い辛い…。
ちなみに、男性はマッサージも湯あみも化粧もないので、朝食までの時間を寝て過ごしたり執務室で仕事を熟しながら待つのだという。ハワード団長は第1騎士団団長ということで、朝早くに騎士団へ行き、朝食もそっちで済ますらしい。午前中いっぱいは訓練とミーティングに費やし、午後から公爵代理として執務に戻ってくるワーカホリックな一面を聞いた。
貴族といえば優雅で贅沢三昧かと思ったけど、内情は全く違う。単に忙しい時の顔を見せないだけだと知った。
ということで、奥様もそろそろ起きだす頃だけど、時間がかかりそうなので朝食は別々となった。
ジャレッド団長から提案された「外でゆっくりと食べないか」に否はなかった。
てっきり四阿あたりだと思ったので、馬車に乗せられて頭は混乱している。
馬車はぽくぽくと公爵邸の後方へと続く道を行く。
途中、朝日を浴びてキラキラと輝くガラス張りの温室が見えた。ハーブ園もあったし、人工的な小川も渡った。
遠目に見える、ブナノキで目隠しされた建物の影は、使用人の宿舎なのだという。同じデザインの棟が、6棟も並んでいる。そこに女中や下男、庭師などの下級使用人が暮らしているそうだ。下級使用人でも従僕は公爵邸の使用人部屋を使うらしい。いつでも動けるように主人の近くに待機していなければならないので、執事部屋の近くに配されているとか。
その使用人宿舎とは別に、代々公爵家に仕え、家令や執事を輩出するカルス家とオルセン家は、敷地内の別の場所に邸宅を贈与されている。あと公爵家を警護する兵も宿舎が別にあるとのこと。
さらに、馬車が進むにつれ、公爵邸ほどの大きさはないが、それなりの豪邸が幾つか建っているのも見えてきた。
中には雑木林の中に建つ瀟洒な趣の邸や、緩やかな勾配の丘の上に建つ豪邸もある。それぞれの邸には庭園が整えられ、立派な四阿がある。端っこに厩舎や車庫も見える。
邸の数や、それなりの距離をおいて建てられた様子は、豪華さを別にすれば村のようだ。
ただ、この馬車は公爵家の塀を越えていない。
その事実にぞっとする。
「あの…ここはまだ公爵家の敷地で合ってますか?」
「ああ、合っている」
スケールが違いすぎる。
「あの雑木林を抜けた先が第1騎士団駐屯地になる。当たり前だが、騎士団は塀の外だ。ちなみに、第2や第3とは違い、独身のみが宿舎住まいだ」
「全員宿舎じゃないんですね」
「第1は拠点が町中だからな。既婚者は自宅から通っているし、領外から来ている家族には貸家もある。その分、規則は細かい。それを守れないなら宿舎だ。第2第3の既婚者は、休日に家に帰っている」
ジャレッド団長は「それから」と、ぽつぽつと建つ邸を指さした。
「あれらは叔父上たちが住む別邸だ。本邸には祖父母と両親、兄上たちが暮らしている。要は公爵家を担う者が住む家だ。俺とグレンの部屋はまだ残っているが、いずれ別邸に移る。ああ、祖父母は1年ほど前から他国を巡る旅行に出かけているので今はいない」
「えっと…叔父たち?結婚していない親戚ってことですか?」
「そうではない。簡潔に言えば古代種の血統保護法による措置で、公爵家から外れるには一定の条件が必要になる。昔はそれなりに古代種の血を引く家門は在ったのだが、今や皇家含め4家しか残されていなくてな。貴重なのだ。何しろ、古代種は直系にしか生まれない。よって数は減るばかり。慌てて血統保護法を制定したものの、残ったのは4家という有様だ」
「直系のみ…」
「籍を抜けば古代種の子は生まれない。大伯母様が良い例だな。あそこは全員がビングリー家の毛色だ。逆に、籍さえ残していれば古代種は生まれる。それでも親等が離れる毎に古代種は産まれ辛くなる。兄上の子は古代種ばかりが産まれるが、俺やグレンの子になると確率は半分になる。孫になるとさらに確率は低い」
籍さえ入れておけばいいなんて、なんとも不思議な話だ。
「そういう訳で、籍を置いた親族が別邸に住む。空き家も多いが、管理のために誰かしら使用人が住み込み、邸を維持している。父には3人の弟がいるのだが、次男であるフリード叔父上は家族で帝都のタウンハウスに住んでいる。帝都と領地は距離があるから、帝都での社交を含む仕事を担っているのがフリード叔父上だ。三男のロレンツ叔父上は別邸に暮らし、父上の補佐として働いている。ロレンツ叔父上の奥方は、第3のカリー・ウィンタースの従伯母だ。ウィンタースのことは知っているだろう?」
「はい」
こくこくと頷く。
カリーはカッコイイを体現した女性だ。冷徹な口調は女性らしい温かみに欠けるが、とても優しいお姉さんのような人である。
そんなカリーの親戚がクロムウェル家に嫁いでいるとは、世間は広いようで狭い。まぁ、貴族あるあるなのかも知れないけど。
「末弟のドミトリー叔父上は帝国の何処かにいる。独身を謳歌する冒険者だ」
「冒険者…」
公爵家の人間が?
ぽかんとする私を他所に、ジャレッド団長の説明が続く。
「他にも叔祖父が2人だ。従兄弟も暮らしている」
「いっぱいいるんですね…。公爵家の血縁者は全員が対象なんですか?」
「いや。保護対象は基本2親等だが、公爵が代替わりしたからと言って、”さぁ、出て行け”とはならない。俺やグレンの子供は、タイラーに子供ができれば自由になる。新たに爵位を得ることも、どこかの家に婿入りすることもできる。実際、従兄弟たちは婿入りしている者もいるし、爵位を得て新しい姓を名乗る者もいる。まぁ、従兄弟たちは叔父上たちが逝去すれば別邸を出なくてはならないからな」
「それじゃあ、直系に生まれたら、すごく好きな人ができても、その人が婿入り希望なら諦めなくちゃならないんですね」
「タイラーが結婚して2人以上の子を設け、その子が一定の年齢まで育つことが出来れば、俺とグレンは除籍が可能となるが、煩雑な手続きがいるので現実的ではないな」
徹底した血統管理だ。
こうして別邸を用意してくれるなら至れり尽くせりに見えるけど、多くの選択肢を諦めざる終えないのだとしたら不憫だ。
ジャレッド団長の渋面から視線を逸らし、長閑な風景を眺める。
人っ子一人いない…と言いたいところだけど、番犬を連れて巡回している衛兵がいるし、庭師と言いていいのかどうか。敷地を整備している使用人の姿も見える。雑木林も人手を入れ、爽やかな木漏れ日を計算して伐採しているようだ。
「見えてきたな。あれが敷地の端だ」
そう言ってジャレッド団長が指さしたのは、とても個人宅の敷地とは思えない牧場だった。
放牧されているのは馬で、スピード重視の軽種から馬車を牽引する重種の馬まで数十頭が、草を食んだり走り回ったりと自由に過ごしている。
馬場横の大厩舎では、早朝から厩務員が馬糞を掻き、農夫らしき男性たちが馬糞を盛った手押し車を押している。
馬糞は肥料になるので、騎士団や駅馬車の厩舎などには朝一に農夫たちが馬糞を回収しに来る。それはハノンでも同じだったけど、ハノンには十分な馬糞を集めることはできなかったので、低ランク冒険者が馬糞集めとして隣町に赴いたりしていた。
ここでは馬糞に困ることはなさそうだ。
「公爵家は、馬を育てているんですか?」
「いや。グッドウィン領から買った馬だ。グッドウィン領は帝国では有名な馬の産地で、売るのは馴致が行われる1才以上の牡馬のみ。牝馬は決して外に出さないと管理を徹底している。それだけあって名馬が多い」
ジャレッド団長の手を借りて馬車を降りると、馬たちの間を縫ってアヒルが歩いているのが見えた。
今にもヤギや羊まで出てきそうな長閑な様子に、うっかり個人宅の敷地だと忘れそうになる。
「じゅんち?って何ですか?」
「馴致とは馬具に慣れさせることだ。騎士に下賜するなら、馴致訓練後に騎乗訓練も行われる。2才で相性の良さそうな騎士を馬に選ばせ、相棒となるんだ」
意外と手間暇がかかるのか。
てっきり、馬は生まれつき人を乗せることに抵抗がないのだと思っていた。
しかも選ぶのは騎士じゃなくて馬とは…。
「騎士団の馬もグッドウィン産なんですか?」
「いや、流石にそこまでの予算は組めない。公爵領にも3ヵ所ほど牧場がある。騎士団所有の馬は、その3ヵ所で育てられている」
ジャレッド団長は肩を竦め、のそりのそりとやって来た栗毛の大型馬の首を撫でる。
公爵家の大きな客車を難なく牽くだけあって、かなり大きな馬だ。でも長い睫毛の下の瞳は優しげで、柵から伸びた首と、バスケットを強請るようにもそもそ動く上唇には愛嬌がある。
朝食を狙う不届き者をジャレッド団長がぞんざいに追い払うと、馬はばっさばっさと尻尾を振りながら去って行った。
「ベンチで良いか?」
眩しげに太陽を仰ぎながら言うジャレッド団長に、こくりと頷く。
まだ陽射しも強くないし、もこもことした小さな雲が陽射しを遮ることもある。
「ここは風がよく通って気持ちいので、そこまで暑くはないです」
「そうか」
と、穏やかに目を細め、流れるように手を握られる。
最近、ジャレッド団長はよく手を繋ぐ。こうして手を繋がれ、私の歩幅に合わせて歩かれるのはむず痒さがある。
少し前の、私を置き去りにずんずん歩いて行った頃が懐かしい。戻ってほしいとは思わないけど、甘やかな雰囲気は落ち着かない。
年季の入ったベンチに座って、なぜかジャレッド団長はバスケットを膝に抱えたままぴたりと横に座った。
「あの…バスケットは真ん中に置いた方が良いんじゃないですか?」
「これで構わない」
ジャレッド団長は口元に笑みを刷いて、バスケットを隣に置く。
バスケットは2段になっていて、上段に皿やカトラリー、ボトルにグラス、スライスされたライ麦パンが詰められていた。
なんだか見ているだけでワクワクする。
「給仕は俺だからな」
と、ジャレッド団長は私の膝の上にハンカチを広げると、ボトルとグラスを取り出す。グラスに注がれたのは、オレンジの香る果実水だ。
次いで、バスケットの上段を外す。
下段には色とりどりの具材だ。
どうやら朝食はオープンサンドらしい。
ジャレッド団長は蓋に止められた皿とフォークを手にし、器用にライ麦パンを皿の上に乗せた。
具材はレタスにローストビーフ、ソテーされたキノコ。
ローストビーフが山盛りすぎて、今にも雪崩を起こしそうだ。
ああでもない、こうでもないと盛り付ける様子に、思わず苦笑が漏れた。
「ジャレッド団長。盛り過ぎです。それだと口に入らずに落っこちますよ」
「そ、そうか…。では、これは俺が食べよう」
「私のは…」
ジャレッド団長の腕を掴んでバスケットを覗き込むと、料理人が丁寧に具材を並べていた。
厚切りベーコンに生ハム、トマトにクリームチーズにマッシュポテト。3つの小瓶に入っているのはブルーベリーやマスタード、マヨネーズだ。
「クリームチーズと生ハム、ブルーベリーでお願いします」
「分かった」
心なし嬉しそうな声音で、ジャレッド団長の給仕は続く。
ただ、ジャレッド団長の盛り付けるオープンサンドは、何度言っても山となった…。
その傍らに立つのは、きれいに口髭を整えた壮年の馭者だ。
馭者は朝の挨拶を口にすると、流れるような動作でドアを開いた。
馬車は2人乗り。
少しステップの高さがあるけど、ジャレッド団長の手を借りれば問題ない。
ただ、いつもの箱馬車よりも車幅が狭い。
ジャレッド団長が大きいからかもしれないけど、2人並ぶとぴたりと密着する。
なんだろう…すごく恥ずかしい…。
馭者が馭者台に座り、手綱を緩めて軽く馬の首に当てると、馬は軽快に歩き出した。
「この馬車で帰るわけじゃないですよね?」
「ああ。のんびりと朝食を食べるのも良いと思ってな」
ジャレッド団長は言って、膝に置いた籐のバスケットを軽く叩く。
今日は休みじゃない。
朝食を終えた後に第2騎士団へ帰る予定なのだけど、驚くべきことに貴族と私たちでは朝の活動時間が異なるのだという。
騎士団であれば、今は朝食の時間帯になるけど、貴族の朝は遅い。とは言え、社交シーズンの帝都のように昼夜逆転のような遅さではなく、一般に比べればのんびりとした朝なのだとか。
朝食は食堂でとるが、そこに辿り着くまでが長い。
特に女性は湯あみして化粧も施さなければならないので、侍女が起こしに来た後、ベッドの上で軽食をとる。
公爵家では果実水とビスケット、フルーツを添えたヨーグルトだ。
私も食べた。
この時も貴族の女性たちは気を抜かない。特に社交界デビューを果たしている女性たちは、軽食を食べながら1日の予定を組み立てるそうだ。夫人ともなれば、分刻みの予定を組むという。
腹ごしらえの後は湯あみだ。
バラの花弁を浮かべた湯船に浸かり、香りを肌に染み込ませる。
湯から上がれば、バスローブのまま椅子に座って、寝起きで浮腫んだ顔や手足のマッサージを受ける。次いで、髪の手入れだ。タオルで水気を切り、香油をなじませ、同時進行で手足の爪の手入れとなる。
私は緊張に冷や汗が止まらなかったけど、この間に奥様たちは予定に合わせた衣装と化粧、髪型を指示している。
それを聞くと、”のんびり”しているとは言い辛い…。
ちなみに、男性はマッサージも湯あみも化粧もないので、朝食までの時間を寝て過ごしたり執務室で仕事を熟しながら待つのだという。ハワード団長は第1騎士団団長ということで、朝早くに騎士団へ行き、朝食もそっちで済ますらしい。午前中いっぱいは訓練とミーティングに費やし、午後から公爵代理として執務に戻ってくるワーカホリックな一面を聞いた。
貴族といえば優雅で贅沢三昧かと思ったけど、内情は全く違う。単に忙しい時の顔を見せないだけだと知った。
ということで、奥様もそろそろ起きだす頃だけど、時間がかかりそうなので朝食は別々となった。
ジャレッド団長から提案された「外でゆっくりと食べないか」に否はなかった。
てっきり四阿あたりだと思ったので、馬車に乗せられて頭は混乱している。
馬車はぽくぽくと公爵邸の後方へと続く道を行く。
途中、朝日を浴びてキラキラと輝くガラス張りの温室が見えた。ハーブ園もあったし、人工的な小川も渡った。
遠目に見える、ブナノキで目隠しされた建物の影は、使用人の宿舎なのだという。同じデザインの棟が、6棟も並んでいる。そこに女中や下男、庭師などの下級使用人が暮らしているそうだ。下級使用人でも従僕は公爵邸の使用人部屋を使うらしい。いつでも動けるように主人の近くに待機していなければならないので、執事部屋の近くに配されているとか。
その使用人宿舎とは別に、代々公爵家に仕え、家令や執事を輩出するカルス家とオルセン家は、敷地内の別の場所に邸宅を贈与されている。あと公爵家を警護する兵も宿舎が別にあるとのこと。
さらに、馬車が進むにつれ、公爵邸ほどの大きさはないが、それなりの豪邸が幾つか建っているのも見えてきた。
中には雑木林の中に建つ瀟洒な趣の邸や、緩やかな勾配の丘の上に建つ豪邸もある。それぞれの邸には庭園が整えられ、立派な四阿がある。端っこに厩舎や車庫も見える。
邸の数や、それなりの距離をおいて建てられた様子は、豪華さを別にすれば村のようだ。
ただ、この馬車は公爵家の塀を越えていない。
その事実にぞっとする。
「あの…ここはまだ公爵家の敷地で合ってますか?」
「ああ、合っている」
スケールが違いすぎる。
「あの雑木林を抜けた先が第1騎士団駐屯地になる。当たり前だが、騎士団は塀の外だ。ちなみに、第2や第3とは違い、独身のみが宿舎住まいだ」
「全員宿舎じゃないんですね」
「第1は拠点が町中だからな。既婚者は自宅から通っているし、領外から来ている家族には貸家もある。その分、規則は細かい。それを守れないなら宿舎だ。第2第3の既婚者は、休日に家に帰っている」
ジャレッド団長は「それから」と、ぽつぽつと建つ邸を指さした。
「あれらは叔父上たちが住む別邸だ。本邸には祖父母と両親、兄上たちが暮らしている。要は公爵家を担う者が住む家だ。俺とグレンの部屋はまだ残っているが、いずれ別邸に移る。ああ、祖父母は1年ほど前から他国を巡る旅行に出かけているので今はいない」
「えっと…叔父たち?結婚していない親戚ってことですか?」
「そうではない。簡潔に言えば古代種の血統保護法による措置で、公爵家から外れるには一定の条件が必要になる。昔はそれなりに古代種の血を引く家門は在ったのだが、今や皇家含め4家しか残されていなくてな。貴重なのだ。何しろ、古代種は直系にしか生まれない。よって数は減るばかり。慌てて血統保護法を制定したものの、残ったのは4家という有様だ」
「直系のみ…」
「籍を抜けば古代種の子は生まれない。大伯母様が良い例だな。あそこは全員がビングリー家の毛色だ。逆に、籍さえ残していれば古代種は生まれる。それでも親等が離れる毎に古代種は産まれ辛くなる。兄上の子は古代種ばかりが産まれるが、俺やグレンの子になると確率は半分になる。孫になるとさらに確率は低い」
籍さえ入れておけばいいなんて、なんとも不思議な話だ。
「そういう訳で、籍を置いた親族が別邸に住む。空き家も多いが、管理のために誰かしら使用人が住み込み、邸を維持している。父には3人の弟がいるのだが、次男であるフリード叔父上は家族で帝都のタウンハウスに住んでいる。帝都と領地は距離があるから、帝都での社交を含む仕事を担っているのがフリード叔父上だ。三男のロレンツ叔父上は別邸に暮らし、父上の補佐として働いている。ロレンツ叔父上の奥方は、第3のカリー・ウィンタースの従伯母だ。ウィンタースのことは知っているだろう?」
「はい」
こくこくと頷く。
カリーはカッコイイを体現した女性だ。冷徹な口調は女性らしい温かみに欠けるが、とても優しいお姉さんのような人である。
そんなカリーの親戚がクロムウェル家に嫁いでいるとは、世間は広いようで狭い。まぁ、貴族あるあるなのかも知れないけど。
「末弟のドミトリー叔父上は帝国の何処かにいる。独身を謳歌する冒険者だ」
「冒険者…」
公爵家の人間が?
ぽかんとする私を他所に、ジャレッド団長の説明が続く。
「他にも叔祖父が2人だ。従兄弟も暮らしている」
「いっぱいいるんですね…。公爵家の血縁者は全員が対象なんですか?」
「いや。保護対象は基本2親等だが、公爵が代替わりしたからと言って、”さぁ、出て行け”とはならない。俺やグレンの子供は、タイラーに子供ができれば自由になる。新たに爵位を得ることも、どこかの家に婿入りすることもできる。実際、従兄弟たちは婿入りしている者もいるし、爵位を得て新しい姓を名乗る者もいる。まぁ、従兄弟たちは叔父上たちが逝去すれば別邸を出なくてはならないからな」
「それじゃあ、直系に生まれたら、すごく好きな人ができても、その人が婿入り希望なら諦めなくちゃならないんですね」
「タイラーが結婚して2人以上の子を設け、その子が一定の年齢まで育つことが出来れば、俺とグレンは除籍が可能となるが、煩雑な手続きがいるので現実的ではないな」
徹底した血統管理だ。
こうして別邸を用意してくれるなら至れり尽くせりに見えるけど、多くの選択肢を諦めざる終えないのだとしたら不憫だ。
ジャレッド団長の渋面から視線を逸らし、長閑な風景を眺める。
人っ子一人いない…と言いたいところだけど、番犬を連れて巡回している衛兵がいるし、庭師と言いていいのかどうか。敷地を整備している使用人の姿も見える。雑木林も人手を入れ、爽やかな木漏れ日を計算して伐採しているようだ。
「見えてきたな。あれが敷地の端だ」
そう言ってジャレッド団長が指さしたのは、とても個人宅の敷地とは思えない牧場だった。
放牧されているのは馬で、スピード重視の軽種から馬車を牽引する重種の馬まで数十頭が、草を食んだり走り回ったりと自由に過ごしている。
馬場横の大厩舎では、早朝から厩務員が馬糞を掻き、農夫らしき男性たちが馬糞を盛った手押し車を押している。
馬糞は肥料になるので、騎士団や駅馬車の厩舎などには朝一に農夫たちが馬糞を回収しに来る。それはハノンでも同じだったけど、ハノンには十分な馬糞を集めることはできなかったので、低ランク冒険者が馬糞集めとして隣町に赴いたりしていた。
ここでは馬糞に困ることはなさそうだ。
「公爵家は、馬を育てているんですか?」
「いや。グッドウィン領から買った馬だ。グッドウィン領は帝国では有名な馬の産地で、売るのは馴致が行われる1才以上の牡馬のみ。牝馬は決して外に出さないと管理を徹底している。それだけあって名馬が多い」
ジャレッド団長の手を借りて馬車を降りると、馬たちの間を縫ってアヒルが歩いているのが見えた。
今にもヤギや羊まで出てきそうな長閑な様子に、うっかり個人宅の敷地だと忘れそうになる。
「じゅんち?って何ですか?」
「馴致とは馬具に慣れさせることだ。騎士に下賜するなら、馴致訓練後に騎乗訓練も行われる。2才で相性の良さそうな騎士を馬に選ばせ、相棒となるんだ」
意外と手間暇がかかるのか。
てっきり、馬は生まれつき人を乗せることに抵抗がないのだと思っていた。
しかも選ぶのは騎士じゃなくて馬とは…。
「騎士団の馬もグッドウィン産なんですか?」
「いや、流石にそこまでの予算は組めない。公爵領にも3ヵ所ほど牧場がある。騎士団所有の馬は、その3ヵ所で育てられている」
ジャレッド団長は肩を竦め、のそりのそりとやって来た栗毛の大型馬の首を撫でる。
公爵家の大きな客車を難なく牽くだけあって、かなり大きな馬だ。でも長い睫毛の下の瞳は優しげで、柵から伸びた首と、バスケットを強請るようにもそもそ動く上唇には愛嬌がある。
朝食を狙う不届き者をジャレッド団長がぞんざいに追い払うと、馬はばっさばっさと尻尾を振りながら去って行った。
「ベンチで良いか?」
眩しげに太陽を仰ぎながら言うジャレッド団長に、こくりと頷く。
まだ陽射しも強くないし、もこもことした小さな雲が陽射しを遮ることもある。
「ここは風がよく通って気持ちいので、そこまで暑くはないです」
「そうか」
と、穏やかに目を細め、流れるように手を握られる。
最近、ジャレッド団長はよく手を繋ぐ。こうして手を繋がれ、私の歩幅に合わせて歩かれるのはむず痒さがある。
少し前の、私を置き去りにずんずん歩いて行った頃が懐かしい。戻ってほしいとは思わないけど、甘やかな雰囲気は落ち着かない。
年季の入ったベンチに座って、なぜかジャレッド団長はバスケットを膝に抱えたままぴたりと横に座った。
「あの…バスケットは真ん中に置いた方が良いんじゃないですか?」
「これで構わない」
ジャレッド団長は口元に笑みを刷いて、バスケットを隣に置く。
バスケットは2段になっていて、上段に皿やカトラリー、ボトルにグラス、スライスされたライ麦パンが詰められていた。
なんだか見ているだけでワクワクする。
「給仕は俺だからな」
と、ジャレッド団長は私の膝の上にハンカチを広げると、ボトルとグラスを取り出す。グラスに注がれたのは、オレンジの香る果実水だ。
次いで、バスケットの上段を外す。
下段には色とりどりの具材だ。
どうやら朝食はオープンサンドらしい。
ジャレッド団長は蓋に止められた皿とフォークを手にし、器用にライ麦パンを皿の上に乗せた。
具材はレタスにローストビーフ、ソテーされたキノコ。
ローストビーフが山盛りすぎて、今にも雪崩を起こしそうだ。
ああでもない、こうでもないと盛り付ける様子に、思わず苦笑が漏れた。
「ジャレッド団長。盛り過ぎです。それだと口に入らずに落っこちますよ」
「そ、そうか…。では、これは俺が食べよう」
「私のは…」
ジャレッド団長の腕を掴んでバスケットを覗き込むと、料理人が丁寧に具材を並べていた。
厚切りベーコンに生ハム、トマトにクリームチーズにマッシュポテト。3つの小瓶に入っているのはブルーベリーやマスタード、マヨネーズだ。
「クリームチーズと生ハム、ブルーベリーでお願いします」
「分かった」
心なし嬉しそうな声音で、ジャレッド団長の給仕は続く。
ただ、ジャレッド団長の盛り付けるオープンサンドは、何度言っても山となった…。
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